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88話 突然現れた黒い壁


その朝、遼はいつもより早く目を覚ました。

枕元の時計を確認すると、まだ乗組員たちが起き出すには早い時間だった。


「……まだ早いな」


遼はベッドから起き上がり、軽く伸びをした。


「食堂でコーヒーでも飲もうかな」


身支度を整え、静かな船内を歩いて食堂へ向かう。

いつもなら、朝食の準備をするリサや、早起きのクルーたちの声が聞こえてくる時間帯だ。しかし、今日はまだ誰もいない。

食堂の自動ドアが開くと、そこには一人だけ人影があった。

メイドロボットの星美だ。

彼女は調理台の前で、朝食の準備を進めていた。食器を並べ、保存食から取り出した食材を手際よく調理している。


「遼様。おはようございます」


星美は遼に気づくと、丁寧にお辞儀をした。


「おはよう、星美。早いね」


「皆さまに朝食を召し上がっていただくため、準備をしております」


星美は調理台の時計を確認した。


「申し訳ございません。朝食の用意はまだ終わっておりません。もう少々お待ちください」


「いやいや、朝食を食べに来たわけじゃないんだ。ちょっとコーヒーが飲みたくなってね」


「そうでしたか。それでしたら、コーヒーをお淹れいたしましょうか?」


「いいよ。自分で淹れるから、星美は朝食の準備を進めて」


「かしこまりました。では、お湯とカップをご用意しておきます」


星美はすぐにコーヒーを淹れるための道具を用意してくれた。

遼は豆の香りを楽しみながら、自分でコーヒーを淹れ始めた。

ゆっくりとお湯を注ぐ。

立ち上る香ばしい匂い。

カップに注がれた黒い液体から、湯気がふわりと上がった。


「……うん、いい香りだ」


遼はカップを手に、窓際の席に腰を下ろした。

まだ誰もいない食堂。

機械が静かに動く音だけが聞こえる。

窓の外には、果てしない宇宙が広がっていた。

アークノヴァはいつもどおり、重力曲率エンジンによって進み続けている。

これから始まる一日も、いつもと変わらない一日になる。

遼は、そんなことを考えながらコーヒーを口に運んだ。


「朝一番のコーヒーって、どうしてこんなにうまいんだろうな……」


思わず独り言が漏れる。

まだみんなが寝ている時間に、一人で静かな食堂で飲むコーヒー。

これも、悪くない。

遼はもう一口、コーヒーを飲もうとした。

その瞬間だった。


ゴウンッ!


「うわっ!?」


船体が突然、大きく揺れた。

いや、揺れたというよりも、何かに強引に引き止められたような感覚だった。

遼の身体が前方に引っ張られる。

手にしていたカップから、コーヒーが勢いよく飛び出した。


バシャッ!


黒い液体がテーブルの上に散り、さらに床へとぶちまけられた。


「な、なんだ!?」


遼が立ち上がる間もなく、船内にけたたましい警報音が鳴り響いた。


ウーウーウウウッ!


赤い警告灯が点滅する。

食堂の照明が一瞬明滅し、壁面のモニターが緊急表示へと切り替わった。

そして、ノアの声が船内全域に響いた。


『緊急警報。未確認現象を確認しました』


いつもの落ち着いた声だったが、そこには明らかな緊張が感じられた。


『全乗組員は至急、ブリッジに集合してください。繰り返します。未確認現象を確認。全乗組員は至急、ブリッジに集合してください』


「未確認現象だって……?」


遼は床に広がったコーヒーを見下ろした。

せっかくの朝のひとときは、完全に台無しである。


「……よりによって、今かよ!」


思わずぼやいたところで、食堂の入口から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「遼! 今の警報、何なの!?」


