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第1話:頂の魔女

 風が強くなったので、アリアは真紅のマフラーを口元まで上げ直した。

 

 大陸の北端にある、人の気配が絶えた険しい山脈の頂。その直下の拓けた場所に、その小屋はあった。万年雪に閉ざされたその山は、本来であれば一切の生物の存在を許さない死の世界だ。だが、その小屋の周りだけは季節外れの花々が咲き乱れ、蝶が舞い、柔らかな春の陽光が降り注いでいる。楽園という場所がこの世に存在するのなら、それはまさにここを置いて他にないだろう。


 アリアは高度な空間歪曲結界と、それを維持する恒久的な環境維持魔法の組み合わせた術式を、この付近一帯に施していた。この術式自体はそんなに難しいものではない。腕の立つ術師であれば、一ヶ月もあれば組めるだろう。だが、それを完全自動でかつ半永久的に維持するとなるとそうはいかない。維持だけでも、おそらくは中級レベルの術師が五人ずつ、日夜交代で運用しなければ不可能だ。だがアリアはその術式をほんの数秒で構築し、息を吸って吐くのと同様、自然と無意識にこの環境を維持していた。


 アリアはその紫紺の瞳で、結界によって隔たれた境界線を見つめる。先ほどその結界を破るほどの強風が吹いたため、アリアはその強度をほんの少し上げた。すると結界の中の風はおさまり、揺れていた白銀の髪がはらりとアリアの頬に落ちる。


「結界が強すぎないか? 少しくらい風が吹いた方が心地いいんだが」


 アリアが座るロッキング・チェアの背もたれに、一羽の白いフクロウが舞い降りて言った。真っ白な羽根に金色の瞳、胸のあたりには黒く禍々しい六芒星のような印が刻まれている。フクロウはその姿に似合わず重いのか、はたまたアリアが軽いのか、ロッキング・チェアがくいと後ろに揺れた。


「あなたはいいかもしれないけど、せっかく咲いたマリーゴールドが冷風で枯れたらどうするのよ」


「また咲かせればいいだろ? お前のそのお得意の魔法で」


 アリアは小さくため息をついた。このフクロウ、ゾディアックはいつもこうだ。正論を言っているようで、微妙にずれている。あるいは、わかっていてわざと言っている。


「枯らさないように守ることと、枯れたものを魔法で咲かせ直すことは全然違うの」


「結果は同じだろう」


「違うの」


 アリアの語気が少しだけ強くなる。ゾディアックは金色の瞳をゆっくりと瞬かせたが、それ以上は何も言わなかった。この魔女が本気で怒る時は声が小さくなることを、百年以上の付き合いで知っている。だが今のはまだ、甘えに似たただの苛立ちの表明に過ぎない。


 アリアの見た目は十六、七歳の可憐な少女だが、その実は百年以上生きている。前の生で王立図書館の全蔵書をその脳に叩き込み、黒竜ゾディアックと相打ちになって死に、保険のためにかけていた再生魔法のおかげで、記憶を持ったまま転生した。そしてこの二度目の生で、とある洞窟に刻まれた古代語を百年かけて解読した。現代魔術と古代の禁呪の真髄に触れた、史上初めての魔女。それがこの銀髪の少女、アリアだ。中身は正真正銘の『化け物』である。


 ゾディもまた普通のフクロウではない。その小さな体に宿る魂は、かつて東方の大陸を恐怖のどん底に陥れた、黒竜ゾディアックそのものだ。前の生でアリアと相打ちになり、共に死に、共に転生した。なぜ殺し合った相手とまた一緒に暮らしているのかと問われれば、ゾディ自身もうまく答えられないだろう。ただ、この魔女の淹れる紅茶が悪くないから、とでも言うに違いない。


 風は完全におさまっていた。結界の外では相変わらず吹雪が荒れ狂っているが、ここには届かない。花壇のマリーゴールドが穏やかに揺れていた。アリアが一年前に植えたものだ。種を蒔く時、土で手が汚れることに少しだけ笑った。百年以上生きて、初めて花の種を蒔いた。


