006 餓狼は、まず腹ごしらえから
その朝、リーフェ村の食堂に、見慣れぬ客が入ってきた。
――なお、この「食堂」は、卵の売上で村長宅の土間を改装したものである。査察官が帰った翌週、ユイが「せっかく人が来る村になったのだから、旅人が飯を食える場所くらいは要るわ」と言い出し、三日で建った。
「……芋煮を。大盛りで」
「あいよ! 旅の人かい?」
「ああ。……百年ぶりの、な」
ぼろぼろの外套。目深なフード。腰には、布でぐるぐる巻きにした長い得物。
――魔王軍三傑が一人、「餓狼」フェンリア。軍団長十人分と謳われ、百年前の大戦で王国騎士団を三つ、一晩で沈めた生ける伝説である。
任務は偵察。そして可能ならば、例の「超級勇者」の暗殺。
(まずは腹ごしらえだ。百年寝ていたのだ、腹が減って戦などできるか。……ふむ、この芋煮とやら、なかなか良い匂い――)
一口。
フェンリアの動きが、止まった。
(………………なんだ、これは)
二口。三口。気づけば椀は空だった。
「お、おかわり」
「あいよ!」
七杯目を空にしたところで、彼女は我に返った。いかん。任務だ。偵察だ。私は伝説の餓狼。この程度の飯で――
「本日のおまけです。聖鶏の卵のぷりん、どうぞ」
「ぷ、ぷりん……?」
一匙。
百年の眠りより深い衝撃が、金色の瞳を貫いた。
「……おかわり」
偵察初日は、食べて終わった。
◆ ◆ ◆
「――で。あの窓の外の狼さん、いつまで見ているのかしらね」
三日後。ユイはクッションの上で白湯をすすりながら言った。
「し、師匠、気づいてたんですか!? 私、全然……」
「初日からよ。桁違いの魔力を布で巻いて隠しているけれど、隠し方が古いのよね。百年前の流儀だわ」
(……いえ、正直に言うと、頭が勝手に教えてくるのよ。『魔力遮蔽術式・第七世代、既に旧式』って。……私、剣術も魔術も習ったことがないのに、他人の技を格付けしてしまうの。怖いわ。あわわわ、また博識な私が出たわ)
傍らでザガンの片眼鏡が震えた。
「あ、あの魔力紋……間違いありません、三傑筆頭 『餓狼』フェンリア! 我が輩たちが束になっても敵わぬ、魔王軍最終戦力です! なぜ攻めてこないのです!?」
「毎日、食堂に通っているからよ」
「は?」
「昨日はぷりんを十一個食べていたわ」
「餓狼が、ぷりんを……?」
その時、窓の外の気配が、すっと消えた。そして次の瞬間、食堂の方から村人の悲鳴が上がった。
「た、大変だ! 旅のお客さんが、店の前で倒れてる!」
◆ ◆ ◆
フェンリアは、食堂の前で行き倒れていた。
原因は単純である。百年ぶりに目覚めた彼女は、無一文だった。三日分の飯代で懐は尽き、しかし村の飯の記憶が彼女を店先から離さず、空腹と誇りの板挟みの末、燃料切れで沈んだのだ。
「……うう。飯の匂いだけで、白湯が飲める……」
「あなた、その白湯すら頼めていないでしょう」
目を開けると、赤ん坊がいた。クッションごと運ばれてきた、噂に聞く「喋る赤子」が。
「……! 貴様、まさか例の――」
跳ね起き、布を払う。現れたのは身の丈ほどの黒い大剣。狼の耳が逆立ち、金色の瞳が殺気に染まる。さすがは三傑、空腹でも動きに淀みがない。
「任務を思い出したぞ。超級勇者の暗殺――貴様がそうか、赤子!」
村人が逃げ、セレナが剣に手をかけ、バルガスが飛び出そうとし――ユイは、それを小さな手で制した。
「ええ、私よ。……でもその前に、一つ聞かせて。あなた、三日間ずっと私を探し出して狙えたはずよ。寝ている時も、湯浴みの時も。なぜ、斬らなかったの?」
フェンリアの剣先が、わずかに揺れた。
「……飯を、食っていたからだ」
「食べ終わってからでも、斬れたでしょう」
「………………うまい飯を食わせてくれた村を、その日のうちに襲うのは、その、狼の流儀に反する」
「昨日は? 一昨日は?」
「…………その、毎日、うまかったので……」
語尾が消えた。殺気も、しゅんとしぼんだ。三傑筆頭は、耳をぺたんと伏せた。
ユイは笑いを噛み殺した。
(ああ――この子、強いだけの子だわ。百年前もきっと、戦うことしか居場所がなかったのね。柴田様のような、森様のような……ああいう猛者ほど、案外、義理堅くて不器用なのよ)
