62話 酸素がない
どのくらい時間が経ったのだろう。
「ひかり。」
遠くから声が聞こえる。
「ひかり、大丈夫? 起きて。」
イザベルだった。
「……う……。」
ひかりがゆっくりと目を開ける。
「ここ……どこ?」
「エリスの中よ。」
「私たち、どうなったの?」
「横転したの。」
イザベルはすぐに通信装置を確認する。
「ルーデウス号、応答して!」
しばらくノイズが続いたあと、通信がつながった。
『こちらルーデウス号。』
「テット、こちらイザベル。」
『お二人とも無事ですか?』
「大丈夫。」
イザベルはほっと息を吐いた。
『ルーデウス号にも大きな損傷はありません。』
「よかった……。」
しかし、テットの声には続きがあった。
『ただし、現在の砂嵐では離陸できません。』
『風速、視界ともに危険基準を大幅に超えています。』
イザベルは周囲を見る。
横転したエリスの窓まで、身体をよじ登って近づく。
「……!」
窓の外は、茶色い砂で完全に覆われていた。
わずか一メートル先すら見えない。
猛烈な砂粒が車体を叩き続けている。
「ひどい……。」
ひかりも窓を覗く。
「何にも見えない。」
イザベルは通信を開く。
「アレックス、こちらでしばらく待機する。」
『了解。』
『ただ……イザベル。』
「何?」
『君、声が変だぞ。』
「え?」
イザベルは少し黙る。
そして、ひかりの声を聞いた。
「……あれ?」
ひかりの声も、いつもの声とは違っていた。
「えー……?」
甲高い声。
まるで別人のようだった。
「ふふっ。」
ひかりが自分の声を聞いて笑う。
「なにこれ!」
イザベルもようやく気づいた。
「ヘリウム……。」
横転した衝撃で、車体の一部が破損し、外気が車内へ入り込んでいる。
惑星Σの大気に含まれるヘリウムを吸い込んでしまっているのだ。
「ひかり、ヘルメットを着けて。」
「え?」
「早く。」
ひかりは慌ててヘルメットを装着する。
イザベルも酸素供給装置を確認する。
残量表示。
**8時間。**
イザベルの表情が曇る。
「……八時間か。」
通信でアレックスへ伝える。
「アレックス、酸素があと八時間しかない。」
『……分かった。』
『ルーデウス号まで歩いて戻ることは?』
「砂嵐が収まれば可能。」
「距離はそれほど遠くない。」
「二人なら歩いて戻れる。」
『嵐の予測は?』
イザベルはテットへ確認する。
『現在の気象モデルでは、最大風速域が通過するまで約二十時間と推定されます。』
「二十時間……。」
イザベルの顔が険しくなる。
「まずいな。」
ひかりが不安そうに尋ねる。
「八時間しかないのに……二十時間?」
イザベルはひかりを見る。
「そう。」
「だから、何か方法を考えないと。」
外では猛烈な砂嵐が吹き荒れている。
ルーデウス号は飛べない。
エリスは横転。
視界はゼロ。
そして、二人の酸素は八時間分しか残っていない。
イザベルはもう一度、通信モニターを見る。
「待ってろ。」
アレックスはルーデウス号の格納庫から酸素ボンベを一つ持ち出した。
「イザベルとひかりのところへ行く。」
「船長!」
ジョンが止めようとする。
「この砂嵐では危険です!」
「分かっている。」
アレックスはヘルメットをかぶる。
「だが、何もしないで待つわけにはいかない。」
ハッチが開く。
次の瞬間、猛烈な砂が船内へ吹き込んできた。
アレックスは身体を低くしながら歩き始める。
しかし――。
一歩。
また一歩。
前へ進むたびに風に押し戻される。
視界はほとんどない。
砂粒が宇宙服を激しく叩く。
「……くそっ!」
数十メートル進んだところで、アレックスは立ち止まった。
前が見えない。
方向すら分からない。
このまま進めば、自分まで行方不明になる。
「無理だ……。」
アレックスは悔しそうに引き返した。
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その頃、イザベルとひかりは横転したエリスの外へ出ていた。
「まず、ウインチを使って引っ張ってみよう。」
「うん!」
二人で車体を押しながらウインチで引っ張る。
びくともしない。
アンカーを外しジャツキを使う。
ワイヤーを使う。
岩を噛ませる。
何通りも試す。
しかし、横転したエリスは少し動くだけで、元の姿勢には戻らない。
「もう少し!」
「せーの!」
ギギギ……。
しかし、また倒れたまま。
時間だけが過ぎていく。
やがて二人は諦めて車内へ戻った。
「……疲れた。」
ひかりが座り込む。
イザベルも壁にもたれる。
外では依然として砂嵐が吹き荒れている。
「六時間。」
酸素残量を確認する。
その数字が二人の間に重くのしかかっていた。
しばらく沈黙したあと、ひかりが尋ねる。
「イザベル。」
「なに?」
「昔は何してたの?」
イザベルは少し考えた。
そして、静かに話し始める。
「私はコロニー育ちなの。」
「コロニーの人って、一般的には貧乏なのよ。」
「地球で仕事が見つからない人が、生活を求めてコロニーへ移住してくる。」
「そこで働いて、何とか暮らしていく。」
ひかりは黙って聞いている。
「私も、そこから抜け出したかった。」
「だから機械工学を勉強した。」
「両親は裕福じゃなかった。」
「それでも、私を大学へ行かせてくれた。」
イザベルは少し笑った。
「本当に感謝してる。」
「卒業した時は、大学でもトップクラスの成績だった。」
「そして、昔から憧れていた会社に入った。」
「ユニテクノ宇宙工業。」
ひかりが目を輝かせる。
「重力湾曲エンジンの会社?」
「そう。」
イザベルは頷いた。
「私は人生のほとんどを、そのエンジンの開発に使った。」
「失敗もいっぱいした。」
「何年も研究して、やっと一つ進む。」
「また失敗して、最初からやり直す。」
ひかりは静かに尋ねる。
「後悔してる?」
イザベルは少しだけ笑った。
「……いや。」
「悪くない人生だったよ。」
そして、ゆっくりと目を閉じる。
「自分が人生をかけて作ったエンジン。」
「それを積んだアーク・ノヴァで、こうして宇宙を旅している。」
「遠い惑星まで来て。」
「三つの太陽まで見た。」
イザベルは窓の外を見る。
もちろん、今は砂嵐しか見えない。
それでも、その向こうに広がる宇宙を思い浮かべているようだった。
「私、幸せだよ。」
ひかりはしばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「私も。」
「アーク・ノヴァに来てよかった。」
二人は肩を並べて座る。
砂嵐の音だけが響く。
まだ、助かる方法は見つかっていない。
それでも二人は、不思議と穏やかな気持ちになっていた。
そして――。
酸素残量の表示が、静かに減っていく。
**5時間42分。**




