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第5話:オネショしちゃった

 出発の朝、アリアは小屋の扉に封印を施した。アリア以外には絶対に解けない魔術的な鍵だ。


 結界はそのまま残した。環境維持魔法も花壇も、なにもかもそのままにしておいた。数日前に蒔き直したマリーゴールドの芽が、土を小さく持ち上げていた。帰ってくる頃には満開の花が咲いているかもしれない。


「結界、そのままにしておくのか」


 ゾディが肩の上で聞いた。


「解く理由がないわ」


「ふうん」


「何よ。言いたいことがあるなら言って」


「いや、いい。まあ、未練がましい、とは言わないでおくか」


「言ってるじゃない」


 レオンが小屋の前に立っていた。甲冑を纏い、剣を腰に佩いた完全装備だった。


「では参りましょうか。移動手段なのですが、王都までは徒歩で五日ほど……」


「転移するわ」


 アリアはあっさりと言った。


「王国が滅びかけてるんでしょ? 五日も歩いてる余裕はないわ」


 来週には聖典という名の古代語で書かれたアリアの恥ずかしい日記兼ポエム帳の写本が、十二の神殿に奉納されるのだ。一日でも早くその在処を見つけ、その流通を止めなければならない。


「転移魔術をお使いになれるのですか。あれは相当高位の……」


 レオンは目を見開いていた。


「王都の門の前あたりでいい?」


「は、はい。南門であれば」


「南門がどういう場所か説明して。私がイメージできれば、飛べるから」


 レオンが南門の特徴を説明した。白い石造りの二重門、門の前の広場、左手に見える時計塔。アリアは目を閉じ、レオンの言葉から景色を組み立てていく。転送場所である王都の南門は、かつてアリアも訪れた経験があった。


「……大丈夫。行けそうね」


「本当ですか? 転移魔法は転移する場所に障害物があると大事故になると聞いたことがあります。最悪は命を落とすとも……」


「私を誰だと思ってるの」


 アリアはレオンの腕に触れた。転移魔法は接触している者を一緒に運べる。レオンの甲冑の感触が指先に伝わる。


「覚悟はいいか」


 ゾディが、アリアの肩の上から聞いた。


「はい」


 レオンは息を飲み、やっとの思いで答える。


「お前じゃない」


 アリアは目を閉じたまま、小さく息を吐いた。


 街に出るのは何十年ぶりだろう。たくさんの人間がいて、たくさんの声がして、たくさんの目がある場所。百年の間、人との交流を避けてきたアリアにとって、それはとてもストレスを感じる環境だろう。


「……覚悟なんて、あるわけないでしょ」


 アリアが念じると周囲は光に包まれ、そしてすぐに弾けた。


     ◇ ◇ ◇


 目を開けると、そこは王都の上空だった。


 白い石造りの二重門。広場。左手に時計塔。レオンの説明通りの景色が、眼下に広がっている。


 アリアは南門の真上に転移していた。空中であれば、遮るものは何もない。


 ゆっくりと、地面に降りる。肩の上に白いフクロウ、隣に甲冑を着た騎士を連れて。周囲にいた数人が、空から降りてきたアリアとレオンを呆然と眺めていた。


「着いたわよ」


「え? あ、おお!」


 レオンは恐る恐る目を開け、大きな声を張り上げた。


 さすがは王都。アリアがまだ一度目の生を生きた時にも存在していた、歴史ある、由緒正しき王国の中枢。だが、その景観を味わう余裕はなかった。


 人が、多すぎる。


 門前の広場には商人、旅人、騎士、馬車の群れ。このちょっとした間にすれ違った人間の数は、アリアがこの百年の間に出会った人の総数を優に超えた。人々の話し声、足音、馬のいななき、荷車の軋み。耳からの情報量が、一瞬でアリアの許容量を超えていた。


