013 十七番目
三十日目の朝。
リーフェ村の広場に、村人が、家臣が、行商人が、旅の者が、そして魔族の民が――五千人が、集まっていた。
誰も、逃げなかった。
「あわわわ、多いわね。私、こんなに人前に出るのは嫌なのに……」
「師匠、今さらです」
セレナに背を押され、幼子は天下岩の上に立った。ちょうど正午。空が割れ、白銀の仮面が降りてきた。
『三十日が経過した。三つ目の道とやらを聞こう』
「ええ。その前に一つ、あなたに聞きたいことがあるの」
ユイは、まっすぐ仮面を見上げた。
「十七番目の特典、何なの? 開示されないのよ。あなたなら見られるでしょう」
仮面が、ぴたりと止まった。
『…………なぜ、それを聞く』
「一番大事な札は、いつも伏せられているものだからよ。前世の交渉でも、いつもそうだったわ」
長い沈黙のあと、監査官は答えた。
『――十七番【神格昇格権限】。行使すれば、貴殿は神となる。この世界の理に縛られぬ存在となり、規格外ではなくなる。……当局にとって最も都合のよい解決策である』
ざわめきが、広場に走った。
『そうだ。神になれば、貴殿は消えずに済む。世界も初期化されずに済む。ただし――神は、世界の内側には住めぬ。貴殿は神界へ移り、この村を、この者たちと、二度とともに暮らすことはできない』
監査官は、静かに手を差し出した。
『これが、貴殿の「三つ目の道」ではないのか。当局は、それを望んでいる』
ユイは、その手を、じっと見た。
――神になれる。永遠に。誰にも脅かされず、誰にも消されず。前世で駒として扱われた女が、盤を作る側になれる。
「…………ふふ」
彼女は、笑った。
「駄目よ、そんなの」
『……なぜだ。最も合理的な解である』
「合理的だから、駄目なのよ」
ユイは、天下岩の下を見下ろした。五千人の顔を。
「私はね、前の世で、天下人の近くにいたの。あの人は、誰よりも高い所へ登ったわ。安土の天主は、天下一の眺めだったでしょうね。……でも、あの人の隣には、最後まで誰もいなかった。高い所は、寒いのよ」
彼女は、小さな手を胸に当てた。
「私が欲しかったのは、天守閣じゃないの。茶を点てて、誰かが『うまい』と言ってくれる部屋よ。……たった二畳で足りるの。それが、四十八年かけて分かったことなの」
『……では、どうする。回収か、初期化か』
「三つ目、と言ったでしょう」
ユイは、明細書を広げた。そして、宣言した。
「――十一番【眷属加護】。上限、無し。私はこれを使って、私の特典を、全部分けます」
空気が、止まった。
『……なに?』
「歪みの原因は、力が一箇所に溜まっていることだったわね。茶碗に湖を注ぐから割れる。――なら、茶碗を五千個、用意すればいいのよ」
ミラが、悲鳴のような声を上げた。
「ユ、ユイさん! それをしたら、あなたの力は……!」
「ええ。ほとんど残らないでしょうね」
「そんな……! せっかく、あんなに強かったのに……!」
「強かったから、困っていたのよ」
ユイは、あっさりと言った。
「抱っこもされず、乳母は弾き、木の葉一枚浮かせるのに森を宝石にして、指を動かせば地面が割れて、静かに暮らしたいのに毎月誰かが攻めてくる。……最強なんて、いいことなかったわ」
そして、にっこり笑った。
「私は最初から、こう言っていたはずよ。――『静かに、のんびり、長生きしたい』ってね」
『……待て。分配とは、具体的に何をするつもりだ』
「言葉の通りよ。――【絶対治癒】は、この世界の医者と薬師たちへ。少しずつ、全員に。誰かの痛みを取る力は、一人が独占するものじゃないわ」
白い光が、村から、市から、街道から、大陸中へ広がっていく。
「【万象言語理解】は、旅する者と、商いをする者へ。話が通じれば、殺し合いは半分に減るもの」
「【無限蔵】は、農夫と、飢えた土地へ。実りを腐らせない蔵があれば、誰も奪いに行かなくて済むわ」
「【真贋看破】は、市の裁定人と、裁きの席にいる者へ。嘘が見抜ける世界は、少しだけ正直になるでしょう」
「【福音変換】は……そうね、これは全員に薄く。憎まれた時、それを憎み返さずに済むように」
「【超身体能力】と【自動防御結界】は、子供たちへ。転んでも大怪我をしないくらいの、ほんの少しでいいの」
光は、蝶になった。緋色の光の蝶が、村から溢れ、空を埋め、大陸の隅々へ飛び立っていく。
人々の中に、静かに、一つ、また一つと灯っていく。
