第2話:金髪の騎士
浮遊魔法で青年の体を持ち上げ、小屋のベッドまで運んだ。甲冑込みで相当な重量だが、アリアにとっては茶葉の缶を棚に戻すのと変わらない。
問題は、そこからだった。
甲冑を外さなければ治療ができないのだが、留め具の仕組みがわからない。魔法で金属を消すわけにもいかない。できなくはないが、下手をすれば中身ごと消える。百年以上生きて得た膨大な魔術知識はあるのだが、鎧の着脱という極めて実用的かつ初歩的な技術については、何一つわからなかった。
「逆だ。そっちの留め具を先に外せ」
ゾディが窓枠から指示を出す。
「わかってるわよ」
わかっていなかった。ゾディもそれを知っていたが、突っ込みはしなかった。
四苦八苦の末に、青年の鎧を脱がす。その下は汗と泥と血にまみれた薄い肌着だった。傷が多く、中でも腹の傷は致命傷だった。何か怪物と戦ったのかもしれない。凍傷もひどい。こんな状態でよくこの山を登ることができたなと、素直に感心した。
アリアは基礎的な治癒魔法を施した。ごく普通の治癒魔法だ。
「久しぶりに見たな。お前の治癒魔法。……禁呪じゃなくてもその威力か」
「当たり前よ。このくらいで、禁呪なんか使うわけないでしょ」
ゾディの問いにアリアは素っ気なく答えた。古代の禁呪は、いわば山を動かす力だ。擦り傷に使うものではない。ただ、擦り傷と呼ぶには青年の怪我は酷すぎた。
青年の顔から苦悶の表情は消え、穏やかな寝顔になった。整った顔立ちだった。金色の髪が枕に広がり、長い睫毛が頬に影を落としている。甲冑の紋章には見覚えがなかったが、質は悪くない。王国の正規軍か、それに近い組織の人間だろう。
「……記憶を消して、麓に転送するんだろう?」
ゾディが窓枠から言った。
「ええ。そうするわよ」
ゾディはそれ以上何も言わなかった。アリアも動かなかった。椅子に座って、眠る青年の寝顔を見ていた。
人の寝顔を見るのは、いつ以来だろう。
やかんの湯がすっかり冷めたことに気づいて、アリアはもう一度火にかけた。お茶を淹れ、一口だけ飲んで、カップをテーブルに置いた。
記憶を消すのは青年が眠っている今が最善だ。起きてしまえば、抵抗される可能性もある。術自体は簡単だ。こめかみに指を当て、ここ数日の記憶を曖昧にするだけ。あとは麓にでも転送すればいい。青年は吹雪の中で遭難しかけた自分を、どこかの親切な山師が助けてくれたと思い込むに違いない。
ここには誰も来なかった。何も起きなかった。そして何も変わらない日常がまた訪れる。
アリアは椅子から立ち上がり、青年の枕元に手を伸ばした。指先が、青年のこめかみに触れようとした。
指が止まった。
なぜ止まったのか、アリア自身にもわからなかった。術式の準備は完了している。あとは魔力を流し込むだけだ。何も難しいことはない。
アリアは指を引いた。
「……朝になったら消すわ。傷を癒したばかりの状態で、記憶まで操って副作用でも出たら困るから」
誰に言い訳するでもなく、アリアは小さくそう呟いて、椅子に座り直した。ゾディは何も言わなかった。金色の瞳を閉じて、窓枠の上で丸くなった。
翌朝。
「おはようございます」
穏やかな声が聞こえて、アリアは跳ね起きた。顔を上げると、金髪の青年がベッドの上で半身を起こし、こちらを見ていた。碧い瞳が朝の光を受けて淡く輝いている。
「すみません。あなたが寒そうだったので、つい」
アリアの肩に薄い毛布がかけられていた。青年が自分の分を剥いで、椅子で眠るアリアにかけたらしい。
「……あなた、体の調子は?」
「それが、至る所傷だらけだったはずなのですが、なぜかもう、完治してまして」
悪びれる様子もなく、青年は微笑んだ。自然な笑顔だった。目の前の人間が寒そうだったから毛布をかけた。それだけのことだ、と言わんばかりの顔だった。
はくしょんっ。と、青年が大きなくしゃみをした。
アリアは毛布を畳んで青年に返した。何か言おうと思ったのだが、適切な言葉が見つからなかった。「ありがとう」と言えばいいはわかっている。知識としては知っている。だが、そのたった五文字が、喉から出てこなかった。
「……水でも、飲む?」
代わりに出たのが、それだった。
「いただけますか。ありがとうございます」
アリアは立ち上がり、青年に背を向けて水を汲んだ。部屋の温度が少し、上がった気がした。
「申し遅れました。私はレオンハルト・イーゲルと申します。ゼポルディア王国第七騎士団の団長を務めております」
背中に声がかかる。アリアは振り向かないまま水を注いだ。
「……アリア」
「アリア、殿」
「……ヴァン・ブラック。アリア・ヴァン・ブラック」
誰かにフルネームを告げるのも、いつ以来だろう。
「そこにいるのはゾディ」
ついでに窓枠からこちらを見つめる白ふくろうも紹介する。突然水を向けられたゾディは、反射的に目を細めた。レオンハルトはゾディに向かっても丁寧に頭を下げる。
水の入ったカップを差し出す時、指先が微かにレオンハルトに触れた。アリアは反射的に手を引いた。左手だった。長袖の下に、背中から左腕にかけて走る濃い紫色の紋様が隠れている。
レオンハルトは気づいたのか気づかなかったのか、穏やかに「ありがとうございます」と言って水を飲んだ。
「はあ、生き返る」
