68話 重力湾曲エンジン
通信室から出てきた三人――船長のアレックス、玲奈、イザベル。
その表情は、誰が見ても明るいものではなかった。
遼が声をかける。
「……何かあったのか?」
しかし、アレックスはすぐには答えなかった。
玲奈も難しい顔をしたまま、中央作戦室へ歩いていく。
イザベルが振り返った。
「みんなを集めて」
その声を聞いた悠斗が、すぐに船内放送を入れる。
ほどなくして、アークノヴァのクルー全員が中央作戦室へ集まった。
全員が席につく。
アレックスは正面に立った。
「さっき、K氏から重要な話を聞いた」
「重力湾曲エンジンについてだ」
室内に緊張が走る。
イザベルが前へ出た。
「みんなには、今まで詳しく説明してこなかったけど……」
大型モニターに、アークノヴァの断面図が表示される。
「重力湾曲エンジンは、普通の推進エンジンとはまったく違う」
船体の後部から前方へ向かう推進模式図が表示される。
「このエンジンは、船を後ろから押しているわけじゃない」
イザベルが画面を切り替える。
今度は、アークノヴァの周囲に歪んだ空間が表示された。
「船体の前方にある空間と、アークノヴァが存在している空間」
二つの空間が並ぶ。
「この二つを、重力の力を使って一時的に入れ替える」
ひかりが首を傾げる。
「空間を……入れ替える?」
「そう」
イザベルが頷く。
「例えば、アークノヴァの前に一万キロ先の空間があるとする」
画面上で、船の前方に別の空間領域が表示される。
「重力湾曲エンジンが、船体周辺の時空を極端に歪める」
空間がぐにゃりと湾曲していく。
「そして――」
二つの空間が一瞬だけ重なる。
「船が100キロ先まで飛んでいくんじゃない」
「100キロ先の空間そのものを、今いる空間と交換する」
次の瞬間、アークノヴァが一気に前方へ移動する。
ジョンが呟く。
「……だから、船体そのものを光速まで加速させているわけじゃない」
「その通り」
イザベルは頷いた。
「もっと簡単に説明するね」
イザベルが操作すると、画面の前にひかりの姿が表示された。
「仮に――」
「ひかりがアークノヴァの正面に立っていたとする」
「えっ?」
ひかりが目を丸くする。
「なんで私が前に立つのよ」
「例え話よ」
玲奈が苦笑する。
イザベルは画面を続ける。
アークノヴァの前方に、ひかりが立っている。
「普通なら、船がひかりに向かって進めば、当然ぶつかる」
「でも、重力湾曲航法ではそうならない」
アークノヴァの周囲に重力場が発生する。
「ひかりがいる空間と、アークノヴァが存在している空間そのものを入れ替える」
画面上で、二つの空間が入れ替わる。
次の瞬間――
ひかりはアークノヴァの後方に立っている。
そして、アークノヴァはひかりがいた場所に移動している。
「だから、ひかりに船体をぶつけるんじゃない」
イザベルが説明する。
「ひかりがいた空間と、アークノヴァがいた空間を交換しているだけ」
「……なるほど」
ひかりが自分の周囲を見る。
「じゃあ私、轢かれないんだ」
「そういうこと」
「ちょっと安心した」
「そもそも――」
イザベルはさらに画面を切り替えた。
今度は小さな岩石が宇宙空間に浮かんでいる。
「もしアークノヴァが、本当に通常航行で光速に近い速度まで加速したらどうなると思う?」
ハッサンが腕を組む。
「何か問題があるのか?」
「大問題よ」
イザベルが答える。
「宇宙空間は真空だけど、完全に何もないわけじゃない」
画面に、微小な岩石や宇宙塵が無数に現れる。
「例えば、ほんの数センチの小さな石」
「それがアークノヴァの進行方向に浮かんでいたら?」
映像の中で小石が船に接近する。
「船が光速に近い速度で通常航行していれば――」
小石が激しく衝突する。
巨大な閃光。
「この小さな石が、ほぼ光速で船体に突っ込んでくる」
全員が画面を見つめる。
「たった一個の小石でも、とんでもないエネルギーを持つ」
「宇宙塵ならなおさら」
「そんな状態で何百万キロ、何千万キロも航行するなんて――」
イザベルは首を振った。
「普通の物理法則で考えれば、船体はほとんど耐えられない」
ハッサンが唸る。
「……確かに」
「だからこそ――」
イザベルは重力湾曲航法の模式図を再び表示する。
「重力湾曲航法が優れている」
「船が物体を高速でかき分けながら突き進むんじゃない」
「進む先の空間そのものを、次々と交換していく」
ジョンが気づく。
「だから、途中に小石があっても……」
「その小石へ向かって船が飛んでいくわけじゃない」
「小石が存在する空間そのものを、船の現在位置と交換しない限り、衝突は起きない」
「その通り」
イザベルは頷いた。
「もちろん、完全に無敵なわけじゃない」
「強力な重力場や巨大天体や大きな物体 空間そのものの異常があれば危険になる」
「でも――」
イザベルははっきりと言った。
「少なくとも、光速近くで通常航行するよりは、はるかに合理的で安全なの」
そして、さらに画面を切り替える。
アークノヴァの前方に、小さなワープ領域が発生する。
一瞬で消える。
また発生する。
また消える。
「でも、ここからがこのエンジンの本当に特殊なところ」
「アークノヴァは、一回だけ大きなワープをしているわけじゃない」
「極端に小さな空間交換を、何十回も繰り返している」
ノアが補足する。
『現在の設計思想では、短時間の空間置換を連続的に発生させています』