 小屋の中から、やかんが沸く音がした。


「お茶、淹れてくる」


 アリアはロッキング・チェアから立ち上がった。マフラーの端が落ちたが、もう直す必要はなかった。


 この世界に、アリアを知る者はいない。過去にいたとしても、すでに死んでいる。アリアもまた、この世界の誰とも繋がりを持っていない。アリアはそれでいいと思っていた。百年と少し、ずっとそう思って生きてきた。


 やかんの湯気が小屋の窓からの陽光に照らされ溶けていく。アリアは棚から茶葉の缶を取り出しながら、今日の昼は何を食べようか、と考えた。干し肉はまだあったはずだ。パンは昨日焼いたのが半分残っている。食に対する欲求はないと言えば嘘になる。だが、腹を満たしこの肉体を維持するために最低限必要な栄養素があれば、それでいいと思っている。それだけのことを考えて、それだけのことで一日が終わる。


 明日もきっと同じだろう。明後日も。その先も。


 ——そのはずだった。


 結界の外縁に何かが触れた。アリアの手が止まる。


 アリアの魔力で張った結界に何かが触れたら、アリアが感知する仕組みになっていた。アリアは茶葉の缶を棚に戻し、窓の外に目を向ける。結界に触れたもの——それは魔獣でも嵐でもなく、人の気配だった。こんな山の頂に、人が来ること自体ありえない。万年雪と極寒の風が、あらゆる生き物を拒む場所だ。装備の整った冒険者であっても、中腹にすら辿り着けないだろう。


 だが、その気配は確かに結界の境界線上にあった。しかも弱っている。それも、かなり。


「ゾディ」


「ああ。俺も感じた」


 フクロウは既にロッキング・チェアの背もたれから飛び立ち、窓枠に止まっていた。金色の瞳が、結界の向こう側を射抜くように見据えている。


「人間。一人だ。衰弱がひどいな。このまま放っておけば、半刻も保たないだろう」


 アリアは何も言わなかった。窓枠に手を置いたまま、動かなかった。


 関わりたくない、という気持ちがまず浮かんだ。ここは誰にも知られていない場所だ。そうあり続ける場所だ。だが、今日人を一人助ければ、この場所の存在が知られる可能性が生まれる。知られれば、この静かな日々は終わる。


 だが。


「どうする? このままだとやっこさん、死ぬぞ。まあ、俺はどうでもいいが」


 アリアはほんの少しだけ逡巡する。


「……記憶は消せるわ。ここに来たことを忘れさせて、麓に転送すればいい」


「それもそうか」


 ゾディの声にはかすかに安堵が混じっていた。あるいは落胆だったのかもしれない。どちらにしろ、アリアには判別がつかなかった。


 小屋の扉を開け、結界の境目まで瞬間移動する。春と冬の境界。花の咲く地面が途切れ、その先は白一色の吹雪だ。


 アリアは結界の範囲を少しだけ広げた。温かい花の香りを纏った空気が、吹雪いた地面を溶かしていく。その中に人が倒れていた。アリアは急いで駆け寄る。


 銀色の甲冑を纏った青年だった。金色の髪が、溶けつつある雪に埋もれている。片手にはまだ剣を握っていた。何かから逃げてきたのか、あるいは何かを追ってきたのか——甲冑のあちこちが歪み、焦げた跡が残っている。


 青年の周りを完全に結界が包んだ途端、青年の体から力が抜けたのか、手から剣が滑り落ちた。金属が雪混じりの土に沈む鈍い音がした。


 青年の唇が微かに動いた。


「……こ、古代語を解読……できる、ま……魔女を……」


 それだけ言って、青年は意識を失った。青年の体に伸ばしたアリアの指が止まる。

 

 古代語。


 その言葉が、耳の奥で反響している。アリアが百年かけて解読した、あの言語。誰にも知られていないはずの、あの秘密。なぜこの青年が、その存在を知っているのだ。


 ——あの場所も、あの文字も、あのノートも。全部、消えたと思っていたのに。

 

 ゾディがアリアの肩に降りてきた。しばらく黙って青年を見下ろしたあと、低い声で言った。


「面倒なのが来たな」


 アリアは答えなかった。ただ、マフラーの奥で唇を引き結んで、雪の中に倒れた青年を見つめていた。


 温かい風が、青年の濡れた金色の髪を撫でた。


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