82話 憧れの英雄とバレンタインチョコ
アークノヴァと別れた探査船SAKURAは、静かな宇宙を航行していた。
ブリッジの中央で、船長の鳴海由香は窓の外を見つめていた。
もう、アークノヴァの姿は見えない。
それでも、由香の胸は熱かった。
「……本当に、会えたんだ」
思わず、そんな言葉がこぼれる。
幼い頃から憧れ続けてきた、伝説の宇宙船アークノヴァ。
そして、歴史の教科書や航海記録の中でしか知らなかった、アレックス艦長や遼、玲奈、リサたち。
その本人たちと、実際に会話をしたのだ。
握手こそ、最初は気絶してしまって果たせなかったが、最後にはちゃんと挨拶もできた。
由香は自分の手を見つめ、にやけそうになる口元を必死に引き締めた。
「船長、まだ感動しているんですか?」
副長が呆れたように声をかけた。
「当たり前でしょう! 歴史上の人物に会えたのよ!? しかも、アレックス艦長よ!?」
「分かりましたから、もう少し落ち着いてください」
「無理!」
由香は即答した。
副長は小さくため息をついた。
「……それより、時間航法の実験は成功しました。私たちは無事に自分たちの時代へ帰還しています」
「ええ。そうね」
由香は、ようやく表情を引き締めた。
今回の任務は、憧れの英雄に会うことではない。
人類初の時間航行実験を成功させ、アークノヴァの航海記録に残された謎を調査することだった。
そして、その実験は成功した。
未来から過去へ。
過去から未来へ。
人類は、ついに時間という壁を越えることができたのだ。
「……それにしても」
由香は、航行データを表示したモニターに目を向けた。
「この時間航行ルートを発見したのも、アークノヴァのひかりさんなのよね」
ブラックホールを経由し、かつて三つの異なる時空が交差していた領域を通過する航路。
その特殊な空間構造を見抜いたのは、アークノヴァのクルーであるひかりだった。
彼女が残した発見が、百年後の人類を時間航行の成功へと導いた。
「すごい人だったわ……」
由香は、しみじみと呟いた。
伝説というものは、後世の人間が勝手に作り上げるものだと思っていた。
しかし、実際に会ってみれば、そこにいたのは生身の人間だった。
笑い、悩み、驚き、ときには冗談を言う。
それでも、彼らの積み重ねた発見や決断が、人類の未来を切り開いていた。
だからこそ、由香は改めて思った。
――やっぱり、アークノヴァはすごい。
そして、そのクルーたちは、自分が思っていた以上に偉大な人たちだったのだ。
そのとき、ブリッジに通信音が響いた。
「地球から量子通信です!」
「地球から?」
由香は姿勢を正した。
「回線をつないで」
モニターに、地球側の担当者が映し出された。
『鳴海船長。時間航行実験の成功、おめでとうございます』
「ありがとうございます。こちらは無事に帰還しました」
『報告は受けています。人類史に残る快挙ですね』
担当者は穏やかに微笑んだ。
そして、何気ない口調で続けた。
『ところで、生命の種については、地球に着いてからゆっくり聞かせてもらいましょう。楽しみにしています』
「…………え?」
由香の笑顔が固まった。
生命の種。
そうだ。
今回の任務の本来の目的は、それだった。
アークノヴァの航海記録から消えていた、謎の記述。
――生命の種をもらった。
その真相を確かめるために、彼女たちは過去へ向かったのだ。
なのに。
なのに、どうして自分は今まで忘れていたのだろう。
アークノヴァのクルーたちに会えた感動が大きすぎて、肝心の調査報告をすっかり後回しにしていた。
「……あ、あの」
『はい?』
「その件につきましては……地球に到着してから、詳しくご報告します」
『ええ。期待していますよ』
通信が切れた。
由香は、ゆっくりと椅子の背もたれに沈み込んだ。
「……やってしまった」
「船長?」
「私、アークノヴァの皆さんに会えたことで、完全に舞い上がっていたわ……」
副長は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……報告書、どうするんですか?」
「これから考える!」
「………どうしようー」
SAKURAのブリッジに、由香の悲鳴が響き渡った。
「そういえば、あのメイドロボット……」
「はい。帰還後彼女の様子が少し変なんです」
副長が答えた。
「変って?」
「ずっと、ぼんやりしているんです。何かを思い出しているような……」
由香は首を傾げた。
その頃、メイドロボットはSAKURAの小さな整備室にいた。
誰もいない部屋で、彼女は自分の手をじっと見つめていた。
「……お会いできた」
ぽつりと呟く。
「リサ様と、ジョン様に……」
彼女の目から、涙がこぼれた。
それは、涙を流す機能が故障したわけではなかった。
彼女は、あの二人の顔を思い出していた。
突然訪れた自分を疑うこともなく、泣いている自分を優しく抱きしめてくれたリサ。
何も分からないままでも、そばで静かに見守ってくれたジョン。
あの温かさが、忘れられなかった。
「……うれしかったです」
頬を伝う涙を拭おうとして、彼女は自分の指を止めた。
拭っても、拭っても、涙があふれてくる。
「お二人に、お会いできて……本当に、うれしかったです」
声が震えた。
「思い出すと……涙が止まりません」
ロボットである自分が、なぜこれほど泣いているのか。
その理由を、彼女はうまく説明できなかった。
