014 リーフェの聖母
約束の一年が満ちた日。
黒衣の旅人が、また一人でやって来た。
「――芋煮を。大盛りで」
「あいよ! おや、旅の人。前にも来なすったね」
「ああ。一年ぶりの、な」
厨房の奥で、皿が三枚割れた。給仕をしていたフェンリアが、一年前とまったく同じ位置で、まったく同じように柱の陰に隠れたのである。
◆ ◆ ◆
村はずれの納屋。二畳の茶室。
将棋盤を挟んで、魔王と、一歳半の幼子が向かい合っていた。
「……小さくなったな、貴様の魔力」
「ええ。ほとんど無くなったわ。今の私、その辺の魔導士より弱いのよ」
「余が今、剣を抜けば、貴様を斬れる」
「ええ、斬れるでしょうね。……どうぞ?」
ユイは、平然と白湯をすすった。
魔王は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……つまらん冗談だ。斬るくらいなら指す。――さて赤子。約束の一年だ。『戦の終わらせ方』とやらを、見せてもらおうか」
「見せるも何も、もう終わっているわ」
「……なに?」
「魔王様。あなたの軍勢、今どうなっているかご存知?」
魔王は、駒を置く手を止めた。
――知っている。嫌というほど、知っている。
第四軍団長、消滅。第五軍団長ザガン、この村の帳簿方。第三軍団長バルガス、この村の用心棒。三傑筆頭フェンリア、この村の給仕兼剣術師範。第一軍団長ゾルド、月二回、天下岩の階段の石工。
そして残る軍団長たちも、「視察」という名目でこの村に通い、部下たちは休暇のたびに市で買い物をし、魔族の民は人間の医者にかかり、人間の農夫は魔族の石工に納屋を建ててもらっている。
先月など、魔族の若者と人間の娘の祝言が三組あった。ザガンが台帳を作り、ゾルドが二人の門出のために石灯籠を彫った。
「……余の軍は、まだ十万おる」
「ええ。でも、その十万に『あの村を焼け』と命じてごらんなさい。何人が動くかしら」
長い、長い沈黙が落ちた。
やがて魔王は、天を仰いで――笑い出した。腹の底から、千年分をまとめて吐き出すように。
「……ははは! ははははは! 一人も動かぬわ! あやつら、村の飯の話しかせぬ! 軍議で芋の値段を議論しおったのだぞ、先月!」
「あら、うちの卵の品質も上がったでしょう」
「上がった! おかげで魔王城の朝餉が贅沢になったわ!」
魔王は、笑い涙を拭い、そして――ふう、と長く息を吐いた。
「……終わったのだな。千年が」
「終わりましたね」
「条約もなく。降伏もなく。誰の首も落ちず。……ただ、皆が別のことに忙しくなっただけで」
「それが一番いいのよ」
ユイは、静かに言った。
「和睦の書付なんて、破るためにあるようなものだもの。前の世で、何十通見たかしら。……でもね、隣に住んで、同じ飯を食って、子が生まれてしまったら――もう、戻れないのよ。書付より、そちらのほうがずっと強い」
「……敵と味方の境目を、溶かす、か」
「ええ。時間はかかるけれど、その代わり、二度と元に戻らないの」
魔王は、盤を見下ろした。それから、駒を一つ、静かに置いた。
「……余は、これからどうすればよいのだ。魔王という役目が、無くなってしまったぞ」
「あら。それこそ簡単よ」
ユイは、にっこり笑った。
「月に一度、ここへ将棋を指しに来なさいな。今のところ、あなたが一番の指し手だもの。相手がいなくて退屈していたの」
「……余を、将棋の相手として雇うと申すか。千年最強の魔王を」
「不服?」
「……いや」
千年、玉座で退屈していた男は、少しだけ照れたように、駒を握り直した。
「……悪くない」
◆ ◆ ◆
その後のことを、少しだけ記しておく。
魔王は、玉座を降りなかった。「役目が無くとも、印は要る」と言って、以後は人と魔族の揉め事の裁定人を務めた。彼の裁きは苛烈で公平で、なにより早く、大陸中から訴えが持ち込まれるようになった。月に一度は必ず村に来て将棋を指し、そして必ず負けて帰った(五十七年間、一度も勝てなかったという記録が残っている)。
