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83話 悠斗の葛藤


 ♪ タララララララ~ン。


 アークノヴァのブリッジに、場違いなほど陽気な音楽が流れ始めた。

 遼はモニターを見た瞬間、露骨に嫌そうな顔をした。


「……うわ。堀内スペースかよ」


「えっ、遼。出なくていいの?」


「出るさ。いや出なくて良いかな……」


 遼は深いため息をつくと、悠斗の肩をぽんと叩いた。


「あとはよろしく」


「は?」


「交代の時間だろ?」


「いや、そうだけど! 今の通信、遥にでしょ!?」


「だからだよ」


「理由になってない!」


 遼は聞こえないふりをして、さっさとブリッジを出ていった。

 残された悠斗は、モニターに向き直った。


「……勘弁してくれよ」


 通信を開く。

 画面に映った堀内は、穏やかな笑みを浮かべていた。


『やあ。君がアオイ悠斗君だね』


「……はい」


『天才ハッカー。君の噂は聞いているよ』


「どうも」


 悠斗は愛想笑いを返した。

 ――なんか、嫌な感じだな。

 堀内の笑顔は自然だった。

 声も柔らかい。

 威圧的なところなど、どこにもない。

 それなのに、なぜか目をそらしたくなる。

 まるで、自分のことを何もかも知られているような感覚があった。


『ところで、君は桐島君と親しいのかな?』


「ええ、まあ。同じ船の仲間ですから」


『そうか。いいことだね。仲間というのは大切にしなければならない』


 堀内は満足そうに頷いた。


『ところで、最近、アークノヴァからの報告がずいぶん減っていてね』


「そうなんですか?」


『ああ。私はこの計画の一番の出資者なのだが、何も知らされない。桐島君に連絡しても、「私にお任せください」と言うばかりでね』


 堀内は困ったように笑った。


『おかしいと思わないかい?』


「……まあ、船の運航中はいろいろありますから」


『そうだね。君たちは忙しい。よく分かっているよ』


 堀内は、あっさりと引き下がった。

 それがかえって、悠斗には不気味だった。

 もっと食い下がってくると思っていた。

 遼への不満を並べ、悠斗から情報を聞き出そうとするのではないかと。

 しかし、堀内はそれ以上、遼の話をしなかった。

 まるで、最初からそれが本題ではなかったかのように。


『実はね、今日は君に会いたくて連絡したんだ』


「俺に?」


『そう。君と信頼関係を築きたいと思ってね』


 悠斗は眉をひそめた。


「……信頼関係ですか?」


『ああ。君のことは、いろいろと調べさせてもらったよ』


 その瞬間、悠斗の背筋に小さな寒気が走った。


「調べたって……何を?」


『君がどんな技術を得意としているか。何に興味を持つのか。どんなものに価値を感じるのか』


 堀内は指を組んだ。


『君は優秀だ。特に、誰も理解できないような複雑な技術を前にしたとき、目の色が変わるそうだね』


「…………」


『そして、一度興味を持ったものは、自分の手で確かめずにはいられない』


 悠斗の笑顔が消えた。

 それは、確かに自分の性格だった。

 だが、なぜこの男が知っている?

 誰から聞いた?

 どこまで調べた?


