第26話:ママだいしゅき! パパだいしゅき! みんなだいしゅき!
アリアは精一杯の力を振り絞り、杖を天に掲げた。左手で顔を覆う。指の隙間から、紫紺の瞳が三体の魔獣を同時に見据える。
禁呪三連発。これを唱えたらどんな影響が体に及ぶのか、想像もできない。だが、やるしかない。
数百人が見ている。国王が見ている。レオンが見ている。ゲオルクが見ている。シルヴィアが見ている。
息を吸った。肺が破れるほど深く。
「|ᛗᚨ†ᚨ・ᛞᚨᛁᛊᚢᚲᛁ《ママ・ダイシュキ》!|ᛈᚨᛈᚨ・ᛞᚨᛁᛊᚢᚲᛁ《パパ・ダイシュキ》!|†ᛁᚾᚾᚨ・ᛞᚨᛁᛊᚢᚲᛁ《ミンナ・ダイシュキ》!ᚷᛁᚢーーー!!!」
杖の先端から、三条の光線が同時に放たれた。
赤黒い光。青黒い光。金黒い光。三色の極光砲が扇状に広がり、三体の魔獣をそれぞれ的確に貫いた。
一体目の胸を赤黒い光が貫通。鱗が砕け、体が内側から崩壊する。二体目の首を青黒い光が薙ぐ。巨体が横倒しになり、床に激突する。三体目の腹を金黒い光が抉る。魔獣は悲鳴を上げる間もなく、三体同時に崩れ落ちた。
大広間に静寂が戻る。
アリアは膝から崩れ落ちる。杖が手から滑り落ち、床に手をついた。視界が真っ白になる。体中の力が、根こそぎ抜けている。
「アリア!」
ゾディがアリアの顔の前で羽ばたいた。金色の瞳が揺れている。
「大丈夫……。まだ、意識はある……か……ら」
大丈夫ではなかった。だが意識はあった。それだけが救いだ。
大広間が、ざわめき始めた。
「三体を……同時に……」
「一言で……三体の古代種を、一瞬で……」
「大賢者様……」
レオンが駆け寄ってきた。甲冑に埃と傷がついている。アリアの横に膝をつき、背中に手を添えた。
「アリア殿っ! だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫、よ……ちょっと、座ってるだけ」
「先ほどの詠唱ですが」
来た。禁呪三連発の後でも来るのか。
「三つの光を同時に放つ詠唱……古代語で、天地人の三柱に祈りを捧げる儀式ですね。母なる大地、父なる天空、そして人々の絆。三つの祈りが一つになって、光となった。まさに、古代の叡智の結晶——」
「全然違う。まったく違うから。ママだいしゅきパパだいしゅきみんなだいしゅきぎゅーって言っただけだから」
言ってしまった。自分で。アリアは両手で顔を覆った。
「今のなし。今の全部なし。忘れて。全部忘れて。はい、記憶消す。消して、早く!」
「え? いや、あの、素晴らしい詠唱でした。天地人の三柱——」
「黙って黙って黙って黙って黙れ黙れ黙れ黙れ」
ゾディが肩に戻ってきた。
「お前、相当疲れてるな。自分でバラしてどうすんだ」
「うるさい。バカフクロウ」
「大賢者様!」
ジークの声がした。見ると、瓦礫の陰から出てきた。眼鏡のフレームは曲がり、白い高級そうなローブは埃まみれになっていた。
「聖典が……あの魔獣の中に……」
ジークの視線の先には、伏せたまま大人しくなった魔獣がいた。アリアが禁呪で手懐けた魔獣だ。
「聖典を取り返していただけませんか……。あれは、王国の至宝です」
国王の傍にいた近衛騎士も叫んだ。
「大賢者様! お願いいたします! だ、大聖典を……! あれが失われたら、我が王国の精神的支柱が……!」
国王は何も言わなかった。だがその穏やかな目がアリアを見ていた。信じている目だった。
アリアはレオンの手を借りて立ち上がり、使役中の魔獣に近づいた。魔獣は伏せたまま動かず、その大きな瞳でじっとアリアを見つめている。敵意はない。従順な犬のようだ。