ただ、あの二人に会えたことが、何よりもうれしかった。
そして、涙がとまらない自分をリサが抱きしめてくれたこと。
あの瞬間が、何度も何度も心の中によみがえってくる。
こうして、人類初の時間航行実験は大成功に終わったのだが。
この時間航行は沢山の偶然が重なった奇跡の航行だった事は後で判明する
つまりこの時代では自由に時間航行はまだ出来ないのだ…
一方、その頃。
アークノヴァでは、別の一大イベントが進行していた。
「はい、そこは焦がさないように。ゆっくり混ぜてね」
「こう?」
「そうそう、ひかりちゃん。上手よ」
食堂の一角では、エレナの指導のもと、女性クルーたちがチョコレートを作っていた。
溶かしたチョコレートを混ぜ、型に流し込み、ナッツやドライフルーツで飾りつける。
作業台の上には、色とりどりのチョコレートが並んでいた。
「わあ、きれい!」
ひかりが目を輝かせた。
「これ、隼人にあげるんだよね?」
エレナが微笑む。
「うん!」
ひかりは元気よく頷いた。
「喜んでくれるかな?」
「きっと喜んでくれるわよ」
「えへへ……」
ひかりは照れくさそうに笑いながら、チョコレートを丁寧に箱へ詰めていった。
その様子を見ていた玲奈が、ふと呟いた。
「……せっかくだし、女性陣から男性陣にチョコレートを渡すことにしない?」
「いいわね!」
エレナがすぐに賛成した。
「いつも頑張ってくれているお礼にもなるし」
「私も賛成です!」
リサも頷いた。
すると、周囲の女性たちが次々に声を上げた。
「じゃあ、全員分を用意しよう!」
「男性陣、びっくりするでしょうね」
「甘いものが苦手な人もいるかもしれないから、小さめのも作っておこうか」
女性たちは楽しそうに相談を始めた。
こうして、バレンタインデーのチョコレート作りは、いつの間にか女性クルー全員参加のイベントへと発展していった
そして、チョコレートを渡す当日。
食堂に集められた男性クルーたちは、女性陣から次々とチョコレートを手渡されていた。
「はい、アレックス艦長。いつもありがとうございます」
「おお、ありがとう。これはうれしいな」
「ハッサンさんも、どうぞ!」
「おおっ! これは見事だな!」
普段は宇宙船の運航や研究、整備に追われているクルーたちも、この日ばかりは笑顔だった。
男性陣の中には、チョコレートを受け取ると妙に背筋を伸ばす者もいれば、照れくさそうに頭をかく者もいる。
隼人は、ひかりから箱を受け取った瞬間、目を丸くした。
「えっ、俺に?」
「うん! 隼人のために作ったんだよ!」
「そ、そうか……。ありがとう」
隼人の耳が、みるみる赤くなっていく。
ひかりは満面の笑みを浮かべた。
「ちゃんと食べてね!」
「ああ。大事に食べるよ」
周囲から笑い声が起きた。
その光景を眺めながら、遼は腕を組んでいた。
――なるほど。
これは、なかなかいいイベントじゃないか。
女性陣から男性陣へチョコレートが配られている。
しかも、手作りだ。
日頃の感謝を伝えるという意味では、とても素晴らしい習慣だと思う。
だが。
遼には、もう一つ気になることがあった。
――もしかして……。
彼は、さりげなくリサの姿を探した。
リサは、ほかの男性クルーにチョコレートを渡しているところだった。
――いや、待てよ。
先日、リサは妙にそわそわしていた。
俺に何か言いたそうだったし、目が合うと慌てて逃げていった。
あれは、もしかすると……。
遼の心臓が、ほんの少しだけ高鳴った。
――まさか。
――まさか、リサから本命チョコをもらえるのでは!?
考え始めると、期待が膨らんでいく。
いやいや、落ち着け。
期待しすぎるのはよくない。
そもそも、リサは誰にでも親切だ。
俺だけが特別というわけではないだろう。
でも、もしかしたら。
ほんの少しくらいは。
そんなことを考えているうちに、リサがこちらへ歩いてきた。
「遼」
「お、おう!」
遼は、思わず姿勢を正した。
リサは、にこりと微笑んだ。
「はい、これ。みんなに渡しているチョコレートよ」
差し出されたのは、きれいに包装された小さな箱だった。
「……あ、ああ。ありがとう」
遼は箱を受け取った。
リサはいつもどおりの笑顔で言った。
「エレナと玲奈が中心になって作ったの。みんなで頑張ったんだから、味わって食べてね」
「そ、そうか。みんなで……」
「うん。」
リサは軽やかに去っていった。
遼は、その背中を見送った。
……。
…………。
………………。
「……本命じゃなかった」
小さく呟く。
その瞬間、背後から声がした。
「何が本命じゃなかったの?」
「うわっ!?」
振り返ると、玲奈が不思議そうな顔で立っていた。
「な、何でもない!」
「ふうん?」
玲奈は遼の手元にあるチョコレートを見た。
「ちゃんともらえたんだから、よかったじゃない」
「いや、そうなんだけどさ……」
「何か不満でも?」
「ありません!」
遼は即座に答えた。
玲奈はくすりと笑い、彼の肩を軽く叩いた。
「私も作るの手伝ったんだから」
そう言って去っていく玲奈の背中を、遼は複雑な気持ちで見送った。
――いや、別に本命が欲しかったわけじゃない。
ただ、ほんの少しだけ期待しただけだ。
ほんの少しだけ。
……本当に、ほんの少しだけ。
地球から遠く離れた宇宙の旅。
先の見えない航海。
それでも、誰かを思ってチョコレートを作る人がいて、それを受け取って笑う人がいる。
そんな日常があることを、遼は少しだけ幸せに感じた




