第4話:黒歴史の現在
結界を張り直すのに、三秒かかった。
普段のアリアなら、一秒で済む。思いのほか精神が消耗していた。古代の禁呪を使った後の虚脱感は、普通の魔術の比ではない。体の芯から力が抜けるような、魂に皮があるのなら、それを一枚剥がされたような感覚だ。それに加え、あんな言葉を人前で叫んだ精神的ダメージが上乗せされている。
小屋の修復には物質復元を使った。一瞬で壁を元に戻し、屋根を直し、割れた窓を繋ぎ合わせる。ごく普通の魔術だ。
花壇の修復には、少し時間がかかった。
凍りついたマリーゴールドを再び咲かせる魔法も、あるにはある。だが、アリアはこの作業に魔法を使いたくなかった。凍った花の茎を一本一本丁寧に抜き、新しい種を蒔き直す。手が土で汚れる。冷たいが、それがこの花が受けた痛みだと思うと、アリアの胸も痛くなる。
そのすぐそばで、レオンがアリアの作業をじっと見つめていた。
「手伝いましょうか」
「いい。これは私がやるから」
「そうですか」
レオンはそれ以上何も言わず、その場に座り込んだ。邪魔でもなく、助けにもならず、ただそこにいる。
「おかしな奴だな」
アリアの肩に乗るゾディが呟く。アリアは何も答えない。
一通り作業を終え、小屋に戻る。結界は元通りになり、小屋も直った。花壇には新しい種が蒔かれ、結界と環境維持魔法のおかげで数日もすれば芽が出るだろう。
だが、金髪の騎士は帰らない。
「先ほどの力を拝見して、確信しました」
向かい合って紅茶を飲んでいるレオンが、唐突に言った。何杯目の紅茶だろう。アリアはもう数えるのをやめていた。
「あなたのお力があれば、王国を救えます。改めてお願いいたします。どうか——」
「断ると言ったわ」
「はい。ですので、もう少しだけお時間をいただければと」
「……もう少しって、どのくらい」
「あなたが『はい』と仰るまで」
アリアは紅茶のカップを置いた。
「それは『永遠に帰らない』と同義よ。私は絶対に行かないから」
「そうかもしれません。ですが、私には、他に手が、ありません」
レオンの声は穏やかだった。懇願するのでもなく、脅すのでもなく、ただただ困った様子だった。この山の頂以外に行くあてがなく、他に頼れる人もいない。三ヶ月歩いてようやくここに辿り着き、探していた魔女に会えたのだ。
アリアはため息をついた。
「好きにすれば。ただ、小屋からは出て。結界の中にいる分には凍死はしないから、外で寝て」
「ありがとうございます」
夜、レオンは本当に外で寝た。結界の中は温かいとはいえ、ベッドがあるわけではない。甲冑を脱いで花壇の横に横たわり、マントを被って眠っていた。文句の一つも言わなかった。
翌朝、アリアが窓から外を見ると、レオンは既に起きていて、薪を割っていた。無論、アリアは頼んでいない。小屋の裏手に積まれた薪の量が少ないことに気づいたのだろう。そんなことをしなくても、薪など魔法ですぐに調達できるのに。
その翌日は水を汲んできた。結界の端に湧き水があることを、一人で発見したらしい。
三日目には、結界の中に自生している山菜を採ってきて炒め物を作った。
「よかったらどうぞ」
台所を貸してくださいと言われたのも束の間、レオンはアリアの目の前に皿を差し出した。アリアは無言でそれを受け取り、無言で食べた。干し肉とパンしか食べてこなかった舌に、野菜の甘みが広がる。おいしい、と思ったが言わなかった。ただ、レオンは微笑んでいた。
四日目。アリアは小屋の扉を開けたまま紅茶を飲むようになった。扉を閉めないのは、暖かいからだ。レオンがそこにいるからではない。断じて。
五日目。レオンが花壇の横に座って空を見上げているのを、アリアは小屋の中から見ていた。結界の真上の空は常に晴れている。澄んだ青だ。レオンは穏やかな顔でそれを眺めていた。
「あなた、騎士団長なんでしょう。責任ある人が、こんなところでのんびりしてていいの?」
「いいえ。本来であれば、すぐに戻るべきです」
「じゃあ帰りなさいよ」
「はい。ですが、もう少しだけ」
「もう少しって——」
「この場所がとても綺麗なので」
嘘をついている顔ではなかった。ただ、花と空と温かい風の中にいることが、心地よいのだろう。アリアは何も言えなかった。
追い出す理由が見つからない。
害がない。敵意がない。ただそこにいて、薪を割って、山菜を炒めて、空を見上げている。
「ほんと、おかしな奴だな」
アリアの肩に乗ったゾディが呟く。アリアは何も答えない。
◇ ◇ ◇
その夜、眠れなかった。