女神ミラは、減給三千年の処分を受けたが、「分配解」の功績により三日で撤回された。以後もちょくちょく村に降臨しては、白湯を飲んで愚痴をこぼしていく。神界の事務は、相変わらず雑らしい。
ザガンは村の筆頭家老となり、生涯で四万二千通の報告書を書いた。全て、読まれた。彼はそれを、生涯で最も誇りにしていたという。
バルガスは畑を耕し続け、村の農地を大陸一に育てた。そして最後まで、一度も畑を踏まなかった。
フェンリアは村の食堂で給仕をしながら、道場を開いた。彼女の門下からは、後に人間と魔族、双方の剣聖が出ている。給料は、全額、芋煮とぷりんで受け取っていた。
ゾルドは石工になった。天下岩の階段、村の水路、そして――彼が最も長い年月をかけて彫ったのは、村はずれの、小さな慰霊の塔である。千年戦争で死んだ者の名を、人間も魔族も区別なく刻んだ塔。名前が多すぎて、彼は生涯をかけても彫り終えられなかった。それでも彫り続けた。
セレナ=ヴァルハラは、勇者として大陸を巡った。だが彼女が振るったのは剣ではなく、師の教えだった。曰く「戦は始まる前に八割決まっている」。彼女は行く先々で揉め事の八割を、始まる前に終わらせた。歴史書は彼女を「戦わなかった勇者」と呼ぶ。彼女自身は、生涯こう名乗り続けた。「私は、リーフェの聖母の、一番弟子です」と。
◆ ◆ ◆
そして、ユイ=ノヒメ。
彼女は、村を出なかった。
特典をほとんど手放した彼女は、ごく普通の速さで育ち、ごく普通の女性になった。多少、鶏や竜と会話ができて、多少、物の真贋に詳しく、そして著しく将棋が強い――ただそれだけの、村の一員として。
市の裁定人を務め、揉め事を裁き、若い者に商いを教え、旅の者に茶を出した(この世界の茶葉は、彼女が二十歳の年にようやく見つかった。魔族領の高地に自生していたのを、ゾルドが黙って背負ってきたのである。その日、彼女は一日中泣いていたと記録にある)。
結婚はしなかった。「政略で一度嫁いだから、もう十分」と笑って断り続けた。ただし村の子供たちは全員、彼女を「ユイ姉さま」と呼び、やがて「ユイ婆さま」と呼ぶようになった。
彼女は、長生きした。
◆ ◆ ◆
八十九歳の、ある秋の夜。
縁側で、ユイは一人、茶を点てていた。手つきは、四十八年前と、少しも変わっていない。
庭では、村の子供たちが遊んでいる。市の灯が遠くに見える。人間の子と魔族の子が、同じ鬼ごっこで転げ回っている。
ふと、傍らの空気が、光った。
「……久しぶりね、女神様」
「お久しぶりです、ユイさん。……その、お迎えに参りました」
ミラは、少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「あら。もう、そんな時間?」
「はい。……それと、上からの伝言です。『十七番 【神格昇格権限】は、なお有効。行使すれば、この肉体を捨てて神となり、永劫に存在できる』と。……あの監査官、律儀に八十八年も権利を保持していたみたいで」
「あらまあ。真面目な役人ね」
ユイは、くつくつと笑った。それから茶碗を持ち上げ、一口すすった。
「――お断りします、と伝えてちょうだい」
「……はい。そう仰ると思っていました」
「だって、今日のお茶、よく点ったもの。神様になったら、この味は分からないでしょう?」
彼女は、庭を見た。子供たちの声。竈の煙。鶏の自慢話(『われ、今日も産んだぞ』)。ずっと欲しかったものが、全部、そこにあった。
「ねえ、女神様」
「はい」
「あの日、測定器を爆発させてくれて、ありがとう」
ミラが、とうとう泣き出した。
「あわわわ……! そ、そんなこと言われたの、四千年で初めてです……! みんな怒るんですよ、事務ミスだって……!」
「事務ミスだったのは間違いないわね」
「言い切らないでくださいよぉ!」
ユイは、声を上げて笑った。それから空を見上げた。
秋の星空。美濃の山で、父と見たのと同じ星空。安土の炎の中で、最後に見たのと同じ星空。
「父上。信長様」
小さく、呟いた。
