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5話 前日

手術前日

月面基地アルテミスの居住区に設けられた、小さな面会室。


窓の向こうには、静かに青い地球が浮かんでいた。

これが、最後の面会になる。

制約で定められている。

意識転送手術を受けた者は、たとえ記憶や人格が継続していても、法的には**「元の人間と同一である保証がない存在」**とされる。


そのため、手術後の家族との直接面会は禁止されていた。

新しい存在として生きる者と、残された家族。

互いの人生を守るために作られた制約だった。

だからこそ、この時間は、本当の別れだった。


面会室の扉が開く。


美咲が入ってきた。


車椅子も杖も使わず、ゆっくりと自分の足で歩いてくる。


「待たせちゃった?」


「いや。」


遼は立ち上がった。

二人はしばらく言葉もなく見つめ合う。

若い頃なら照れてしまうような時間だった。

だが八十年近く生きると、沈黙さえ愛おしい。


やがて美咲が笑った。


「あなた、本当に若い頃から無茶ばかり。」


遼も笑う。


「そうだったかな。」


「覚えてる?」


「大学を辞めて宇宙の研究をしたいって言い出した日のこと。」


遼は吹き出した。


「親には怒られたな。」


「私は応援した。」


「生活は大変だったけど。」


二人の脳裏に、若い頃の景色が浮かぶ。

小さなアパート。

六畳一間。

古い扇風機。

夏は暑く、冬は寒かった。

給料日前になると、二人で一杯のラーメンを分け合った。

それでも幸せだった。


「あなたは毎晩、星を見ていた。」


「宇宙へ行きたいって。」


「私はその横で、お弁当を作ってた。」


遼は目を閉じる。

美咲と出会った頃

恋に落ちたこと

結婚式

子どもが生まれた日。

家を建てた日。

孫が生まれた日。

八十年という時間が、一瞬で胸を駆け抜けていく。


「美咲。」


「うん?」


遼はゆっくり頭を下げた。


深く。


深く。


「申し訳ない。」


美咲は驚いたように目を見開く。


「どうして謝るの?」


「君を一人にしてしまう。」


「約束したのに。」


「最後まで、一緒に年を取ろうって。」


声が震えた。

美咲は何も言わず、遼の手を握った。

皺だらけの手。

何十年も握り続けてきた手。


「謝らないで。」


「あなたは約束を破る人じゃない。」


「これは、あなたが選んだ最後の仕事。」


「私は、その人を好きになったんだから。」


遼の目から、一筋の涙が流れた。


「ありがとう。」


「本当はね。」


美咲は少し笑った。


「少しだけ嫉妬してるの。」


「宇宙に。」


遼は苦笑した。


「私より先に、宇宙を選んじゃった。」


「最後まで勝てなかったな。」


二人は笑った。

涙を流しながら笑った。

やがて面会終了を知らせるチャイムが鳴る。

係員が静かに頭を下げる。


「お時間です。」


遼は立ち上がった。

美咲も立つ。

二人は向き合う。

言いたいことは、まだたくさんあった。

それでも最後に出た言葉は、とても短かった。


「またね。」


美咲が言う。


遼は少しだけ首を横に振った。


「……いや。」


「さようなら。」


美咲は一瞬だけ唇を噛み、涙をこらえた。

そして笑顔を作る。


「あら。」


「最後まで格好つけるのね。」


「そういう人だった。」


遼も笑った。

扉がゆっくり閉まる。

最後に見えたのは、涙を流しながら微笑む美咲の姿だった。

遼は振り返らなかった。

振り返れば、歩けなくなる気がしたから。

その日、戸籍上の「桐島遼」は、家族と最後の別れを終えた。

翌日、手術室へ向かう男は、同じ記憶を持っていたとしても、法律上はもう別人となる。

だから、この「さようなら」が、本当の別れだった。

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