 アリアはマフラーを鼻の上まで引き上げ、フードを目深に被った。


「大丈夫ですか」


 レオンが隣で言った。


「……大丈夫」


 ではなかった。


 頭が痛い。目が乾き、耳鳴りがした。呼吸もうまくできない。


「お前、顔が青いぞ」


 肩の上のゾディが言った。


「青くない」


「青い」


 ゾディと不毛な押し問答をしていると、アリアの背中にふっと力を感じた。レオンがアリアの背に手を添えたのだ。レオンはそのまま何も言わず、広場から一本裏手の路地に入る。


「こちらの方が近道です」


 本当だろうか。だが行き交う人の群は確実に減っていた。呼吸が、少しだけ楽になる。


「王宮はこの先です。ジーク副院長はおそらく——」


 レオンの言葉が途切れた。地面が揺れた。


 小さな揺れではなかった。路地の壁にひびが走り、屋根の瓦が落ちてくる。大通りの方からは悲鳴が上がった。


 アリアは空を見た。


 南の空が黒い。何かが空を覆っていた。蝙蝠に似た形の、巨大な影が近づいてくる。その漆黒の影は三体。三つの漆黒の影は、王都の上空を優雅に旋回し始めた。その三体の体表から黒い霧が滲み出ると、そのまま地表に流れ落ちる。霧が触れた建物の壁は腐食し、霧を吸った人間が、その場に崩れ落ちていく。


「災害級……しかも、瘴気持ちときた」


 ゾディの声が険しくなる。


「アリア殿、ここは危険です! 早く王宮に——」


「間に合わないわ。瘴気がもう街に降りてる」


 大通りの方角から、咳き込む声と悲鳴が重なって聞こえてきた。瘴気を吸った人間は、放っておけば数分で命を落とす。


 レオンが剣を抜いた。


「私が市民の避難を」


「あなたも瘴気を吸ったら倒れるわ。防護薄膜ヴォワール・プロテ


 アリアの杖から薄い光の膜がレオンを包んだ。瘴気を遮断する防護結界。だが範囲はレオン一人分が限界だ。近代魔術では、街全体を覆うことはできない。


「アリア。あの瘴気を消すには——」


「わかってる」


 わかっていた。普通の魔術では圧倒的に足りない。瘴気を根こそぎ吹き飛ばすには、浄化の禁呪が必要だ。


 あの詠唱。


 人が大勢いる。大通りには数百人。王宮からも人が出てくるだろう。この街の全員に聞こえる声で、あれを叫ばなければならない。


 あの山の上では、一人の騎士の前だけだった。ここには——何百人もいる。


 それでも、とアリアは息を吸った。


「何をためらってる」


 ゾディが肩の上から低く言った。


「あの黒い瘴気を吸ったら、人間は確実に死ぬ」


「わかってる」


 アリアは唇を噛み締める。わかってる。そんなこと。


「お前がやるしかない。今すぐにだ」


「わかってるって!」


 アリアは大声を張り上げる。大通りから、子供の泣き声が聞こえた。


 アリアは杖を握り直した。悩んでいる時間はない。覚悟を決める。


 アリアは浮遊魔法で、一瞬で王宮の直上に立つ。左手で顔を覆う。指の隙間から、紫紺の瞳が空の魔獣を見上げた。顔が熱い。耳まで熱い。


 アリアは杖を天に突き上げ、大声で古代の禁呪を詠唱する。


ᛟᚾᛖ‡ᛊᛟᛊᛁ(オネ・ショシ・)ᛏᛁᚨᛣᛏᚨ(チャッタ・)・|ᚷᛟ†ᛖᚾᚾᚨ・ᛊᚨ‡ᛁ《ゴメンナ・サーイ》ッ!!」


 杖の先端から、緑黒の光が爆発した。


 光は風になった。清浄でありながらも禍々しい色の風が王都全体に吹き抜け、黒い瘴気を吹き散らしていく。濁った空が洗われるように澄んでいき、崩れかけていた人々が顔を上げ、息を吹き返す。


