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89話 Re。見慣れた天井


 宇宙に浮かぶ、果てしなく巨大な黒い壁。

 アークノヴァのブリッジにいる誰もが、その異様な光景に言葉を失っていた。

 壁には光がなかった。

 星々の輝きさえ、その黒の前では意味を失っている。まるで宇宙そのものに、ぽっかりと穴が開いてしまったかのようだった。

 ひかりは、窓の外を見つめたまま、小さく震えた。


「……あの壁、何か怖い。吸い込まれそう……」


「全員、警戒を続けろ。ノア、壁を避けて進め。迂回ルートを計算しろ!」


 アレックスの命令に、ノアが即座に応答した。


『了解。壁面を回避する進路を算出します。進路を変更します』


 アークノヴァの船体がゆっくりと向きを変える。

 しかし――。


「……おかしいな」


 遼が窓の外を見ながらつぶやいた。

 進路を変えたはずなのに、黒い壁は遠ざかるどころか、ますます大きくなっていた。

 いや、違う。

 壁が近づいているのではない。

 宇宙の景色そのものが、壁へ向かって流れているように見えた。


「ノア、距離を再計測しろ!」


『再計測中……計測不能。対象との距離が正常に定義できません』


「何だと?」


 アレックスの顔から余裕が消えた。

 その瞬間、警告音がブリッジに鳴り響いた。


『警告。船体前方に未知の空間変動を検知。重力曲率エンジンの制御に異常――』


 窓の外で、黒い壁が急激に迫ってきた。


「後退しろ! ノア、全速で後退だ! 壁に飲み込まれる!」


『後退推進を開始。重力曲率エンジン、逆方向への制御を試みます』


 船体が激しく揺れた。

 だが、アークノヴァは後退しなかった。

 エンジンの出力は上がっている。推進系統も正常。しかし、船は見えない巨大な手に引き寄せられるかのように、黒い壁へと吸い寄せられていく。


「そんな……! 動いているのに、どうして!」


 玲奈が操縦コンソールに手を伸ばした。


「遼、これって……!」


「分からない! こんなの、俺だって初めて見る!」


 遼は必死に計器を確認した。

 船体の異常ではない。

 エンジンの故障でもない。

 まるで、この宇宙に存在するすべての法則が、あの壁の前では通用しなくなっているかのようだった。

 そして――。

 黒い壁が、アークノヴァの船首に触れた。

 音はなかった。

 衝撃もなかった。

 ただ、黒が船体を覆った。


『警告。船体前方に未知の物質、もしくは空間現象が侵入しています』


「侵入だと? 船内にか!」


 アレックスが叫んだ。

 ブリッジの窓だけではない。

 隔壁の向こう側にも、黒いものが現れていた。

 廊下の壁を覆い、床を染め、天井へと広がっていく。

 それは液体のようでもあり、煙のようでもあった。しかし、どちらとも違う。

 黒い部分には、光も影も存在しなかった。


「全員、退避! 全員退避しろ!」


 アレックスの声が響き渡った。


「遼、こっち!」


 玲奈が遼の腕をつかみ、ブリッジの出口へと走り出した。

 二人は廊下を駆け抜ける。

 しかし、逃げた先にも黒い壁が広がっていた。


「くそっ! どこにも逃げ道がない!」


 遼は玲奈の手を引き、別の通路へと駆け込んだ。

 背後から、黒が迫ってくる。

 足音が響く。

 警報が鳴り続ける。

 船内放送が何かを告げているが、もう言葉として聞き取れなかった。


「玲奈、走れ!」


「遼、離さないで!」


 二人は必死に走った。

 だが、黒い壁はあまりにも速かった。

 廊下の向こうから、足元から、天井から。

 あらゆる方向から黒が押し寄せてくる。

 遼は玲奈の手を強く握りしめた。


「絶対に――」


 言葉は最後まで続かなかった。

 黒い壁が二人を包み込んだ。

 玲奈の顔が見えなくなる。

 握っていた手の感触が消える。

 光も、音も、重さも。

 すべてが失われた。

 遼の意識は、深い闇の底へと沈んでいった。


     


