007 美濃の蝶、本気を出す
その日は、朝から嫌な風が吹いていた。
「……ユイ様。演算結果が、おかしいのです」
ザガンの片眼鏡が、かたかたと震えていた。
「本日の脅威予測を計算したところ、数値が―― 『測定不能』と」
「あら。私以外にも出るのね、それ」
「笑いごとではありませぬ! この数値、魔王軍の全戦力を足しても届きませぬ――」
その時、空が、暗くなった。
雲ではない。日蝕でもない。――翼だった。地平線から地平線まで届くかという漆黒の翼が、太陽を覆い隠したのだ。
『――見ツケタゾ』
声というより、大気の震えだった。村の窓硝子が一斉に砕け、聖鶏たちが悲鳴を上げて小屋へ逃げ込む。
降りてきたのは、山だった。山のような、竜だった。
「さ、【災厄竜】ヴェルドラノス……! 千年前、大陸の三分の一を焼いた古代竜! 神話の存在ですぞ!」
ザガンが尻餅をつく。フェンリアが大剣を構え、しかしその手が、じわりと汗ばんだ。
「……馬鹿な。私の勘が『逃げろ』と言っている。三傑の私の勘が、だ」
『四月前、天ヲ貫イタ光――アノ魔力、貴様ラノ村カラダナ。千年眠ッタ我ヲ起コシタ、アノ光ノ主ヲ出セ。喰ラッテ、我ガ糧トスル』
(……あわわ。あれね。私が生まれた日に、うっかり出したあの光の柱。あの時、大陸中の古代竜が目を覚ましたって女神様が言っていたけれど……本当に来るとは思わないじゃない!)
「させるか! 勇者セレナ=ヴァルハラ、参る!」
セレナが斬りかかった。フェンリア仕込みの、最速の一閃。それは確かに竜の前脚に届き――鱗の一枚も、削れなかった。
『羽虫ガ』
竜の尾が、無造作に薙がれた。セレナとフェンリアとバルガスが、まとめて吹き飛ぶ。三人とも受け身は取った。取ったが、地面に刻まれた尾の跡は、谷になっていた。
『次ハ消エルゾ、羽虫ドモ。――光ノ主ヲ、出セ』
竜の顎が開く。喉の奥に、太陽より白い炎が凝っていく。狙いは村。逃げ遅れた村人たち。リリアの腕の中で、村の赤ん坊が泣いている。
その時。
「――そこまでよ」
小さな、しかしよく通る声がした。
クッションから、赤ん坊が降りた。這い這いではない。ふわり、と宙に浮いたのだ。
「あら。浮いたわ」
「十三番【天翔】、ただ今開示されました!」
「開示が実戦と同時なのやめてくれない!?」
ぱたぱたと、見えない羽で羽ばたくように、ユイは竜の眼前まで昇っていく。
『……何ダ、貴様ハ』
「この村の者は、私の家中よ。家中に手を出す者は
――容赦しない、と決めているの」
『赤子……? イヤ、違ウ。コノ魔力……貴様カ! 貴様ガ光ノ主カ!』
「ええ。それと、もう一つ訂正なさい」
赤ん坊の瞳が、すっと細くなった。
「羽虫ではないわ。――蝶よ」
竜の白炎が、放たれた。大陸の三分の一を焼いた神話の息吹。村どころか地平線まで蒸発させる一撃が、赤ん坊一人に叩きつけられ――
消えた。
ユイが、小さな手で払いのけたのだ。着物の袖の埃を払うように。神話の炎は千々の光の粒になって、無害な花吹雪のように村へ降りそそいだ。
『……ナ』
「熱いお茶は好きよ。でも、人様の庭で火を焚くのは無作法というものでしょう」
『オノレエエエエ!』
竜の爪が振り下ろされる。山を砕く一撃。ユイは避けない。人差し指を、ちょん、と立てただけだった。
ぴたり。
巨大な爪が、赤ん坊の指一本に止められていた。押しても引いても、微動だにしない。
『バ、バカナ……我ノ爪ガ……!』
「重いわね。……でも、柴田様の槍のほうが重かったわよ。気迫がね」
ユイは指を、くい、と返した。それだけで山のような巨体が独楽のように回転し、天高く舞い上がった。
「そして――三番【概念武装解放】」
彼女は、両手を静かに合わせ、開いた。
合わせた手のひらから、光が溢れた。それは無数の、蝶になった。緋色の、光の蝶。一羽、十羽、百羽、千羽――やがて空を埋め尽くす、緋蝶の大群。