玲奈だった。

寝室から飛び出してきたのだろう。髪はあちこちに跳ね上がり、後頭部には見事な寝ぐせができている。

いつも整った姿をしている玲奈とは思えない有様だった。

遼は一瞬、そちらを見てしまった。


「……玲奈 髪、、、」


「何 急がないと」


「いや、そうなんだけど……」


玲奈に怒鳴られ、遼は慌ててうなずいた。


「わかった、わかった!」


そのとき、床のコーヒーに気づいた遼は、星美に向かって申し訳なさそうに言った。


「星美、ごめん! 床を汚しちゃった。あとで片づけるから!」


「ご心配には及びません、遼様。清掃は私が行います」


星美はすでに清掃用ロボットを呼び出していた。


「それよりも、どうぞお気をつけて。皆さまのご無事をお祈りしております」


「ありがとう、星美!」


遼は玲奈とともに食堂を飛び出した。

二人は通路を駆け抜け、ブリッジへと急いだ

ブリッジに到着すると、すでに数人のクルーが集まっていた。

アレックスは艦長席の前に立ち、メインモニターを睨んでいる。

イザベルが計器類を確認し、ハッサンは航行システムの状態を調べていた。

ひかりも急いで駆けつけたらしく、まだ眠そうな顔をしている。


「遼、玲奈! こっちだ!」


アレックスが二人を呼んだ。


「何があったんですか?」


遼が尋ねる。


「それが、わからないんだ」


アレックスは険しい表情で答えた。


「アークノヴァが突然、急減速した。重力曲率エンジンが緊急停止したような状態になっている」


「エンジンが停止?」


遼の顔から、先ほどまでの寝ぼけた様子が消えた。


「故障ですか?」


「いや、通常の故障とは違うらしい。ノア、状況を説明してくれ」


『現在、アークノヴァは通常航行を停止しています。重力曲率エンジンの出力はゼロ。船体の各種システムは正常に機能していますが、航行を再開できるかどうかは不明です』


「原因は?」


『解析中です』


「解析中って……」


遼は眉をひそめた。

アークノヴァのAIであるノアが、危険を感じてエンジンを停止。

異常事態だった。


「何が起きているんだ……?」


玲奈がつぶやいた。

その瞬間、メインモニターの映像が切り替わった。

アークノヴァの前方を映し出す外部カメラの映像だった。

そして――。


「……何だ、あれは」


遼は言葉を失った。

アークノヴァの進路を塞ぐように、巨大な黒い物体が存在していた。

いや、物体という表現が正しいのかどうかさえ、わからない。

そこにあるのは、巨大な壁だった。

真っ黒な壁。

表面には模様も、光も、凹凸らしいものも見当たらない。

まるで宇宙そのものを切り取って、黒く塗りつぶしたかのようだった。

壁はアークノヴァの正面にそびえ立っている。

しかし、その上端も下端も見えない。

左右に目を向けても、壁の終わりはどこにも見当たらなかった。

カメラの視野を広げても、映像に映るのは果てしなく続く黒い面だけだった。


「……でかすぎるだろ」


ジョンが、呆然とした声でつぶやいた。


「これ、いったい何キロあるんだ?」


ハッサンが計測データを確認する。


「距離が……正確に測れません」


「測れない?」


「はい。レーザー測距も、電波による測定も、結果が一致しません。距離そのものが定まらないんです」


イザベルも別の計器を確認した。


「光学カメラには映っている。でも、通常のセンサーでは壁の構造がほとんど検出できないわ」


「そんなことがあるのか?」


アレックスが問いかけた。


「普通ならありません。でも、現実に起きています」


玲奈はメインモニターを見つめたまま、ゆっくりと言った。


「まるで……宇宙に壁ができたみたい」


誰も、それを否定できなかった。

遼は、壁を凝視した。

その黒さは、単に光を反射しないというだけではなかった。

見ていると、吸い込まれそうになる。

そこに何かが存在しているはずなのに、何も存在していないようにも見える。

宇宙空間に浮かぶ巨大な黒い壁。

それは、自然現象なのか。

人工物なのか。

それとも、今まで人類が知らなかった何かなのか。


「ノア。壁の正体を解析できるか?」


アレックスが尋ねた。


『解析を実行しています』


ブリッジに緊張が走る。

数秒後、ノアの声が響いた。


『解析結果……該当するデータはありません』


「何だと?」


『既存の天体データ、人工構造物データ、既知の宇宙現象データのいずれにも一致しません』


「では、壁の材質は?」


『特定できません』


「厚さは?」


『測定不能』


「向こう側は見えるのか?」


『確認できません』


アレックスは腕を組み、険しい表情を浮かべた。


「……ノアでもわからないのか」


『はい。現在の解析能力では、この現象を説明できません』


ブリッジに沈黙が落ちた。

ノアは、アークノヴァの航行から船内のあらゆるシステムまで管理する高性能AIだ。

これまで幾多の未知の惑星や宇宙現象に遭遇してきたが、その多くを解析し、対処方法を導き出してきた。

そのノアが、わからないと言っている。

それは、今まで経験したことのない事態だった。

遼は壁を見つめたまま、つぶやいた。


「……俺たちは、何に出会ったんだ?」


誰も答えられなかった。

アークノヴァは停止している。

進路の先には、終わりの見えない黒い壁。

その正体は不明。

突破できるかどうかもわからない。

そして、なぜここに存在しているのかさえ、まったくわからなかった。

やがてアレックスが、静かに命じた。


「全員、警戒態勢を維持しろ。壁の正体がわかるまで、独断で行動するな」


「了解!」


クルーたちが一斉に応じた。

メインモニターには、相変わらず黒い壁が映し出されている。

その向こうに何があるのか。

そもそも、本当に向こう側が存在するのか。

アークノヴァの前に現れた巨大な黒い壁は、何も語らない。

ただ、宇宙の闇の中に静かにそびえ立っていた。


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