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第3話:ママのおっぱい

 紅茶を一度に二杯淹れたのは、二度の人生で初めてのことだった。


 一杯は自分の分。もう一杯はベッドの上で丁寧に両手でカップを受け取った、得体の知れない騎士の分だ。レオンは一口飲んで


「おいしいですね」


 と言った。


 アリアは何も返せなかった。紅茶の味を人に評価されるということ自体が、この百年の人生で存在しなかったからだ。


「先ほどの話ですが」


 レオンが穏やかに切り出した。カップをテーブルに置き姿勢を正す。


「お断りのお言葉、確かに承りました。ですが、もう少しだけ——」


 レオンが言いかけたその時、地面が揺れた。


 小さな揺れではない。ガラス窓がビリビリと震え、棚の茶葉の缶が落ち、テーブルの上のカップが滑り紅茶がこぼれた。せっかく淹れた紅茶が、木目の上に褐色の水たまりを作る。


 アリアは反射的に窓の外を見た。結界の外——いや、それよりも遠くだ。山の麓の方角から、地鳴りのような轟音が近づいてくる。


「ゾディ」


「……ああ。デカいのが来る」


 ゾディの声が硬くなっていた。金色の瞳が南の空を見据えている。


 結界の向こう側、吹雪の空を裂いて、黒く大きな影が昇ってきた。翼を広げれば山の頂を丸ごと覆うような——巨大な魔獣だった。


 結界に衝撃が走る。魔術で築いた結界に魔獣の体がぶつかったのだ。ひび割れのような音が空気を伝い、花壇のマリーゴールドが一斉に揺れた。


「結界が——」


「保つ。まだ保つわ」


 アリアは左手を翳し結界の強度を上げる。だが二度目の衝突で、ひびが走った。三度目で結界の一部が砕け、極寒の風が花壇に吹き込んだ。マリーゴールドの花弁が凍りつき、強風に散る。


 紫紺の瞳が揺れる。一年前に植えた花。その苗を植えた土の感触が、手にまだ残っている。アリアは思わず花壇まで走った。


「下がっていてください。アリア殿」


 いつの間にかレオンがベットから起き上がり、剣を手にアリアと花壇の前に立った。崩れかけた結界の隙間から吹き込む冷風に、マリーゴールドが震えていた。レオンはそれを背中で庇うように立った。


「あなた、まだ体力が……」


 魔獣の咆哮が雪山に響く。付近で雪崩が起こっているのか、腹の底に轟音が響く。アリアはレオンの肩越しに魔獣を見据え、杖を構えた。


大光法術ネル・アーテ・クランテ!」


 凛とした声が、吹雪の中に響いた。杖の先端に白い光が凝縮し、弾丸のように射出される。魔術の最上位攻撃術式。たいていの魔獣なら、確実に一撃で仕留められる威力がある。


 白い光が魔獣の胸に直撃した。着弾の衝撃で雪が舞い上がり、一瞬、視界が白に染まる。


 雪が晴れた。雲ひとつない晴天に巨大な黒い影。だが魔獣は、傷一つ負っていなかった。


「まさか、ここまでとはな」


「通りで風が強いと思ってた」


 ゾディの言葉に、アリアが被せる。


 古代種だ。魔術では、原理的に干渉できない稀有な存在。


 不意にレオンが剣を構えて飛び出した。


「——待って!」


 アリアの制止は間に合わない。レオンが魔獣の前脚に剣を突きつける。耳をつんざく金属音と火花が散った。次の瞬間、魔獣の尾がレオンの体を薙ぎ払った。甲冑が歪む嫌な音がして、レオンが雪の中に叩きつけられる。


 レオンが吹き飛ばされた衝撃で、花壇の柵が砕けた。マリーゴールドに雪混じりの土が被さる。そこでアリアははたと気がついた。レオンは花壇を守ろうとしていたのだ。アリアが大切にしていることに気づいて。会ってまだ、一日しか経っていないのに。


「レオン!」


 アリアは名前を呼んでいた。略称、しかも呼び捨てだ。だが、今はそんなことどうでもいい。


 レオンはまだ意識があった。雪の中で、歯を食いしばりながら立ち上がろうとしていた。だが体が言うことを聞かないのか、顔を上げるので精一杯の様子だった。


 魔獣がレオンに向かって口を開く。喉の奥で赤黒い光が脈動する。ブレスの予備動作だ。


「アリア!」


 ゾディが叫んだ。


「何をためらってる! 早くしろ! 花畑も、この小屋も、俺たち全員消し飛ぶぞ!」


 わかっている。


 古代語を使えば倒せる。一撃で終わる。アリアにはそれだけの力がある。大光法術ネル・アーテ・クランテのような洗練された術式ではない。百年かけて解読した、古い、古の忌まわしき言葉。魔術が束になっても届かない、桁外れの魔力。