 瘴気を失った三体の魔獣が、苦悶の叫びを上げた。瘴気こそが彼らの鎧だったのだ。それを剥がされた魔獣は、ただの巨大な蝙蝠に過ぎない。


 上空から、魔術の光弾が降り注いだ。王宮から出てきた魔術師部隊だ。瘴気がなくなった今、通常の魔術が通用する。三体の魔獣は次々と撃ち落とされ、街の外に墜落した。


 空が、晴れた。


     ◇ ◇ ◇


 杖を掲げたままアリアが地に降り立つと、大通りに人が溢れていた。


 さっきまで瘴気に倒れていた人々が立ち上がり、空を見上げ、互いの無事を確かめ合っている。子供の泣き声は止んでいた。


 そして、その場にいた全員が、アリアを見ていた。路地の入口に立つ、銀髪で赤いマフラーを首に巻いた小柄な少女。肩には白いフクロウを乗せている。


 群衆の中から、誰かが叫んだ。


「あの方が、あの化け物の瘴気を祓ってくださったのか⁉︎」


「すごい……一瞬で街全体を……!」


 アリアは杖を下ろした。顔を覆いたかったが、もう遅い。見られている。何百人もの目に。


「ゾディ」


「なんだ」


「今の呪文なんだけど、聞こえた?」


 微かな希望を持って、アリアは尋ねる。


「街中に響いてたな。でお前、オネショがどうとか言ったか?」


「黙って」


「いや、確かにオネショシチャッタ・ゴメンナサイって——」


「黙ってって言ってるでしょ!」


 いつの間にかレオンが隣に立っていた。防護膜がまだ薄く光っている。碧い瞳で、アリアをまっすぐに見つめていた。


「先ほどの詠唱ですが」


「聞かないで」


「古代の言葉で——浄めを意味する祈りですよね。オネ・ショシというのは、おそらく古代語で『清きあがない』を——」


「しない。そんな意味はない。お願いだから黙って。黙れ黙れ」


 レオンは口を閉じたが、目は輝いていた。真面目に感動している目だった。


 王宮の正門が開き、一人の神官らしき人物が早足で歩いてきた。丸眼鏡の、砂色のゆるふわな髪の男だ。


「これは——大変な騒ぎでしたね。皆さんご無事で何よりです」


「ジーク副院長」


 レオンが眼鏡の男に言った。アリアは身構える。この男が、古代語を知るジークという魔術師か。ジークは細身でレオンと同じくらいの身長、銀縁の丸眼鏡の奥は柔和な垂れ目で、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべていた。砂色の髪を後ろに流し、純白のローブを纏っている。


 ジークの視線がアリアに向けられた。その眼鏡の奥の瞳が、ほんの一瞬アリアの左手に移る。それから、深く頭を下げた。


「あなたが——古代語を解読できる魔女ですか」


「……アリア・ヴァン・ブラックです」


 否定するのもおかしい。アリアは素直に自己紹介をする。


「お会いできて光栄です。到着早々このような事態に巻き込んでしまい、申し訳ありません」


 アリアは一言文句言ってやろうと思っていたのだが、ジークが本当に申し訳ないという表情をしたので、出鼻を挫かれる。


「……別に。放っておけなかっただけ」


「その一言で街が救われました。あなたは、この国の希望です」


 アリアはマフラーの奥で唇を噛んだ。希望なんかじゃない。オネショしちゃってごめんなさい、と叫んだだけだ。


「それにしても、さすが解読の魔女。とんでもないものをお連れに」


 ジークはアリアの肩に乗るゾディを見て、身を引いた。


「ただの白フクロウです」


 アリアがいうと、「またまた、ご冗談を」とジークが笑う。


 ゾディが肩の上で、小さく首を傾げた。


「何を企んでいるんだか」


 誰に向けた言葉かわからない呟きが、王都の青空に消えていった。


――――――――――――


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