「【絶対魔法適性】と【無限魔力炉】は、魔導士と職人たちへ。……この世界の魔石灯、高くて村では買えなかったのよね。皆が少しずつ魔力を持てば、どの家の窓にも灯りがつくわ」
「【隠形】は、逃げる者へ。追われている子、隠れなければならない女。……前の世で、逃げ場のない者を、私は何人も見送ったの。今度は、隠れられるようにしてあげたい」
「【天翔】は、伝令と、旅の者と、鳥たちへ。報せが早く届く国は、戦になりにくいものよ」
「【概念武装解放】は、返上します。あんな物騒なもの、誰にも要らないわ」
「【星辰掌握】も返上。星は、空にあるべきよ」
「【運命改変権限】は――」
ユイは、少しだけ間を置いた。
「これは、砕いて捨てます。誰にも渡さない。……人の運命を書き換える力なんて、神様が持っていても、私が持っていても、同じことよ。碌なことにならないわ」
最後に彼女は、自分の胸に手を当てた。
「【異世界知識自動理解】だけは、私の手元に置いておくわ。……この一年、この特典には随分驚かされたし、随分助けられたもの。鶏の自慢話が分からなくなるのも、寂しいしね」
そして最後に、十一番【眷属加護】が――役目を終えて、静かに解けた。分けるための器だったものは、分け終われば、もう要らない。
それは五千の光の粒になって、五千人の頭上を、ゆっくりと通り過ぎていった。
――そして、光が、収まった。
天下岩の上に立っていたのは、ただの、小さな女の子だった。
監査官が、水晶球を確認した。世界の亀裂が、すうっと消えていく。歪みは、五千万人の中に、一滴ずつ溶けて――どこにも、無くなっていた。
『……規格、適合。世界、安定。……規格外個体、消失。……これは』
「三つ目の道よ」
ユイは、息を切らしながら、笑った。
「回収でも、初期化でもない。――皆で、少しずつ持つ。私の父が国を獲れたのも、夫が天下に手をかけたのも、結局は同じ理屈だったわ。一人でできることなんて、たかが知れているのよ」
『…………前例が、ない』
「だから言ったでしょう。前例は、作るものだって」
白銀の仮面が、長いこと、動かなかった。
やがて監査官は、静かに一歩下がり――そして、初めて、事務的ではない声で言った。
『……四千年、この職務に就いてきた。規格外を消し、世界を初期化し、それが最善だと信じてきた。……三つ目の道を出した者は、貴殿が初めてだ』
仮面が、わずかに傾いた。頭を下げたようにも見えた。
『……当局の記録に、前例として登録しておく。管理番号一〇八世界、事例名――「分配解」』
「あら。良い名前ね」
『……なお、十七番【神格昇格権限】は、返上手続きが未了である。行使せぬまま、貴殿の手元に残る』
「捨て忘れ?」
『権利である。……いつでも神になれる。だが、ならぬ自由もある。それが、この事例に対する当局の敬意だ』
白銀の仮面は、光の中に溶けていった。
◆ ◆ ◆
あとに残されたのは、静かな昼下がりと、五千人の呆然とした顔と、天下岩の上でへたり込む一歳の幼子だった。
「……ふう。疲れたわ」
その時。
村人の一人が、そっと近づいてきた。養母のリリアだった。彼女は震える手を伸ばし――そして、初めて、幼子を抱き上げた。
結界は、もう働かなかった。
「……あ」
ユイの目が、大きく見開かれた。
「……抱っこ、できるわ」
「はい……! はい、ユイ様……!」
「……あわわわ。だ、駄目よ、泣かないで。私まで泣くじゃない。あわわわわ」
泣いた。生後十三ヶ月の元・戦国の姫は、生まれて初めて、人の腕の中で、赤ん坊らしく泣いた。
五千人が、それを見て、一斉に泣いた。
なお、この日の記録を残そうとしたザガンの片眼鏡は、涙で曇って何も見えず、後に「本日の記録、なし。理由、感涙」とだけ書かれた報告書が残っている。彼の千年の官僚人生で、唯一の白紙報告であった。
◆ ◆ ◆
数百年後の歴史書には、こう記されている。
――聖母、その力を悉く民に分かつ。神となる権を得て、これを用いず。曰く「高い所は寒い」と。
「今回は、一言一句そのままね。誰かしら、聞いていたのは」
歴史書というものは、いつだって少し大げさである。だがこの一行だけは、大げさにする必要が、どこにもなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
いよいよ次回、最終回となります。
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