29話 絶望的状況
医療室。
アレックスはベッドに横たわっていた。
命に別状はなかったが、脳震とうの影響で視界が定まらず、起き上がることもできない。
エレナがペンライトで瞳孔を確認する。
「船長、無理です。」
「最低でも二十四時間は安静にしてください。」
アレックスは悔しそうに拳を握った。
「……こんな時に。」
「すまない。」
エレナは優しく微笑む。
「今は休むのも船長の仕事です。」
ブリッジでは重い空気が流れていた。
アレックスが指揮を執れない以上、副艦長である玲奈が指揮官となる。
全員の視線が玲奈へ集まった。
玲奈は深呼吸し、中央指揮席へ立つ。
しかし、その手は小さく震えていた。
モニターには「現在位置不明」の文字が並び、窓の外には星一つない漆黒の空間が広がっている。
ブラックホール。
未知の空間。
脱出方法も不明。
人類史上、誰も経験したことのない状況だった。
「私に……できるかな。」
玲奈が小さくつぶやく。
「船長の代わりなんて……。」
その声には、隠しきれない不安がにじんでいた。
その時、遥が静かに玲奈の隣へ立った。
「玲奈。」
「うん……。」
「大丈夫だ。」
遥は穏やかな声で続ける。
「お前一人で背負う必要はない。」
「俺たちは十二人でここまで来た。」
「これからも十二人で進む。」
玲奈は顔を上げる。
遥はブリッジの仲間たちを見渡した。
ジョンは観測データを開き、リサは解析端末を操作している
真田は機関状態を確認し、ハッサンは負傷した肩を押さえながら修理報告をまとめていた。
ひかりは不安そうな顔をしながらも、しっかり席に座っている。
「みんな、お前を支える。」
「だから心配するな。」
「分からないことは、一緒に考えればいい。」
「失敗しそうになったら、みんなで止める。」
「お前は一人じゃない。」
玲奈の震えていた手が、少しずつ落ち着いていく。
「……ありがとう、遥。」
遥は軽く笑った。
「副艦長。」
「命令を。」
その言葉に、玲奈は深く息を吸い込む。
そして、ゆっくりと指揮席へ座った。
さっきまでの迷いは、まだ完全には消えていない。
それでも、仲間たちがいる。
その事実が、玲奈に前を向く力を与えていた。
玲奈はまっすぐモニターを見つめる。
「ノア。」
『はい、副艦長。』
「観測ドローン十八機を全方向へ展開。」
「半径一万キロまで索敵を継続。」
「重力変動、光源、電波、空間ゆらぎ、すべて記録。」
『了解。』
「ジョン。」
「リサ。」
「取得した全データをノアへリアルタイム送信。」
「この空間の法則を見つける。」
「それが脱出への第一歩よ。」
ジョンが力強くうなずく。
「了解、副艦長。」
リサも微笑んだ。
「やりましょう。」
ブリッジの空気が変わった。
不安は消えていない。
しかし、その不安を共有する仲間がいる。
玲奈はもう一度、遥を見る。
遥は何も言わず、ただ静かにうなずいた。
その小さな仕草が、玲奈には何より心強かった。そして無人観測戦闘機から送られてくる膨大なデータ。
アーク・ノヴァは、今や未知の空間そのものを観測する巨大な研究施設となっていた。
ジョンとリサは交代でデータを整理し、玲奈は航法データとの照合を続ける。
そのすべてを、人類最高性能のAIノアが高速で解析していく。
船内の大型モニターには解析率が表示されていた。
解析率 99.2%
誰もが固唾をのんで結果を待つ。
やがてノアが静かに口を開いた。
『解析が完了しました。』
ブリッジの空気が張り詰める。
「報告して。」
玲奈が指揮席から言った。
『はい。』
モニターには立体映像が映し出された。
そこには巨大な重力場が球状に描かれ、その中心には漆黒の一点が存在していた。
『本艦は、極小ブラックホール内部の特殊領域に存在しています。』
『中心には極めて高密度の重力特異点──中心核が存在します。』
赤く表示された一点。
それは、ドローン7号が最後に異常反応を検知した方向と完全に一致していた。
ジョンが静かにうなずく。
「やはり……。」
「7号機が向かった先が中心核だったんだ。」
ノアは続ける。
『中心核では重力勾配が無限大に近づきます。』
『光子を含む、あらゆる物質・エネルギーは中心核へ引き寄せられ、脱出できません。』
リサが小さく息をのむ。
「光まで……。」
『はい。』
『可視光も電波も中心核から外へ出ることはありません。』
『そのため、この空間は極めて暗く観測されます。』
玲奈は次の画面を見つめた。
そこには複数の時計の比較データが表示されている。
『第二の解析結果です。』
『時間について。』
『本艦内部では乗組員の主観時間は通常どおり経過しています。』
『しかし、この極小ブラックホール内部では時間そのものが重力場に捕獲されています。』
『外部宇宙との時間の流れは完全に切り離されています。』
船内が静まり返る。
「つまり……。」
遥が確認する。
「俺たちにとって一日が過ぎても、外の宇宙では時間が流れていない可能性があるのか。」
『その可能性があります。』
『逆に、外部で長い年月が経過していても、本艦ではそれを認識できません。』
「時間まで飲み込まれているのか……。」
真田が思わずつぶやいた。
さらにノアは最後の解析結果を表示する。
無人観測戦闘機の最後の記録だった。
『中心核へ接近するにつれ、機体を構成する物質の結合エネルギーが急激に低下しています。』
『分子結合の崩壊。』
『原子結合の崩壊。』
『最終的には原子レベルまで分解されたと推定されます。』
誰も言葉を発しなかった。
中心へ近づくことは、消滅を意味する。
そこには希望はない。
長い沈黙のあと、玲奈が静かに尋ねる。
「……ノア。」
「ここまで分かった。」
「じゃあ、どうすれば脱出できるの?」
ブリッジ中の視線がノアへ集まる。
数秒間、演算音だけが響く。
そしてノアは、ゆっくりと答えた。
『回答します。』
『現時点では、脱出方法を導き出すことはできません。』
『観測データから現在の状況は高い精度で把握できました。』
『しかし、本空間から外部宇宙へ移行した前例は存在しません。』
『したがって、脱出方法を予測するための理論が不足しています。』
再び静寂が訪れる。
現状は理解できた。
敵の正体も見えてきた。
だが、一番知りたかった答えだけが分からない。
どうすれば、この漆黒の牢獄から出られるのか。
その答えは、まだ誰にも見えていなかった。