『心配しなくていい。君の才能を評価しているだけだよ』


 堀内は優しく微笑んだ。


『そんな君に、とっておきのプレゼントを用意した』


「……プレゼント?」


『もちろん、見返りは求めない。何かをしろとも言わない。ただ、君と友情を深めたい。それだけさ』


 悠斗は心の中で呟いた。

 ――めんどくさいな、この人。

 だが、次の言葉が、その考えを吹き飛ばした。


『型番は、MRHM155opB』


「…………は?」


 悠斗の目が見開かれた。


「ちょっと待ってください。今、何て?」


『MRHM155opBだよ』


「それって……火星大戦時の武器転用疑惑で、製造禁止になったはずじゃ……」


『よく知っているね』


 堀内は嬉しそうに頷いた。


『さすがだ。君なら、この価値が分かると思っていたよ』


「いや、でも、あれは……」


『製造禁止?』


 堀内は、そこで初めて笑みを少しだけ深くした。


『アオイ君。禁止されていることと、実現できないことは違うんだよ』


 その声には、先ほどまでの柔らかさとは異なる響きがあった。


 ほんの一瞬。


 だが悠斗は、確かに感じ取った。

 この男は、法律や規則を守るべきものだとは考えていない。

 自分が越えられる壁かどうか。

 判断基準は、それだけなのだ。


『私は君が興味を持つと分かっていた。だから用意したんだ』


「……なぜ、俺なんですか?」


『君が本物だからだよ』


 堀内は即答した。


『優秀な人間は、優秀なものを理解できる。そして、優秀な人間ほど、自分の可能性を試したいと思うものだ』


 彼は少しだけ身を乗り出した。


『君もそうだろう?』


 悠斗は答えなかった。

 答えられなかった。

 興味がないと言えば嘘になる。

 この設計データを解析できれば、技術者として得られるものは大きい。

 だが、そんなことまで見透かされているようで、ひどく気分が悪かった。


『安心したまえ。私は君に、アークノヴァを裏切れなどと言うつもりはない』


「……本当ですか?」


『もちろんだとも』


 堀内は、まるで傷ついたと言いたげに眉を下げた。


『私はただ、君個人を評価しているんだ。組織と個人は別だろう?』


 悠斗の指が、椅子の肘掛けを強く握った。

 その言葉は、あまりにも巧妙だった。

 アークノヴァを裏切らなくてもいい。

 ただ、データを受け取ればいい。

 ただ、自分の好奇心を満たせばいい。

 そう言われているようだった。


 だが――。


「……俺は、アークノヴァのみんなを裏切ることはできません」


 悠斗は、はっきりと言った。

 堀内は、少しの間、黙っていた。

 その沈黙が、妙に長く感じられた。

 やがて、彼は再び笑顔を浮かべた。


『素晴らしい。仲間を大切にするのは、実に立派なことだ』


 声色は変わらない。

 怒っている様子もない。


『だからこそ、私は君を気に入ったんだよ』


「…………」


『君に何かを頼むつもりはない。データを送るから、自由に扱ってくれればいい。三Dプリンターで出力しても構わない』


「でも、それは製造禁止の技術でしょう?」


『そうだね』


 堀内は、まるで天気の話でもするように答えた。


『だからこそ、君にとって価値がある』


 悠斗は言葉を失った。

 堀内は、こちらが何を言っても動じない。

 断っても怒らない。

 警戒しても気にしない。

 ただ、欲しいものを目の前に置いていく。

 まるで、悠斗が最後には自分から手を伸ばすと、最初から分かっているかのように。


『ああ、そうそう』


 堀内は、ふと思い出したように付け加えた。


『この通信のことは、桐島君に話しても構わないよ』


「……え?」


『隠す必要はない。私は何も悪いことをしていないからね』


 悠斗は、背筋が冷たくなるのを感じた。

 話してもいい。

 つまり、話さなくてもいい。

 どちらを選んでも、堀内は困らないのだ。

 もし遼に相談すれば、データを受け取るなと言われるだろう。

 そうなれば、悠斗は悩むことになる。

 自分の好奇心と、仲間への信頼。

 その間で揺れ続ける。

 そして、もし相談せずにデータを開いてしまえば――。

 それは、悠斗自身が選んだことになる。

 堀内は、何も命令していない。

 何も強制していない。

 ただ、贈り物をしただけ。

 それだけで、すべての責任を悠斗自身に背負わせることができる。


『では、また話そう。アオイ君』


「待ってください。俺はまだ、受け取るとは……」


『もちろん。返事は急がなくていいよ』


 堀内は微笑んだ。


『君がどうするか、楽しみにしている』


 通信が切れた。

 ブリッジに静寂が戻る。

 しばらくして、端末にデータの受信通知が表示された。

 設計データ一式。

 その下には、短いメッセージが添えられていた。

 ――君の才能が、新しい可能性を切り開くことを期待している。

 悠斗は画面を見つめた。


「……何なんだよ、あの人」


 怒りとも恐怖ともつかない感情が、胸の奥で渦巻いていた。

 データを削除することはできる。

 遼にすぐ報告することもできる。

 それが正しい判断だと、頭では分かっていた。

 なのに、画面から目を離せなかった。

 このデータの中には、自分がまだ知らない技術が眠っている。

 解析したい。

 知りたい。

 自分の手で確かめたい。

 その欲求を、堀内は正確に見抜いていた。

 悠斗は、ゆっくりと端末から手を離した。


「……遼に相談しよう」


 そう呟いた直後だった。

 受信データの詳細画面に、小さな表示があることに気づいた。

 ファイルの送信時刻。

 そして、データの受信確認。

 堀内は、最初から設計データを送りつけていたのだ。

 悠斗が受け取るかどうかを決める前に。


「……は?」


 悠斗は眉をひそめた。

 ただの添付データなら、受け取っただけで何かが起きるとは限らない。

 だが、製造禁止になった技術のデータだ。

 不用意に扱うべきではない。

 悠斗は端末を隔離モードに切り替え、データの解析を保留した。

 堀内は、悠斗に何も要求しなかった。

 脅しもしなかった。

 見返りも求めなかった。

 ただ、悠斗が最も欲しがるものを差し出した。

 そして、選択を本人に委ねた。


「……友情、ね」


 悠斗は乾いた笑いを漏らした。

 あれを友情と呼ぶのなら、友情とはずいぶん恐ろしいものだ。

ブリッジの扉が開いた。


「悠斗、何かあったか?」


 戻ってきた遼が、何気なく尋ねた。

 悠斗は一瞬、画面を隠しかけた。

 だが、すぐに思い直した。


「……遼ちょっと相談がある」


 遼の表情が変わった。


「何だ?」


 悠斗は、端末の画面を彼に向けた。


「堀内から、こんなものが送られてきたんだ」


 遼は型番を見た。

 そして、先ほどまでの眠そうな顔が消えた。


「……何だ、これは」


 その声は、低かった。

 悠斗は答えた。


「俺が何に興味を持つのか、あの人は最初から知っていたみたいだった」


 遼は黙って画面を見つめていた。

 宇宙船の外では、無数の星が静かに輝いている。

 何も変わらない、いつもどおりの宇宙

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