レオンに見せられたあの羊皮紙が、ふと脳裏に浮かんだ。あの筆跡は間違いなくアリアのものだった。洞窟で百年を過ごした、あの頃のアリアがノートに書いた——思い出すだけで毛布を被って叫びたくなるような、恥ずかしい言葉の数々。ゾディがいないところで密かに古代語で書き綴っていた、アリアの青春の日々。いや、青春というか妄想というか、ポエムというか、捌け口と言うか……今思い出すだけでも顔から火が出るほど恥ずかしい内容が、脳裏を駆け巡る。
レオンが持っていたあの一枚は何だったのだろう。アリアの記憶の中のノートとは紙質が違っていた。いや、時を経て何らかの偶然で残った紙が変質したのかもしれない。いや、そもそもどうしてあの黒歴史が——。
アリアは暗闇の中で天井を見つめた。
考えるのはやめよう。関係ない。忘れろ。
ここで静かに暮らすのだ。あのノートのことは忘れる。忘れろ。忘れたい。忘れられない。
ゾディが窓枠の上で片目を開けた。
「寝ろよ」
「……寝てるわよ」
「起きてるじゃないか」
◇ ◇ ◇
六日目。
レオンが、不意に言った。
「今日って、何曜日でしたっけ?」
アリアは考える。この山奥に篭ってから曜日という感覚はすでに抜け落ちて久しいが、暦については空で言える。
「木曜日かしらね」
「アリア殿。一つだけ、王国の話をしてもいいですか」
レオンはしばらく俯いたあと、顔を上げて言った。
「……聞くだけよ」
「王都セラフィムには、王宮食堂というものがありまして」
アリアの眉が、ほんの僅かに動いた。
「そこのA定食が、実においしいんです。日替わりメニューで、焼き立てのパンと煮込みのスープがつきまして。それだけでもすごいのに、なんと木曜日は焼きたてパンが揚げパンになって」
「揚げパン?」
「ええ。外はさくさく、中はふわふわの。砂糖やきな粉がついているものと、プレーンなもの、チョコをまぶしたものまで、バリエーションも豊富で。不思議なことに、どんなおかずにもこれがめちゃくちゃ合うんです」
アリアの瞳の色が変わったことに、レオンは気づいただろうか。気づいていなかったかもしれないが、彼は穏やかに食堂の話を続けた。
「ここもすごくいい場所なんですが、ふと、王宮食堂のA定食を思い出してしまいました。しかも今日は木曜日ですよね? 揚げパンの日だなって思ったら、言わずにはいられなくなっちゃいました」
お腹が鳴る音がした。アリアはそれを、咳払いで誤魔化す。
沈黙が落ちた。
花壇を見るとマリーゴールドの芽が、小さく土を持ち上げ始めていた。
アリアにとっての食事は、ただの栄養補給だ。必要な量を、必要な時に摂る。タンパク質がこれだけ、脂質がこれだけ。不味くなければそれでいい。味に期待したことも、食事を楽しみにしたことも、過去に一度もない。
揚げパンというものは知識として知っている。百年以上前に見た記憶はあるものの、食べた記憶はなかった。
「アリア殿にも食べていただきたいです。王宮食堂のA定食。なんだったら、客員の魔術顧問として来ていただければ、食べ放題という契約も可能だと思います」
「……食べ放題?」
「はい。食べ放題です」
「毎日?」
「毎日です」
「……木曜日の揚げパンも?」
「もちろんです」
アリアはマフラーの奥で、唇を引き結んだ。そのまま数秒間、動かなかった。
「ありがとうございます」
不意にレオンが言った。
「行くとは言ってないわよ」
「はい」
「ただ、少し——考えるだけ」
「ありがとうございます」
レオンは微笑んだ。
「揚げパンで落ちるのか、お前は」
テーブルの端に止まっていたゾディが、呆れたような瞳でアリアを見下ろしていた。
「黙って」
「それと——もう一つ。先日お見せした聖典の写本ですが」
アリアの肩が跳ねた。
「聖典の、写本?」
アリアの脳裏に、焼き消した古代語の羊皮紙が浮かんだ。
「あれが、聖典?」
「はい。王国図書館に保管されている、聖典の写本の一部です。突然消えたので驚きましたが」
「え? ちょっと待って。待って。あれが、聖典?」
王国の図書館に保管されている聖典。誰かがあの文字を見ている。読めないまでも、崇めている。あの恥ずかしい日記……ポエムの数々を、崇高な教えだと思って。アリアは自然と顔が熱くなった。
ちょっと待て。アリアが消したのは写本?
ということは。
「じゃあ、原本がまだあるの?」
「はい。王都セラフィムの王国図書館で厳重に保管されています。ジーク副院長が研究を進めているそうで——来週の大祭典で、聖典の完全な写本が十二の神殿に奉納されると聞いています。一部、アリア殿にも分けてもらえるよう、話をしておきますよ」
来週? 十二の神殿?
「じゅ、十二冊ってこと?」
「はい。一ページずつ、高位の魔術師が書き写しているそうです。奉納後は聖遺物として、各神殿で永久保管されます」
終わった。そんなことされたら、二度と回収できない。
アリアの中で、何かが音を立てて崩れた。