その時、ユイは気づいた。フェンリアの右肩に、古い、癒えきっていない傷跡があることに。
「……あなた、その肩。百年前の傷ね」
「治らんのだ。人間の聖騎士に受けた聖属性の傷でな。魔族には解けん」
「ふうん。……ちょっと失礼」
ユイは小さな手を、その肩に、ぽん、と当てた。
白い光が、走った。
百年、疼き続けた傷が――跡形もなく、消えた。
「……は?」
「あら、治ったわ」
「なっ……何をした!? 百年、どんな治癒術も効かなかった傷だぞ!?」
その頭上で、ミラの声が響いた。
「あっ、それ十二番【絶対治癒】ですね! たった今、開示されました! 概念ごと『傷である』という事実を無かったことにする特典です!」
「事実を無かったことにするって、それはもう治癒ではないでしょう!?」
「あわわわ、今のは私も知らずにやったのよ! 手が勝手に!」
フェンリアは、自分の肩を何度も撫でた。撫でて、撫でて――ぽろりと、涙をこぼした。
「……百年だ。百年、この痛みと寝起きしてきた。目覚めるたび、負けたことを思い出させる痛みだった。それを、貴様は……なぜ、敵の私に」
「痛そうにしている子が目の前にいたら、治すでしょう。……敵とか味方とか、そういう話ではないわ」
◆ ◆ ◆
その夜、フェンリアは新メニューの「月見芋煮」を十三杯平らげ、静かに椀を置いた。
「……勘違いするな、赤子。私は魔王軍を裏切らん。あの方には、百年前、行き場のない私を拾われた恩がある。ザガンやバルガスのようにはいかん」
「ええ、分かっているわ。だから取引をしましょう」
「取引?」
「あなたはこの村で、好きなだけ食べていい。お代は――セレナの稽古相手。三傑の剣を学べるなら、安いものだわ」
「なっ……我が剣を、人間の小娘に教えろと!? 私は魔王軍三傑だぞ! 断じて……」
「明日は、卵のぷりんに蜜をかけたものを出す予定よ」
「………………稽古は朝と夕、二回でどうだ」
「即落ちじゃないですか!」
セレナの叫びが、夜空に響いた。
「……いいのか、赤子。私は敵だぞ。いずれ魔王様が本気で動けば、私は貴様らと剣を交える」
ユイは白湯を一口すすり、静かに答えた。
「フェンリア。戦国にはね、昼に殺し合った敵と、夜に酒を酌み交わす武者がいくらでもいたのよ。敵と友は、両立するの。……それに」
赤ん坊は、にっと笑った。
「その『いずれ』が来る前に、私が戦の理由ごと無くしてみせるわ。楽しみにしていなさい」
金色の瞳が、まじまじと赤ん坊を見つめた。そして餓狼は、百年ぶりに、喉の奥で笑った。
「……ふ。ふふ。大きく出たな、赤子。いいだろう、見届けてやる。――おかわり」
「十四杯目!?」
◆ ◆ ◆
その頃、魔王城、軍議の間。
「報告します。三傑フェンリア様より、偵察報告が届きました」
「おお、ついに! 読み上げよ!」
「はっ。――『当該村ヲ調査セリ。脅威、確認デキズ。但シ、継続監視ノ必要アリ。ヨッテ当分ノ間、当地ニ駐留スル』……以上です」
「…………なるほど。さすがは三傑、慎重な判断だ」
「うむうむ、慎重だ」
「あの村に限って、まさか飯などということは」
「「「ないない」」」
軍団長たちは頷き合った。全員、目が泳いでいた。前例が二件あるのだ。
その重い沈黙の奥、玉座の間から、静かな声が届いた。
「――フェンリアまでもか。……面白い。その村、余の千年の退屈を、埋めてくれるやもしれぬな」
魔王が、初めて笑った。軍団長たちの背筋が、別の意味で凍った。
◆ ◆ ◆
数百年後の歴史書には、こう記されている。
――魔軍最強の刺客、聖母の御前に三日で降る。聖母の武器は月見芋煮なりき。一杯の椀、百万の軍勢に勝る。
「今回ばかりは、一文字も間違っていないのが困るのよ」
歴史書というものは、いつだって少し大げさである。だが芋煮のうまさだけは、筆でも書き尽くせなかったという。
※作者注
作中の柴田様は柴田勝家、森様は森可成。どちらも織田家きっての猛将です。
お読みいただき、ありがとうございます。
プロローグを含めて、全部で15話のお話しです。
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