30話 天城ひかりIQ180の少女
ノアの報告が終わると、ブリッジは静まり返った。
誰も口を開かない。
現状は分かった。
しかし、脱出方法だけが分からない。
それはつまり――希望が見えないということだった。
重苦しい空気が船内を包み込む。
誰もがモニターを見つめたまま、次の言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは隼人だった。
「俺が行きます。」
全員が振り向く。
隼人は真っすぐ前を向いていた。
「戦闘機で出口を探します。」
「このまま何もしないで待っているより、可能性はあります。」
遥は即座に首を振った。
「駄目だ。」
「それは出口を探すんじゃない。」
「自殺しに行くようなものだ。」
「無人戦闘機ですら帰ってこなかったんだ。」
隼人も負けじと言い返す。
「でも誰かが動かなきゃ何も変わらない!」
「このまま全員でここに閉じ込められるより――」
「それでも駄目だ。」
遥の声は静かだったが、強い意志が込められていた。
「仲間を無駄に死なせるわけにはいかない。」
二人の間に緊張が走る。
その時だった。
「はいはい。」
場違いなほど明るい声が響いた。
「そこまで。」
全員が声のした方を見る。
ひかりだった。
椅子からぴょんと飛び降りると、得意げに胸を張る。
「こういう時こそ、私の出番ね。」
玲奈が思わず苦笑する。
「ひかり……。」
「ノア。」
ひかりは真剣な表情になった。
「今まで集めたデータ、全部出して。」
『了解。』
次の瞬間、ブリッジ中央の空間いっぱいに立体ホログラムが展開された。
ブラックホールの重力分布。
ドローンの航跡。
無人戦闘機の飛行記録。
重力波。
空間のゆらぎ。
時間の歪み。
数万を超える観測データが三次元空間に浮かび上がる。
「すごい……。」
リサが思わず息をのむ。
ひかりはゆっくりとホログラムの中央へ歩いていく。
そして、その場で目を閉じた。
深く息を吸う。
やがて身体から力が抜けていく。
両腕を自然に下ろし、まるで瞑想をする僧侶のように静止した。
次の瞬間。
瞳が白く上を向く。
呼吸だけが静かに続いている。
誰も声を掛けない。
ブリッジには不思議な静寂が訪れた。
「集中……。」
玲奈が静かにつぶやく。
遥が尋ねる。
「玲奈」
「どういうことなんだ?」
玲奈はひかりを見つめたまま話し始めた。
「ひかりは、生まれつき重い病気を抱えていたの。」
「十三歳になる頃には、生身の身体ではもう生きられない状態だった。」
「だから義体転送を受けるしかなかった。」
遥は静かに聞いている。
「でも、それだけじゃないの。」
「ひかりは幼い頃から、人並み外れた情報処理能力を持っていた。」
「IQは一八〇を超えている。」
「一度見た情報を、ほぼ完全に記憶する能力がある。」
玲奈は続ける。
「そして、本当に難しい問題に向き合う時だけ……。」
「今みたいな状態になるの。」
ブリッジ中央では、ひかりが微動だにしない。
まるで膨大な情報の海へ、自分の意識そのものを潜らせているようだった。
ノアが静かに報告する。
『ひかりの脳活動が通常時の約六倍まで上昇。』
『思考速度、著しく増加しています。』
ジョンが驚きを隠せない。
「ノアですら解析できなかった情報を、人間の直感と発想で組み立てようとしているのか……。」
誰も邪魔をしなかった。
ブリッジには、ノアの演算音だけが響いている。
そして、その中央で。
十三歳の少女の心を持つ、一人の天才が、人類の未来を左右する答えを探し始めていた。玲奈は静かに続けた。
「ひかりは、生まれた時から病院の外へ出たことがない」
遥は思わず目を見開く。
「一度も……?」
玲奈は小さくうなずいた。
「外の景色を見たことも、学校へ通ったこともない。」
「友達と遊んだことも、お祭りへ行ったこともない。」
「ひかりにとって世界は、ずっと病室だけだった。」
ブリッジは静まり返る。
いつも明るく、わがままで、皆を振り回しているひかり。
そんな彼女からは想像もできない過去だった。
玲奈はひかりを見つめながら話を続ける。
「でも、一つだけ誰にも負けないものがあった。」
「考えること。」
「病室のベッドの上で、毎日何時間も頭の中だけで思考実験を繰り返していた。」
「紙もコンピューターも使わず、頭の中だけで複雑な数式を組み立てる。」
「宇宙船の設計図を想像し、未知の物理現象を仮定し、何千通りもの結果を導き出す。」
「それが、ひかりの遊びだった。」
玲奈が続ける。
「どんな難問を与えられても、最後には必ず答えへたどり着く。」
「それが、ひかり。」
ブリッジ中央では、ひかりは白目を向いたまま微動だにしない。
しかし、その頭の中では、誰にも想像できない速度で思考が巡っていた。
ブラックホール。
重力
時間
空間
出口
無数の可能性が組み立てられ、否定され、また新しい仮説が生まれていく。
その思考の奥底で、ひかりは一つの記憶を思い出していた。
真っ白な病室。
窓の外を飛ぶ鳥。
テレビの中で笑う子どもたち。
自分だけが、その世界へ行くことはできなかった。
ずっと一人だった。
義体となってアーク・ノヴァへ乗艦してから、初めて「仲間」ができた。
食堂で皆と笑った。
隼人とくだらないことでケンカした。
玲奈に勉強を教わった。
リサにお菓子を作ってもらった。
エレナの歌を聞いて笑った。
遥には何度も頭をなでられた。
アレックスには子ども扱いされながらも、大切な仲間として接してもらえた。
病室では決して手に入らなかった日常。
それは、ひかりにとって何よりも大切な宝物になっていた。
(みんなと一緒にいたい。)
(まだ終わりたくない。)
(この船を失いたくない。)
(この仲間たちを失いたくない。)
思考の海の中で、その想いだけが、何よりも強く輝いていた。
(だから――。)
(絶対にここから出る。)
それだけだった。
それ以外の答えなど、ひかりには必要なかった。