「口を開けて」
魔獣が従順に口を開いた。巨大な口腔の奥に、原本は見えない。胃まで落ちているようだ。
「さっき食べたもの、吐き出して。大事な物なの」
魔獣がえずくような動きをした。数秒後、巨大な口から、唾液にまみれた一冊のノートが転がり出た。
アリアはそれを拾い上げた。ぬるりとした感触が手の平に広がる。魔獣の唾液まみれだ。だが革の表紙は無事だった。右上の角の折れ。擦り切れた背表紙。間違いない。本物だ。
アリアの黒歴史……百年の日記帳が、魔獣の唾液にまみれて手元に戻ってきた。最悪の再会だ。
「聖典……!」
ジークが駆け寄る。
「大丈夫よ。はい、これ」
アリアは聖典をジークに手渡した。ジークが白い手袋越しにそれを受け取った。少し顔をしかめつつ、懐から取り出した布で、丁寧に唾液を拭う。
「少し汚れてしまいましたが……無事のようですね」
ジークが聖典を手に微笑んだ。
「大祭典は中断となりましたが、写本の奉納は近日中に改めて行います。原本は私が責任を持って聖典の間に戻しますので」
ジークは聖典を大事そうに抱えて、大広間をあとにした。
◇ ◇ ◇
大広間は惨状だった。南側の壁が崩れ、石柱が折れ、祭壇は砕け、椅子が散乱し、ステンドグラスの破片が床に散らばっている。
「修復には数週間、かかるでしょうね」
ゲオルクが腕を組んで言った。
アリアは落とした杖を拾い上げた。体は限界を超えている。だがこの程度の魔術なら、まだ動ける。
「物質復元」
杖の先端から光が広がった。崩れた壁の瓦礫が浮き上がり、元の位置に戻っていく。石と石が噛み合い、亀裂が消え、壁面が修復される。折れた石柱が立ち上がり、砕けた祭壇の台座が組み直される。散乱した椅子が元の並びに戻る。割れたステンドグラスの破片が宙に舞い上がり、一片ずつ元の位置に嵌まっていく。七色の光が戻った。
「え……」
周囲の人々は、呆気に取られた様子でそれを見つめていた。
ものの数分で、大広間は元通りになった。最後の欠片が壁にハマると、その場にいた全員の視線がアリアに集まった。
「……嘘だろ」
ゲオルクが呟いた。
「数週間分の修復作業を、数分で……」
「ただの魔術よ。術式をちょっといじっただけ」
ただの魔術ではなかった。だがアリアにとっては、割れた茶碗を接着剤でくっつける程度の作業だ。
「大賢者様……」
誰かが呟いた。
「大賢者様、万歳!」
また始まった。古代種の魔獣を四体相手にし、瘴気から数百人を守り、聖典を取り返し、大広間を数分で修復した。大賢者の伝説がまた一つ積み上がっていく。
シルヴィアが近づいてきた。ローブの裾が埃で汚れている。アリアを支えるレオンに聞き取れらないよう、小さな声でシルヴィアが言った。
「……すり替え、失敗しましたね」
アリアはシルヴィアの目を見た。そして、ほんの少しだけ口角を上げた。
「成功したわよ」
シルヴィアの目が見開かれた。
「え? いつ……」
「ジークに手渡す時。魔獣の唾液にまみれてるから、中身を確認しなかった。だいぶ汚れちゃったから、あの様子だと中身を見たとしてももう気づかないでしょうね」
アリアはローブの内側に手を当てた。アリアの日記帳が、いま手元に戻ってきた。魔獣の唾液で少し湿っているが、これまで手を離れていた黒歴史の本体が、今アリアの体温で温まっている。
ようやく、取り返した。
修復されたステンドグラスから、七色の光が降り注いでいた。