 ――朝。


 遼は、ぱちりと目を開けた。


「……ん?」


 見慣れた天井。

 いつもの寝室。

 枕元には、使い慣れた時計が置かれている。

 遼は寝ぼけ眼で時計を確認した。

 まだ早い。

 乗組員たちが起き出すには、少し時間があった。


「まだ早いな……」


 遼は小さくあくびをした。

 何だか妙な夢を見た気がする。

 巨大な黒い壁。

 逃げ惑う乗組員たち。

 そして、玲奈と一緒に闇に飲み込まれた瞬間。


「……何か夢を見ていたような?」


 遼は頭をかきながらベッドから起き上がった。

 顔を洗い、食堂へ向かう。

 廊下は静かだった。

 清掃ロボットが床を磨き、空調の音がかすかに響いている。

 食堂に着くと、星美が朝食の準備をしていた。


「遼様。おはようございます。朝食はまだ準備中でございますが、コーヒーはいかがでしょうか?」


「ああ、自分で入れるから大丈夫」


 星美がコーヒーカップを用意してくれた。

 遼はカップを受け取り、席に腰を下ろした。

 温かいコーヒーをひと口飲む。


「うん……うまい」


 いつもと変わらない朝。

 いつもと変わらないアークノヴァ。

 何も起きていない。

 遼は、そう思っていた。

    


 アークノヴァのブリッジに、緊張が走った。

 窓の外に現れたのは、あの巨大な黒い壁だった。


「……何だ、あれは」


 アレックスが息をのむ。

 ひかりが青ざめた顔でつぶやいた。


「あの壁、何か怖い……吸い込まれそう……」


 そして、すべてが始まった。

 進路変更。

 後退命令。

 船体への侵入。

 逃走。

 黒い壁に飲み込まれるアークノヴァ。

 遼と玲奈の叫び。

 最後に訪れる、完全な闇。

    


 ――朝。


 遼は、ぱちりと目を開けた。


「……ん?」


 見慣れた天井。

 いつもの寝室。

 枕元の時計。

 遼は時間を確認した。


「まだ早いな……」


 まったく同じ言葉。

 まったく同じ時刻。

 まったく同じ朝。

 遼は何も疑わず、ベッドから起き上がった。

 顔を洗い、食堂へ向かう。

 星美が朝食の準備をしている。


「あら、遼様。おはようございます。朝食はまだ準備中でございますが、コーヒーはいかがでしょうか?」


「ああ、自分で入れるから大丈夫」


 星美がコーヒーカップを用意してくれた。

 遼は席に腰を下ろし、ひと口飲んだ。


「うん……うまい」


 その日も、アークノヴァは黒い壁に遭遇した。

 そして、飲み込まれた。


 ――朝。


 遼は、ぱちりと目を開けた。


「……ん?」


 時計を確認する。


「まだ早いな……」


 同じ朝。

 同じ時間。

 同じコーヒー。

 同じ黒い壁。

 同じ結末。

 しかし、誰も気づかなかった。

 アレックスも。

 玲奈も。

 ひかりも。

 ノアでさえも。

 アークノヴァは、黒い壁に遭遇するたびに、同じ時間へと戻されていた。

 乗組員たちの記憶は、黒い闇に飲み込まれるたびに失われる。


 いや――。


 記憶だけではない。

 時間そのものが、何事もなかったかのように巻き戻されているのだ。


 何度も。

 何度も。

 何度も。


 同じ朝を迎え、同じ黒い壁に遭遇し、同じ絶望を味わう。

 その繰り返しの中で、ただひとつ。

 誰にも知られない変化が、少しずつ生まれ始めていた。


 そして、次の朝もまた――。


「まだ早いな……」


 遼は、いつものように目を覚ました。

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