31話 希望の航路
どれほど時間が過ぎただろう。
ブリッジには誰一人として動く者はいなかった。
ノアの演算音だけが静かに響いている。
その中央で、ひかりは瞑想するように立ち尽くしていた。
突然――
ひかりの指がぴくりと動いた。
「……。」
ゆっくりと目を開く。
白く反転していた瞳は、いつもの澄んだ瞳へ戻っていた。
誰も声を掛けない。
ひかりはそのままブリッジ中央のコンソールへ歩き出す。
カタカタカタカタ……
迷いなくキーボードを叩き始めた。
ホログラム航路図に一本の光の線が描かれていく。
右へ。
左へ。
そして再び右へ。
まるで迷路を抜けるような、複雑な航路だった。
玲奈が思わず尋ねる。
「ひかり……?」
ひかりは画面から目を離さないまま話し始めた。
「私の考察だけど。」
ブリッジの全員が息をのむ。
「今、この場所では三つの宇宙が重なってる。」
ジョンが目を見開く。
「三つ……?」
ひかりはうなずく。
「私たちがいた宇宙。」
「そして、次元の異なる二つの宇宙。」
「その三つが、ほんのわずかな時間だけ交差している。」
キーボードを打つ音だけが響く。
「その交差によって重力が異常に集中し、極小ブラックホールが生まれた。」
「だから突然ブラックホールが現れたの。」
ジョンは急いでノアへ視線を向ける。
「ノア!」
『現在照合中。』
数秒後。
『ひかりの仮説は、取得データとの整合率九六・八パーセント。』
『極めて高い一致率です。』
船内にどよめきが走る。
ひかりは構わず話を続ける。
「でも安心して。」
「この交差は永遠には続かない。」
「もうすぐ三つの宇宙は離れていく。」
遥の表情が明るくなる。
「じゃあ、その時に脱出できるのか?」
ひかりは首を横に振った。
「違う。」
その一言で空気が凍り付く。
「このまま何もしなければ。」
「私たちは重力の流れに乗って、そのまま別の宇宙へ押し流される。」
リサが震える声で聞く。
「その先は……?」
ひかりは静かに答えた。
「重力勾配が限界を超える。」
「船も。」
「私たちも。」
「原子より細かく分解されて……。」
「宇宙の塵になって飛び出す。」
誰も言葉を失った。
絶望的な未来だった。
ひかりは最後のキーを叩く。
ピッ。
ホログラム上に一本の青い航路が完成する。
ブラックホールの重力の隙間を縫うように続く、一本だけの細い道。
「だから。」
ひかりはその航路を指差した。
「この道を進むの。」
「一秒でも。」
「一メートルでも。」
「ずれちゃ駄目。」
「三つの宇宙が完全に離れる、その瞬間に、この航路を正確に通り抜ければ……。」
「元の宇宙へ戻れる。」
ノアが即座に解析を開始する。
『新航路を照合中。』
『重力変動予測を開始。』
『計算完了。』
全員が固唾をのんで結果を待つ。
『ひかりの提示した航路は、現在の観測データから導き出せる唯一の生存可能経路です。』
玲奈は思わず息をのんだ。
「唯一……。」
『推定生存確率、三八・四パーセント。』
その数字は決して高くない。
しかし。
ゼロではなかった。
このブラックホールに飲み込まれて以来、初めて示された希望だった。
ひかりは安心したように小さく笑う。
「……あとは。」
「みんななら、大丈夫。」
そう言った瞬間。
ふらり、と身体が揺れた。
「ひかり!」
隣にいた隼人がとっさに飛び出す。
倒れ込むひかりを、その腕でしっかりと受け止めた。
「おい!」
「ひかり!」
返事はない。
極限まで思考を続けた代償だった。
エレナが駆け寄り、すぐに脈拍と瞳孔を確認する。
そして、ほっと息をついた。
「大丈夫。」
「命に別状はないわ。」
「脳が限界まで酷使されて、気を失っただけ。」
ブリッジにいた全員が安堵の息を漏らした。
隼人は眠るようなひかりの顔を見つめ、小さくつぶやく。
「ありがとな。」
「今度は、俺たちがみんなを連れて帰る番だ。」