レオンハルトは一息に水を飲み干したあと、至福の表情を浮かべた。
「大袈裟な野郎だ」
ゾディが毒づいた。
「アリア殿。単刀直入にお聞きします」
レオンはカップをテーブルに置き、背筋を正す。アリアの左手の紋様をしばらく見つめた後、まっすぐにアリアを見た。
「あなたが——古代語を解読した魔女ですか」
部屋の空気が、ほんの少しだけ冷えた、気がした。窓枠のゾディが金色の瞳を細める。
「……誰に聞いたの?」
「魔術学院のジーク・クロニクル副院長です。古代の文献を研究している高位の魔術師でもあるのですが、長年の研究の結果、古代語を解読した人物がこの大陸のどこかにいるはずだと。その方の力を借りなければ、我がゼポルディア王国は滅びる、とも」
ジーク・クロニクル。
聞いたことのない名前だった。だが、古代語の解読者の存在に辿り着ける知識を持つ人間がいること自体が、アリアには想定外だった。いや、それよりも。
「王国が滅びる?」
アリアの問いに、レオンは大きく頷いた。
「半年ほど前から、災害級のモンスターが各地に出没し始めたのです。都市や村々を襲い、騎士団や魔術師団が派遣されているのですが為す術がなく、敗戦が続いています」
「魔術師団もいて?」
「はい。魔術では歯が立ちません」
レオンの声は落ち着いていたが、碧い瞳の奥には疲弊の色が滲んでいた。
「私はジーク副院長の指示を受け、古代語の魔女を探してこの大陸を三ヶ月探し歩きました。手がかりは『北の果ての山脈に季節外れの花が咲く場所がある』という伝承と、『古代語を解読した魔女はその身に古代語を宿している』というジーク副院長の言葉、それと——」
レオンが甲冑の内ポケットから、折り畳まれた一枚の羊皮紙を取り出した。
「ジーク副院長から、預かったものです」
その一枚の羊皮紙には、見覚えのある文字が並んでいた。
古代語だ。
この世でおそらくアリアにしか読めない、アリアにしか書けない文字語。しかもその筆跡は、間違いなくアリア自身のものだった。
血の気が引いた
なぜ? なぜ、これがここにある?
あの時、確かに消したはずだ。消滅魔法を放って、跡形もなく。残っていたのか? あの恥ずかしいノートが?
「ジーク副院長によると、これは古代語で記された唯一の文献だそうです。読める方がいれば、その方こそが我々の探している魔女だと」
レオンの声が遠くに聞こえていた。アリアの意識は、目の前の羊皮紙に釘付けだった。
「アリア殿。これ、読めてますよね?」
アリアは羊皮紙から目を逸らした。顔が熱い。耳まで熱い。古代語を読めるからはない。そこに何が書いてあるのか、わかってしまったからだ。
「……読めるわ」
嘘をついてもしょうがない。そう答えるのが精一杯だった。声が震えなかったのは奇跡だ。
それは一枚の日記だった。在りし日のアリアが書いた、青春の一ページだ。まだ見ぬ運命の人を夢見て書いた、ラブレターだと言ってもいい。
ゾディが窓枠の上から、金色の瞳でアリアを見ていた。何も言わなかった。だがその視線は「お前、何をそんなに動揺してるんだ」と言いたげだった。
アリアが指を鳴らすと、レオンの手にあった羊皮紙が消え、アリアの手元に移動する。
「え?」
アリアがその羊皮紙に念を込めると、一瞬で燃え消えた。
「あっ!」
レオンが体を起こそうとするも、先ほどアリアが直したばかりの傷が痛むのか、顔を歪めた。
「な、何をするんですか!」
「この場所で、古代語は禁止なの」
嘘だった。すぐにでもその存在をこの世から消したかったから、思わず強硬手段を取ってしまっただけだ。
古代語が書かれた羊皮紙は跡形もなく消えた。正確には燃えかすも残らないほどの高温で、一瞬で焼き消した。アリアはほっと胸を撫で下ろす。
「何が書かれてたんだ?」
「うるさい。あんたには関係ない」
ゾディの言葉に、アリアは即答する。
「ですが、これではっきりしました。アリア殿が古代語を解読した魔女なんですね。良かった。三ヶ月、探し回った甲斐がありました」
レオンは肩を落としつつも、安堵の表情でアリアを見つめた。その視線が、アリアの左手に移る。アリアはさっと自身の左手を背中に隠す。なぜ、古代語を解読した魔女の秘密を知っているのか。だがそれをレオンに聞いても、彼は明確な答えは持っていないだろう。聞くのであればそれは、魔術学院の副院長であるジークという者だ。
目の前の騎士が来ていた甲冑が目に入る。アリアを探し歩き回ったその甲冑は至る所傷ついていた。おそらくは道中、相当危険な目に遭ったのだろう。死んでいてもおかしくなかったはずだ。
「……大変だったわね」
それは本心だった。だが。
「でも、お断りするわ」
レオンの瞳が、わずかに揺れた。
「あなたの怪我は治した。体力が戻ったら、麓に送り届ける。ここに来たことは忘れてもらうけど、命に関わるようなことはしない。それが一番いいわ。あなたにとっても、私にとっても」
アリアは椅子から立ち上がり、やかんに手を伸ばした。会話を打ち切る動作だった。壁を作る。距離を取る。拒絶する。
「紅茶、私にも一杯いただけますか」
だがこの騎士は、アリアが作った壁を軽々と越えるように、穏やかにそう言った。
アリアの手が止まる。
「……一杯だけよ」
「ありがとうございます」
レオンは微笑んだ。