「私、今度こそ――よく頑張りました。……そして今度は、ちゃんと、楽しかったです」
彼女は、静かに目を閉じた。
茶碗の中で、湯気が、蝶の形にゆらめいて――消えた。
◆ ◆ ◆
そして数百年が過ぎた。
千年戦争は、遠い昔話になった。人間と魔族の区別を気にする者は、もういない。
かつて「リーフェ村」と呼ばれた場所は、今では大陸最大の都市になっている。中央広場には、黒曜石の巨岩(入場料・銅貨一枚)。その隣には、五階建ての大食堂と、名前の刻まれた古い塔。
そして都市の中心には、二畳の、小さな茶室が保存されている。
中には、将棋盤が一つ。八十九歳の彼女と、最後の一局を指した相手が、駒を並べたまま残していったものだ。その相手が誰だったかは、諸説ある。
子供たちが今も歌う、古い数え歌がある。
――ひとつ、天から星が降る。ふたつ、聖母が受け止める。みっつ、皆でわけあいましょ。
歴史書の最後の一行は、こう結ばれている。
――リーフェの聖母、力を分かちて世に返す。以後、この世に「最強」なる者、二度と現れず。ただ、少しずつ強い者が、無数に生まれたり。
なお、都市の図書館には、その歴史書の余白に、誰かが書き込んだ落書きが残っている。筆跡は、驚くほど達筆だという。
――大げさに書きすぎよ。私はただ、静かに暮らしたかっただけなの。
(了)
――完結記念・振り返り座談会
全員「読者様。まずは、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました」
全員「ありがとうございました」
ユ「ありがとう。お茶が入ったわよ」
セ「もう白湯じゃないんですね」
ユ「二十歳の年に、ゾルドが魔族領から茶葉を背負ってきてくれたのよ。……あの日は一日泣いたわ」
セ「黙って置いていきましたよね、あの人。照れ屋にも程がある」
◆
セ「さて。せっかくですので、物語を振り返りましょう。読者様、どの回が印象に残りましたか」
ザ「我が輩は、断然、第三話です」
セ「あなたが転職した回じゃないですか」
ザ「人生最良の日ですので」
セ「気持ちは分かりますけど、あれ、あなたが腰を抜かしてる回ですよ」
ザ「腰は抜けましたが、人生は立ち直りました」
◆
セ「私は、やはり黄金蒸しの計でしょうか。初めて大将を任された戦です」
ユ「ああ、バルガスを蒸した回ね」
セ「言い方!」
ユ「事実でしょう。金の地面に沈めて、鶏に火を吹かせて、三十分蒸したわ」
セ「戦術としては完璧なんですよ。完璧なんですけど、あとで王国の記録官に説明したら『それは料理では?』と言われまして」
ユ「歴史書にも『黄金蒸しの計』って書かれてたわね」
セ「呼び名が完全に料理なんですよ、あれ!」
◆
ザ「では、我が輩から統計を一つ。物語を通じて、我が輩の片眼鏡が割れた回数――」
セ「あ、それ気になってました」
ザ「――二十九個です」
ユ・セ「多い!」
ザ「内訳を申しますと、驚愕による破損が二十二個、涙による曇りからの落下が四個、災厄竜の登場時に三個同時です」
セ「三個同時!? 予備は何個持ってたんですか!」
ザ「常に七個です。軍師の嗜みですので」
◆
ザ「読者様、ここで一つ、本編には書ききれなかった話を」
ザ「我が輩、実は村で密かに集計を取っておりました。題して『本日のあわわわ』」
ユ「取っていたの!?」
ザ「初年度、年間三百四十七回。ちなみに最多記録は、災厄竜が飛来した日の一日十九回です」
セ「一日十九回!?」
ユ「私、そんなに慌てていた?」
セ「慌てていました」
ザ「慌てておられました」
◆
ザ「では次に、読者様がきっと気になっているであろう件を。――聖鶏たちの会話の中身です」
セ「あれ、師匠だけ分かるんですよね。実際、何を話してるんですか」
ユ「そうねえ。……九割が産卵数の自慢よ」
セ・ザ「九割!?」
ユ「残りの一割が、餌の批評と、村長への愚痴」
セ「村長、何かしましたっけ」
ユ「卵を取るとき、いつも一番大きいのから取るでしょう。あれ、鶏の間では『無礼者』で通っているわ」
セ「村長が魔王軍より嫌われてる!」