画面には連続するワープの波形が表示された。
「一秒間に――何十回も」
玲奈が言う。
「つまり、船は一回の巨大なワープで飛んでいるんじゃなくて……」
「小さなワープを連続して繋いでいる」
イザベルが答える。
「そう」
「そして、それによって地球側から見れば――」
アークノヴァの速度表示が急激に上昇する。
「光速に近い速度で進んでいるように見える」
ハッサンが驚く。
「そんな速度で動いたら、時間の流れが変わるんじゃないのか?」
「普通ならね」
イザベルが頷く。
「相対性理論では、高速で運動する物体では時間の進み方に差が生じる」
「光速に近づけば近づくほど、地球側との時間の剥離が大きくなる」
画面に、地球と高速宇宙船の時計が表示される。
だが、次の瞬間。
イザベルが表示を消した。
「でも、アークノヴァの場合は違う」
「そもそも、船体をその速度まで連続的に加速しているわけじゃないから」
「小さなワープを何十回も繰り返して、一つ一つの瞬間に空間そのものを置き換えている」
「だから、通常の高速飛行で起きるような大きな時間の遅れを、そのまま受けない」
玲奈が続ける。
「つまり――」
「外から見ると光速級に移動しているように見えても」
「地球時間との大きな剥離が起きにくい」
イザベルが頷く。
「そういうこと」
遼が腕を組む。
「じゃあ、俺たちが光速に近い速度で何年も旅しても、相対性理論のせいで地球との時間差が何十年も開く、ということにはならない?」
「理論上、この方式なら通常の高速航行ほどの大きな時間差は発生しない」
イザベルはそう答えた。
「もちろん、この技術そのものが現在の地球物理学では完全に説明できていない部分もあるけどね」
ジョンが画面を指差す。
「でも、ここまで聞くと――なぜ人類がこの方式を採用したのか分かる」
「普通に光速へ近づけるより、安全で効率がいい」
「そう」
イザベルは頷いた。
「だから重力湾曲航法は、恒星間航行では非常に優れた方法なの」
しかし、イザベルの表情は晴れなかった。
画面に、重力湾曲エンジンの内部構造が表示される。
複雑な構造。
そして一部だけが黒く塗り潰されている。
「問題は――」
「私は重力湾曲エンジンの開発に関わってきた」
「でも、ここだけは説明できない」
イザベルの声が低くなる。
「なぜ、このエンジンはこんな精度で空間を切り分けられるのか」
「なぜ、何十回、何百回と連続して空間を交換しても船体が破綻しないのか」
「そして――」
金属板の映像が表示される。
「その基礎技術が、地球の科学から生まれたものではない可能性がある」
室内が静まり返る。
アレックスがモニターを見る。
「K氏の話では、この技術の原型はあの金属板に記されていた」
イザベルは頷いた。
「そう」
「だから、私たちが知らないだけで……」
玲奈が静かに呟く。
「この船は、人類がゼロから作ったものではない」
誰も答えなかった。
ノアの音声だけが響く。
『重力湾曲エンジンには、現在の物理モデルでは説明できない領域が存在します』
イザベルはしばらく黙っていた。
やがて、モニターの金属板へ視線を向ける。
「……でも」
全員がイザベルを見る。
「私は、科学者だから」
静かな声だった。
「未知の技術なら、解明しなくちゃいけない」
「どこの誰が作ったものなのか」
「どうしてこんな技術が存在するのか」
「どんな原理で空間を入れ替えているのか」
「それを知りたい」
イザベルの目には、科学者としての強い好奇心が宿っていた。
「分からないから怖い、で終わらせたくない」
「分からないなら――調べる」
「理解できるところまで、理解する」
一度言葉を切る。
そして、表情が変わった。
「でも……」
イザベルは金属板から目を離し、全員を見る。
「その技術を、戦争や人殺しの道具にすることは認めない」
誰も口を挟まなかった。
「K氏の話を聞いて――」
「私は、あの人は信用できる人だと思った」
「少なくとも、私たちに嘘をついて技術を利用させようとしている人には見えなかった」
それでも、イザベルの声は揺るがない。
「だからこそ、約束する」
「もし今後、重力湾曲エンジンや、私たちが得た実験データが武器として転用されることが分かったら――」
「私は、そのデータを渡さない」
玲奈が静かにイザベルを見る。
「政府に要求されても?」
「渡さない」
「国家命令だと言われても?」
「渡さない」
イザベルはまっすぐ答えた。
「国家反逆罪に問われても」
その言葉に、作戦室の空気が凍る。
「私は科学者として、知らないことを知るために研究する」
「人を殺すために研究するんじゃない」
「未知の技術を解明することと、それを兵器にすることは別の話よ」
イザベルは拳を軽く握った。
「私は、自分が作った技術で誰かが殺されるのを見たくない」
「だから――」
モニターに映る重力湾曲エンジンを見つめる。
「この技術の秘密は、私たちの手で解明する」
「でも、その先にある力を、人殺しのためには使わせない」
静寂の中、アレックスがゆっくり頷いた。
玲奈も続いた。
そして、一人、また一人とクルーたちが頷いていく。
ノアが静かに告げる。
『了解しました』
イザベルは最後に、金属板の映像を見上げた。
未知の技術。
未知の文明。
そして――未知の未来。
科学者として、その謎には向き合う。
だが、その力を何に使うのかだけは――
自分たちで決める。




