012 天から、役人が来る
停戦十月目。リーフェ村は、もはや村ではなかった。
人口五千。人間と魔族が同じ通りを歩き、同じ卓で飯を食い、同じ市で値切り合う。人間の大工と魔族の石工が組んで家を建て、聖鶏は三百羽に増え(全羽が自慢し合うので、朝は大変うるさい)、天下岩には毎日行列ができた。
王国は「あそこは課税できぬ土地」と諦め、魔王軍は「あそこは攻めると就職する土地」と恐れた。
「……ふふ。悪くないわね」
竜の背の座布団で、ユイは市を見下ろしていた。生後十三ヶ月。ようやく歩けるようになり、話す言葉も年相応に――ならなかった。中身が四十八歳なので、当然である。
「師匠! 本日の稽古、終わりました!」
駆けてきたセレナは、もう「勇者候補」ではなかった。王国が正式に叙任した勇者であり、三傑の剣を受け継ぎ、村の門を守る若き守護者である。
「セレナ、いい太刀筋になったわね。……あと半年もすれば、私がいなくても、この村は守れるでしょう」
「な、何を言うのです。師匠がいない村なんて――」
「たとえ話よ。……たとえ話」
その時。
空が、割れた。竜の翼でも、魔族の襲来でもない。もっと静かで、もっと決定的な割れ方だった。
白い光。そして、白銀の仮面。
『――管理番号一〇八世界。当該世界の規格外個体、ユイ=ノヒメ』
声は、耳ではなく、頭蓋の内側に直接響いた。市の全員が動きを止め、聖鶏さえ鳴くのをやめた。
降りてきたのは、灰色の法衣に白銀の仮面をつけた人影。神々しさは、ない。ただ、事務的だった。
「……あなた、誰?」
『神界・世界管理局、上位監査官。名は不要である』
その背後で、光の粒子とともにミラが転がり落ちてきた。顔面蒼白で、両手には抱えきれないほどの書類を持っている。
「ユイさん! 逃げて――いえ、逃げられないんですけど! あああ、私が止められなくて!」
『担当女神ミラ。職務放棄と事務過失により、既に減給三千年の処分中である。黙っていろ』
「減給三千年!?」
『通告する』
監査官の仮面が、赤ん坊に――もとい、幼子に向けられた。
『個体ユイ=ノヒメ。転生時に付与された十七件の特典は、本来この世界の規格上限を大幅に超過している。原因は当局の測定機器故障および担当女神の事務過失。……つまり、当局の不手際である』
「あら。認めるのね、それは殊勝だわ」
『事実は事実である。だが、原因が当局にあることと、結果を放置してよいことは別だ』
監査官が指を鳴らすと、空中に光の図が展開した。世界の形をした水晶球。その表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。
『これが当該世界の現状だ。貴殿が概念改変を行使するたび、世界の理に歪みが蓄積する。荒野を沃野に変える。神話の竜を従える。山を消す砲撃を素手で受ける。……いずれも、この世界には「あってはならない出来事」だ』
村人たちが、ざわめいた。
「そ、そんな……ユイ様は良いことしかしておらん!」
『善悪は問うていない。器の話をしている。……茶碗に、湖の水を注げばどうなる。茶碗が割れるであろう』
その一言に、ユイは黙った。
監査官は、淡々と続けた。
『規定により、選択肢は二つ。一、規格外個体の回収――すなわち、貴殿の魂の抹消。二、世界そのものの初期化。……三十日後、いずれかを執行する』
「「「初期化!?」」」
「そ、それはつまり、この世界を作り直すということですか!?」
『そうだ。住民の記憶、歴史、文明。全て白紙に戻る。人も魔族も、また一から千年戦争を始めるだろう』
市が、静まり返った。
その静寂の中で、ゾルドが(ちょうど階段修繕に来ていた)大戦斧を掴んだ。バルガスが立ち上がった。フェンリアが牙を剥いた。セレナが剣を抜き、ザガンが震える手で演算を始め、村人たちが鍬を握り、竜が唸り、聖鶏が三百羽、一斉に火を吹いた。
誰も彼もが、幼子の前に立ちはだかった。
「……あら」
ユイは、目を丸くした。
『無駄である。私は概念上の存在だ。この世界の何者にも触れられぬ』
「そうでしょうね。……皆、下がりなさい」
「し、師匠!」
「下がりなさい。……大丈夫よ」
ユイは、監査官の前に、ぽつんと一人で進み出た。そして、まっすぐに仮面を見上げた。
「一つ聞かせて。あなた、私を消したいの?」
『……質問の意図が不明である』
「意図も何も、そのままの意味よ。あなた自身は、どうしたいの?」
仮面が、わずかに揺れた。
『……私は規定に従うのみである。前例がない事象には、前例に基づく処理を適用できぬ。ゆえに、除去する。それが最も安全である』
「前例がないから、消す。……ふうん」
幼子は、小さく笑った。まるで、可愛い子供を見るような笑い方だった。
「あなた、お役人としては優秀ね。でも、そこが限界よ」
『……なんだと』
「前例なんてね、作るものなの。私の父は油売りから国を獲ったわ。前例なんてなかった。私の夫は、寺を焼き、市を開き、家柄も出自も関係なく人を使った。全部、前例がなかったのよ。……お陰で二人とも、随分嫌われたけれどね」
ユイは、指を一本立てた。
「三十日、待ちなさい。その間に私が、三つ目の道を出してみせるわ。回収でも、初期化でもない、三つ目を」
『……不可能である。規定に三つ目の選択肢はない』
「なら、規定に無い手を指すだけよ。――将棋も、そうやって勝つの」
白銀の仮面は、長いこと沈黙した。
『……三十日。それ以上は待たぬ』
そして、光とともに消えた。
◆ ◆ ◆
その夜。誰もが押し黙る中、ユイは明細書を広げていた。
「女神様。十七番目は、まだ開示されないの?」
「それが……何度確認しても『開示不能』としか。上位権限がないと見られない項目のようで……」
「ふうん。……十六番まで、全部並べてみて」
一番【絶対魔法適性】。二番【無限魔力炉】。三番【概念武装解放】。四番【超身体能力】。五番【運命改変権限】。六番【異世界知識自動理解】。七番【自動防御結界】。八番【万象言語理解】。九番【無限蔵】。十番【隠形】。十一番【眷属加護】。十二番【絶対治癒】。十三番【天翔】。十四番【真贋看破】。十五番【星辰掌握】。十六番【福音変換】。
「……歪みの原因は、力の大きさではないわ」
ユイは、ぽつりと言った。
「一人に集まっていることよ。茶碗に湖を注ぐから割れるの。――なら、注ぐ先を増やせばいい」
「え……?」
「十一番。【眷属加護】。……上限は、無いのよね?」
ミラが、明細書を落とした。
「ま、まさか……ユイさん、あなた、まさか……」
「ふふ。ようやく分かったわ、女神様。なぜ私にこんな特典が十七件も付いたのか」
幼子は、星空を見上げた。美濃の山で見たのと、同じ星空を。
「――私一人が、最強になるためじゃないのよ……」
◆ ◆ ◆
数百年後の歴史書には、こう記されている。
――天より役人下り、聖母に消滅を命ず。聖母、答えて曰く「前例は作るもの」と。
「あの時は、内心あわわわだったのよ。誰も知らないでしょうけど」
歴史書というものは、いつだって少し大げさである。だが、この一行だけは、彼女の顔つきそのままだったという。
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