「あの子たちはね、『斬る』とか『燃やす』ではないの。触れたものの――『敵意』だけを、食べるのよ」
緋蝶の群れが、舞い上がった竜に殺到した。竜は炎を吐き、爪を振るい、翼で薙ぎ払う。だが蝶は斬れない。蝶は燃えない。光の群れは嵐のように竜を包み込み――そして、静かになった。
どさり、と。
地に降りた災厄竜は、憑き物の落ちた目で、ぽかんと空を見上げていた。千年分の怒りも、飢えも、破壊衝動も、緋蝶がきれいに食べてしまったのである。
『………………我ハ、何ヲ、アンナニ怒ッテイタノダ……?』
「お腹が空いて、眠りを妨げられて、機嫌が悪かったのよ。うちの村の赤ん坊も、よく泣くわ。同じ理由で」
ユイはふわふわと降りてきて、竜の鼻先にちょこんと座った。神話の竜と、生後四ヶ月の赤子。世界で最も奇妙な対面だった。
『……貴様、我ノ言葉ガ分カルノカ』
「ええ、八番のおかげでね。……あなたのその喋り方、堅苦しくて肩が凝りそうだわ」
『千年、誰トモ話シテオラン。忘レタノダ、砕ケタ喋リ方ヲ』
「まあ。……ねえヴェルドラノス。あなた、村を焼こうとしたわね。落とし前は、つけてもらうわよ」
『……我ヲ、殺スカ』
「まさか。働いて返すのよ。……ちょうど、欲しかったの」
赤ん坊は、にっこり笑った。
「大きくて、速くて、雨風がしのげる――乗り物がね」
◆ ◆ ◆
一刻後。リーフェ村の広場に、村人たちの歓声が響いていた。
災厄竜ヴェルドラノスの広い背に(『我は、丁度良い大きさになれるのだ』)、緋色の座布団(神器クッション改)が据えられ、その上でユイが白湯を飲んでいる。神話の竜は、この上なく安全運転で村の上空を一周した。
「ユイ様ー! お似合いですぞー!」
「竜の駕籠とは、豪気ですなあ!」
『……我、千年生キテ、初メテ「駕籠」ト呼バレタ』
「いいじゃない。日当は芋煮三十杯よ」
『……悪クナイ』
地上では、吹き飛ばされた三人が、砂まみれのまま空を見上げていた。
「……フェンリア殿。師匠って、あんなに強かったんですね……」
「……ああ。だが小娘、恐ろしいのはそこではない。あの御方、神話の竜を相手に――最初から最後まで、説教しかしておらんかったぞ」
「魔王軍の全戦力より、あの説教のほうが強い。我が輩の演算、確定です」
◆ ◆ ◆
その頃、魔王城。
物見の塔から水平線の彼方の閃光を観測していた軍団長たちは、全員、無言だった。
「……今の光は、なんだ」
「観測班によれば……災厄竜ヴェルドラノスの魔力反応が、例の村の上空で出現し……約五分で、消失」
「消失!? 死んだのか!?」
「いえ、それが……生きています。生きて、村の上空を……ゆっくり、旋回しています。まるで――手懐けられたように」
軍議の間に、深い沈黙が落ちた。誰も「攻めよう」とは言わなかった。言えるはずがなかった。
そして玉座の間で、魔王は一人、立ち上がった。
「――神話の竜を、五分。しかも殺さず、従える、か」
千年、玉座で退屈していた男の瞳に、初めて炎が灯った。
「決めたぞ。もう軍団長も三傑も送らぬ。……余が、直々に会いに行く。その『光の主』とやらに」
◆ ◆ ◆
数百年後の歴史書には、こう記されている。
――災厄の竜、聖母の御前に五分で降り、以後、聖母の乗り物となる。聖母、竜に給金を払う。日当、芋煮三十杯。
「今回は全部事実なのが、一番困るのよね」
歴史書というものは、いつだって少し大げさである。だがこの日ばかりは、現実のほうが大げさだった。
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プロローグを含めて、全部で15話のお話しです。
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