001 村の災難と、元正室の絶望
ユイ=ノヒメ(旧・濃姫)は、リーフェ村で暮らし始めて数日で、いくつかの事実を把握しつつあった。
一つ。この世界には「魔法」というものがある。頭では最初から理解できている。呪文、詠唱、属性――知識だけは、まるで美濃の地理のようにするすると出てくる。
だが。
(知っているのと、見るのとでは、大違いよ!)
竈に火をつける魔道具を初めて見た時、彼女は本気で腰を抜かした。
(火打ち石もいらないの!? 頭では「着火の魔道具ね」と分かっていたのに、実物のこの衝撃! なんて便利……いえ、なんて恐ろしい世界なの。これが戦に使われたら、火縄銃どころの騒ぎではないわ)
二つ。天井から吊るされた光る石は「魔石灯」。夜でも昼のように明るい。
(灯明の油の心配がいらない……! 知識で分かっていても、感動するものは感動するのよ! この世界、台所事情だけは天国だわ)
三つ。そして――自分の魔力量が、この世界の常識から桁が三つほど外れているらしいこと。
その「桁外れ」が暴れたのは、その日の朝だった。
ユイの機嫌が少し傾いた瞬間(お乳の時間が遅れたのである)、漏れ出た魔力が、触れるものを勝手に変え始めたのだ。
地面の土が突然、純金に変わり始めた。
鶏が一瞬でフェニックスに進化し、火を吐きながら空を舞う。
(あの火を吐く鶏、フェニックス。不死の霊鳥。――と、頭は冷静に教えてくれるけど、鶏よ!? 昨日まで庭で餌をつついていた鶏よ!?)
村長の爺さんが「うおっ! 腰が若返ったぞ!」と腰を曲げて喜んでいる。
「あわわわ! ごめんなさい鶏! 戻りなさい! ……戻らないわね!?」
慌てて念じるが、こういう時に限って戻らない。それどころか、村の中央に、直径三十メートルの巨大な魔法陣が勝手に展開し始めた。読んだこともない古代語なのに、意味だけは頭に直接流れ込んでくる。
――「世界を一撃で滅ぼす禁呪」の陣。
「読めてしまった自分が一番怖い! 誰か止めて!」
その時――
「そこまでだ、小さき者よ!」
荘厳な声とともに、空から光の粒子が降り注いだ。白いローブをまとった美しい女性が、優雅に降臨し、慌てて手をかざした。魔法陣はしゅるしゅると消えた。
その声には、聞き覚えがあった。あの真っ白な空間で、測定器を爆発させて慌てふためいていた、あの間の抜けた声だ。
「私はこの世界を管理する女神ミラ! 間に合ってよかった……!」
ユイは這い這いのまま、女神をキッと睨み上げた。
「あなた、あの時の声ね。ちょうどよかったわ、説明責任を果たしなさい。特典が十七件とか言っていたけれど、あれは何。おかげで初めて見るものを全部『ああ、あれね』と理解してしまうし、指を動かせば地面は割れるし、機嫌が傾けば鶏が燃えるのよ」
ミラ女神は額に汗を浮かべながら、正座した。
「はい……あの、率直に申し上げますと、あなたの魂、強すぎたんです。特典は魂の強さに応じて自動で付くんですが、戦国時代を生き抜いた強靭さと、政略結婚を耐え抜いた執念が合わさって、規格外の測定不能。それで特典が、その、大増量に……」
「増量したお歳暮みたいに言わないで。……で、結論は?」
「……世界最強です。この世界の魔王を、一撃で倒せます。魔王軍の幹部なら、指先で触れるだけで消せます」
ユイの顔が青ざめた(赤ん坊の顔で)。
「あわわわわわわ! 嫌よそんなの! 私は静かに暮らしたいの! 茶を点てて、のんびり長生きするの! 最強とか天下とか、前世で見飽きたのよ!」
「ごめんなさい! でも、もう遅いかも……! 先日の光の柱で、魔王軍があなたを『新手の超級勇者』と認定して、今まさに――」
ドオオオオオン!
空が割れ、黒い鎧をまとった巨大な魔族が降り立った。角が生え、翼を広げ、禍々しいオーラを全身から噴き出している。村人たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。
「――第四軍団長が、偵察に来ちゃいました」
「もう来てるじゃない!」
帰蝶は魔族を見上げた。角。翼。黒い鎧。
(頭は「魔族の上位個体、軍団長級ね」と教えてくれるけれど、私の心はこう言っているわ。――鬼だわ。絵巻物の鬼が、本当にいるのね、この世界。まあ、明智の軍勢よりは正直で良いかもしれない。敵だと一目で分かるもの)
「ふははは! この強大な魔力の発生源はなんだ! 新手の勇者か! 我が名はヴォルガード……」
その瞬間、鬼の巨大な手が、村人の一人に向かって伸びた。
――村の者に、手を出した。
考えるより先に、ユイの身体が動いていた。這い這いとは思えぬ速度で地を滑り、小さな手が、鬼の足先に、ぽんっ、と触れる。
第四軍団長ヴォルガードは、名乗りの途中で粒子になって消滅した。残ったのは、黒いマントの切れ端だけ。
村は、静まり返った。
ユイも、静まり返った。
「…………」
自分の手のひらを見る。鬼を見上げる。鬼はもういない。
「……消しちゃったわ。触っただけなのに。……是非もなし」
「『是非もなし』じゃないですよ!? 軍団長クラスですよあれ! 王国の騎士団が総力戦でようやく撃退できるかどうかの!」
「だって村の者に手を出したのだもの。仕方ないでしょう。……それより女神様、今、私、ものすごい速さで走らなかった? 這い這いで」
「特典四番の【超身体能力】ですね。時速百五十キロ出てました」
「赤ん坊が出していい速度なの、それ!?」
あわわわ、と頭を抱えるユイの周りに、村人たちが再び集まってきた。畏怖と、感謝と、興奮の目で。
「勇者様……! 村をお救いくださった……!」
「神の子……!」
「いや、違うの! ただの、通りすがりの……赤ちゃんよ!」
「「「赤ちゃんが通りすがりに軍団長を消すか!!」」」
村人たちの総ツッコミが、青空に響いた。
その夜、村は盛大な祝宴となった。
ユイは、ミラが神界から急ぎ取り寄せた「魔力吸収クッション」――神々が暴れ神獣の育児に使う神器である――に乗せられ、村の中心に鎮座させられた。周囲では、進化した鶏が火の舞を披露し、金の地面がキラキラと輝いている。
ミラ女神が耳元で囁いた。
「あの、ユイさん。これから、あなたは『最強勇者』として世界を救う旅に――」
「断る」
「即答!?」
「私は旅になど出ない。静かに暮らすの。……ただ」
赤ん坊の瞳に、戦国を生き抜いた女の光が宿った。
「向こうから攻めてくるなら、話は別よ。降りかかる火の粉は、払う。それが美濃の流儀」
「は、払うっていうか、消滅させてましたけど……」
「細かいことはいいのよ」
こうして、史上最も目立ちたくない最強の元帰蝶の、防衛生活が始まったのだった。
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プロローグを含めて、全部で15話のお話しです。
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