 

 ただ。


 アリアの頭の中に、これから自分が叫ばなければならない言葉が浮かんでいた。


 嫌だ。


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。絶対に、嫌だ


 人前で。こんな誠実な騎士の前で、あんな言葉を。


 だけど。


 雪の中のレオンはまだ剣を握っていた。ボロボロの体で、意識を保つのもやっとの状態で、まだ剣は手放していない。百年以上生きたアリアに取って、この一日は瞬きのようなものだ。目の前に倒れる金髪の騎士は、昨日あったばかりで、縁もゆかりもない。ただ彼は——毛布をかけてくれた。花壇の前に立ってくれた。アリアが淹れた紅茶を、おいしいと言ってくれた。


 ——死なせたくない。


 理由はそれだけだった。


 アリアは杖を天に掲げた。左手で顔を覆う。指の隙間から、紫紺の瞳が魔獣を見据えている。唇が震えていた。顔が熱い。耳の先まで熱い。涙が滲んだ。


 そして——叫んだ。


ᛗᚨ†ᚨᚾᛟᛟᛈᚨᛁ(ママノオッパイ)ᚾᛟᛁᛏᚨᛁᛞᛖᛊᚢ(ノミタイデシュー)ッ!!!!」


 杖の先端から、光が生まれた。


 白い光ではなく赤く黒く禍々しいが、目を灼くほどに輝いていた。それが一条の光線となり、まっすぐに魔獣を貫いた。


 赤黒の極光砲。


 禍々しい光線は魔獣の胸を通り抜け、背後の吹雪を裂き、遠くの雲を割った。空に一本の線が引かれたように、雲の切れ間から青空が覗いた。


 魔獣は声を上げる間もなかった。胸に空いた穴から光が漏れ出し、体が内側から崩壊していく。数秒後、巨大な魔獣の体は灰のように散り、風にさらわれて、跡形もなく消えた。


 一撃だった。


 雪煙が晴れていく。


 結界は失われていた。楽園だった場所は白い世界に呑まれている。花壇は雪の下、小屋は半壊。マリーゴールドの花は、影も形もない。


 アリアは杖を握ったまま、膝から崩れ落ちた。顔を両手で覆って、雪の上にうずくまった。


 死にたい。このまま雪に埋もれて消えたい。


「……すごい」


 声が聞こえた。顔を上げると、レオンが雪の上に半身を起こしていた。口元からは血が伝っている。それでも碧い瞳は澄んでいて、アリアをまっすぐに見ていた。


「い、一撃で……あれほどの化け物を……」


「見ないで」


 アリアは顔を覆ったまま言った。


「今のは聞かなかったことにして。忘れて。っていうか、記憶消す。絶対消す。君消す」


 ゾディがアリアの肩に降りてきた。金色の瞳はまばたきもせず、アリアを見つめている。


「……アリア。お前今、ママのおっぱい飲みたいでしゅ、って言ったか?」


「黙って」


「いや、俺の聞き間違いかもしれないが、確かに——」


「黙ってって言ってるでしょ!」


 レオンが真面目な顔で口を開いた。


「……あの。先ほどの詠唱ですが」


 アリアの体が硬直した。


「古代語というのは、現代の言葉とは全く異なる体系なのですよね。つまり先ほどの発音は、古の言語においては——」


 レオンは顎に手を当て、数秒考え込んだ。


「——母なる大地の恵みを求める祈り、とでも言いましょうか。なるほど。あれほどの光を呼び覚ますにふさわしい、慈愛に満ちた詠唱だ」


 全然違う。何一つ合っていない。


 だがレオンの碧い瞳は、心の底からそう信じている様子だった。


「見ないで。聞かなかったことにして。お願いだから」


「アリア殿。あの、なぜ、そんなに赤い顔を……」


「お願いだから黙って!」


 ゾディが肩の上で首を傾げている。レオンが困惑しながらも穏やかに微笑んでいる。


 白銀の髪に雪が積もっていく。春の陽光に照らされた楽園は、もう跡形もない。だが、アリアの膝の下の地面は、まだ温かかった。結界の最後の名残が、ほんの少しだけ残っていた。


 立て直せる。結界も、小屋も、花壇も。数秒で結界と環境維持魔法を構築し、息を吐くように運用できる。アリアにとっては、それだけのことだ。


 ただ、人前であんな恥ずかしい言葉を大声で発したアリアの感情は、もう元には戻せなかった。

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