第27話:マリーゴールド
大祭典の翌日。アリアは自室のベッドの壁際に座り、膝の上の日記帳を眺めていた。
薄茶色の革張りの表紙。右上の角が折れている。背表紙は擦り切れ、ページの端は洞窟の湿気で波打っている。魔獣の唾液は乾いたが、かすかに獣の匂いが残っていた。
アリアの黒歴史とも言える、古代語で書かれた日記帳。数十年に及ぶ、黒歴史。数十年分の、私。
ページを開いた。古代語の文字が並んでいる。この世でアリアにしか読めない文字。
最初のページ。
——ともだちがほしい。
六歳の自分が書いた文字だった。古代語の解読を始めたばかりで、字が歪んでいる。でも一生懸命書いている。誰にも見せるつもりがなかったから、正直だった。
次のページ。
——だれかに名前を呼ばれたい。
その次。
——手をつないで歩きたい。
さらに次。
——恋がしたい。恋がしたい。恋がしたい。何で私はこんな陰気な洞窟で、フクロウと一緒にいるんだろう。
「フクロウで悪かったな」
窓枠のゾディが言った。
アリアは小さく笑って、日記帳を閉じた。
「消すわ」
「そうか。」
「ここじゃ目立つから、場所変えるね。小屋のあった雪山がいいわ。あそこなら誰もいない。人目もないし」
「わかった」
ゾディが肩に乗った。アリアは日記帳をローブの内側にしまい、転移魔法を唱えた。
◇ ◇ ◇
目を開けると、花の香りがした。
久しぶりの雪山の頂。結界に守られた楽園。山小屋はアリアが出発した時のままだった。扉の封印も健在で、誰かが訪れた様子はない。万年雪の山頂にありながら、結界の中だけは春の陽光が降り注いでいる。
花壇のマリーゴールドが満開だった。
出発前に蒔き直した種が芽を出し、茎を伸ばし、数日の間に満開の花を咲かせていた。環境維持魔法のおかげだ。オレンジと黄色の花が、風に揺れている。
アリアは花壇の前に立ち、しばらく眺める。レオンがこの花壇の前に立ってくれたことを思い出す。魔獣から庇うように、身を挺して。出会ってまだ、一日しか経っていなかったのに。
小屋の扉の封印を解いて、中に入る。埃はない。結界のおかげだ。テーブル、椅子、棚、やかん。全てが出発した日のままだった。棚には茶葉の缶が残っている。
アリアはテーブルの上にノートを置いた。
杖を構えた。
「消滅魔法」
杖の先端に光が凝縮する。あとは魔力を流し込むだけだ。ノートに向けて解き放てば、一瞬で跡形もなく消える。
——消えない。
光が、杖の先端で止まっている。発動しない。魔力が、流れない。
アリアは杖を握り直した。もう一度。集中する。消す。消すのだ。数十年分の恥ずかしい願望を。友達が欲しい。手を繋ぎたい。恋がしたい。名前を呼ばれたい。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
——消えない。
体が拒否していた。魔力がノートに向かって流れない。指先まで来て、そこで止まる。まるでアリアの体自身が「消すな」と言っているようだった。
アリアは杖を下ろし、テーブルの前の椅子に座り込んだ。
「消えないわ」
「だろうな」
ゾディがテーブルの端に降りた。金色の瞳で日記帳を見下ろしている。
「前もそうだったのかもしれない。洞窟を出る時、消滅魔法を撃ったはずだった。確かに撃った。でも、こうして残っていた。あの時も——体が拒否していたのかもしれない」
「つまり、お前はお前の意思で、このノートを消せなかったってことか」
「そういうことになるわね」
アリアは自分の左手を見た。ローブの長袖の下に、紋様が隠れている。古代語の呪いの証。禁呪を使うたび消えていく紋様。あの紋様も、このノートも、これまで生きた自分そのものだ。
消せない。
消したいのに、消せない。体が覚えている。数十年、このノートを抱えて眠った夜を。泣きながらページを開いた朝を。誰にも会えない日に、このノートだけが話し相手だったことを。
消すということは、その全てを否定することだ。
孤独を。願いを。自分を。
「ゾディ」
「なんだ」
「消せなかった」
「ああ。さっきも聞いた」
「どうしよう」
「知らん」
ゾディは素っ気ない。だが、その場から動かこうともしない。
アリアは日記帳を手に取り、表紙を撫でた。革の感触、数十年分の手垢、折れた角。
持ち歩くわけにはいかない。王宮に置いておくのは論外だ。ジークに見つかれば、全てが台無しになる。
だが、ここなら。
この小屋なら。アリアの結界に守られた、誰も訪れることのない、この世界の最果ての楽園の、この場所なら。
アリアは立ち上がり、棚に手を伸ばした。茶葉の缶の隣に日記帳を置いた。
「消さないのか」
「しょうがないでしょ。消せないんだから」
「しょうがないな」
ゾディの声は素っ気なかった。だがその金色の瞳は、どこか安堵しているように見えた。
アリアは小屋の中を見回した。テーブルに椅子、棚、やかん。茶葉の缶の隣に、一冊の日記帳。
過去の自分を、ここに預ける。消すのではなく。捨てるのではなく。
いつか、もう一度読み返す日が来るかもしれない。その時は、ひょっとしたら、今よりも恥ずかしいと感じないかもしれない。
小屋を出て、扉に再び封印を施す。振り返る。
花壇のマリーゴールドが満開だった。オレンジと黄色の花が、春の陽光に照らされて揺れている。出発前は芽が出たばかりだった。数日で、こんなにも咲いた。
環境維持魔法のおかげだ。だが、それだけではないような気がした。
アリアはマフラーを少しだけ下ろした。花の香りを吸い込んだ。甘い。温かい。
「帰りましょう」
「どこに」
「王宮の食堂。今日のA定食、何だろう」
「お前はいつも腹が減ってるな」
「百年間、干し肉とパンだけだったんだから。取り返すのよ、百年分」
ゾディが肩の上で小さく笑った。アリアも笑った。
転移魔法を唱える。光に包まれる前に、もう一度だけ花壇を見た。
マリーゴールドが満開だった。
枯らさないように守ることと、枯れたものを魔法で咲かせ直すことは、全然違う。
消さないように守ることと、消えたものを取り戻すことも、きっと、全然違う。
百年の黒歴史は、消えなかった。消せなかった。でも、ここにある。満開の花に囲まれた、世界の果ての小屋の棚に。
それでいい。今は、それでいい。
光が弾けた。雪山が消え、花の香りが遠ざかる。
次に目を開けた時、そこには王宮の廊下と、廊下の向こうで手を振るレオンの姿があった。
「アリア殿。今日の食堂のメニュー、聞きましたか?」
「まだ。何?」
「木曜日です」
木曜日。揚げパンの日だ。
アリアの歩く速度が、少しだけ速くなった。
第一部 完