◆
ユ「あとは、そうね。ゴッドハンマー亭の厨房の話でもしましょうか」
セ「ああ、あの元・枢機卿の」
ユ「あの人ね、五年目で厨房長候補になったのよ」
セ「皿洗いから!?」
ユ「腕が良かったの。金勘定が得意だったから、仕入れも上手でね。……本人は最後まで『不本意である』と言い張っていたけれど、賄いの日は誰より早く来ていたわ」
セ「人って変わるものですね……」
ユ「変わってないのよ。あの人は昔から、数字と段取りが好きだっただけ。使う場所が違っただけなの」
◆
ザ「我が輩からも一つ。天下岩の入場料、銅貨一枚の使い道をご存じですか」
セ「あ、それ私も知りません」
ザ「全額、村の子供の学び場の運営費です。ユイ様のご指示で」
セ「星を落とされて、名所にして、学校を建てたんですか」
ユ「落とした本人には、内緒にしていたけれどね。……あの人、知ったら照れて、また月を落としに来かねないもの」
セ「来ますね、あの人なら」
◆
ザ「最後にもう一つ。村の名物になった、妙な行列の話を」
セ「ああ、あれですか……」
ユ「なあに?」
セ「師匠。晩年、村の門に毎日行列ができていたのを、覚えていらっしゃいますか」
ユ「ええ。皆、市の買い物に来ていたのでしょう」
セ「違います。『聖母様に抱っこしてもらう列』です」
ユ「…………え」
ザ「一日三十人限定でした。整理券を配っていたのは我が輩です」
ユ「ちょっと待って、私、あれは『挨拶に来た人』だと思っていたのだけれど」
セ「抱っこ待ちでした」
ユ「あわわわ! 何十年も気づかなかったわ!」
セ「気づかないまま、全員抱っこしてらしたので、結果は同じです」
◆
ザ「では、そろそろ真面目な話を一つ。読者様が一番驚かれたのは、やはり終盤かと」
セ「特典を、全部お配りになった件ですね」
ユ「ええ。あれね、皆にはずいぶん止められたわ」
セ「止めますよ! 世界最強を捨てるって言うんですから!」
ユ「でも、考えてもみて。抱っこしてもらえない最強に、何の意味があるの?」
セ・ザ「…………」
ユ「乳母は結界に弾かれる。触れば消える。木の葉一枚浮かせようとして森が宝石になる。……あれで幸せそうに見えた?」
セ「……見えませんでした」
ユ「でしょう。だから配ったの。ちょっとずつね」
◆
ザ「読者様。あの日、我が輩は記録を取り損ねました」
セ「涙で片眼鏡が曇った回ですね」
ザ「千年の官僚人生で、唯一の白紙報告です。『本日の記録、なし。理由、感涙』とだけ」
セ「あれ、私も泣いてました」
ユ「五千人が泣いてたわね。私も泣いたわ。……生まれて初めて抱っこしてもらったんだもの。一歳と一ヶ月で」
セ・ザ「遅すぎるんですよ、デビューが!」
◆
セ「――では最後に、師匠。読者様への一言をお願いします」
ユ「そうねえ。……十七件も特典をいただいたけれど」
「はい」
ユ「一番良かったのは、たぶん、どれでもないの」
セ「え?」
ユ「星を掴めても、竜に乗れても、傷を治せても――誰かが『うまい』と言ってくれる茶を点てられないなら、意味がないもの」
セ「……師匠」
ユ「私が本当に欲しかったのは、二畳の部屋と、隣に座ってくれる人。それだけだったわ。四十八年と、もう一回分の人生をかけて、ようやく分かったの」
セ・ザ「……」
ユ「あら、二人とも黙らないで。しんみりするじゃない」
セ「誰のせいですか!」
ユ「白湯が目に入ったの」
セ「今日はお茶ですよね!?」
◆
全員「読者様」
全員「ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました」
全員「歴史書は、いつだって少し大げさに書かれます。でも、読者様が読んでくださったぶんだけ、この村の話は――大げさではなくなりました」
全員「またいつでも、お立ち寄りください」
ユ「門で武器を預けていただければ、お茶をお出しします」
セ「今度は白湯じゃないんですね」
ユ「良いお客様には、良いお茶を出すものよ」
ユイ=ノヒメ/セレナ=ヴァルハラ/ザガン 一同




