表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/28

第27話:マリーゴールド

 大祭典の翌日。アリアは自室のベッドの壁際に座り、膝の上の日記帳を眺めていた。


 薄茶色の革張りの表紙。右上の角が折れている。背表紙は擦り切れ、ページの端は洞窟の湿気で波打っている。魔獣の唾液は乾いたが、かすかに獣の匂いが残っていた。


 アリアの黒歴史とも言える、古代語で書かれた日記帳。数十年に及ぶ、黒歴史。数十年分の、私。


 ページを開いた。古代語の文字が並んでいる。この世でアリアにしか読めない文字。


 最初のページ。


 ——ともだちがほしい。


 六歳の自分が書いた文字だった。古代語の解読を始めたばかりで、字が歪んでいる。でも一生懸命書いている。誰にも見せるつもりがなかったから、正直だった。


 次のページ。


 ——だれかに名前を呼ばれたい。


 その次。


 ——手をつないで歩きたい。


 さらに次。


 ——恋がしたい。恋がしたい。恋がしたい。何で私はこんな陰気な洞窟で、フクロウと一緒にいるんだろう。


「フクロウで悪かったな」


 窓枠のゾディが言った。


 アリアは小さく笑って、日記帳を閉じた。


「消すわ」


「そうか。」


「ここじゃ目立つから、場所変えるね。小屋のあった雪山がいいわ。あそこなら誰もいない。人目もないし」


「わかった」


 ゾディが肩に乗った。アリアは日記帳をローブの内側にしまい、転移魔法を唱えた。


     ◇ ◇ ◇


 目を開けると、花の香りがした。


 久しぶりの雪山の頂。結界に守られた楽園。山小屋はアリアが出発した時のままだった。扉の封印も健在で、誰かが訪れた様子はない。万年雪の山頂にありながら、結界の中だけは春の陽光が降り注いでいる。


 花壇のマリーゴールドが満開だった。


 出発前に蒔き直した種が芽を出し、茎を伸ばし、数日の間に満開の花を咲かせていた。環境維持魔法のおかげだ。オレンジと黄色の花が、風に揺れている。


 アリアは花壇の前に立ち、しばらく眺める。レオンがこの花壇の前に立ってくれたことを思い出す。魔獣から庇うように、身を挺して。出会ってまだ、一日しか経っていなかったのに。


 小屋の扉の封印を解いて、中に入る。埃はない。結界のおかげだ。テーブル、椅子、棚、やかん。全てが出発した日のままだった。棚には茶葉の缶が残っている。


 アリアはテーブルの上にノートを置いた。


 杖を構えた。


消滅魔法デストリュイール


 杖の先端に光が凝縮する。あとは魔力を流し込むだけだ。ノートに向けて解き放てば、一瞬で跡形もなく消える。


 ——消えない。


 光が、杖の先端で止まっている。発動しない。魔力が、流れない。


 アリアは杖を握り直した。もう一度。集中する。消す。消すのだ。数十年分の恥ずかしい願望を。友達が欲しい。手を繋ぎたい。恋がしたい。名前を呼ばれたい。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。


 ——消えない。


 体が拒否していた。魔力がノートに向かって流れない。指先まで来て、そこで止まる。まるでアリアの体自身が「消すな」と言っているようだった。


 アリアは杖を下ろし、テーブルの前の椅子に座り込んだ。


「消えないわ」


「だろうな」


 ゾディがテーブルの端に降りた。金色の瞳で日記帳を見下ろしている。


「前もそうだったのかもしれない。洞窟を出る時、消滅魔法を撃ったはずだった。確かに撃った。でも、こうして残っていた。あの時も——体が拒否していたのかもしれない」


「つまり、お前はお前の意思で、このノートを消せなかったってことか」


「そういうことになるわね」


 アリアは自分の左手を見た。ローブの長袖の下に、紋様が隠れている。古代語の呪いの証。禁呪を使うたび消えていく紋様。あの紋様も、このノートも、これまで生きた自分そのものだ。


 消せない。


 消したいのに、消せない。体が覚えている。数十年、このノートを抱えて眠った夜を。泣きながらページを開いた朝を。誰にも会えない日に、このノートだけが話し相手だったことを。


 消すということは、その全てを否定することだ。


 孤独を。願いを。自分を。


「ゾディ」


「なんだ」


「消せなかった」


「ああ。さっきも聞いた」


「どうしよう」


「知らん」


 ゾディは素っ気ない。だが、その場から動かこうともしない。


 アリアは日記帳を手に取り、表紙を撫でた。革の感触、数十年分の手垢、折れた角。


 持ち歩くわけにはいかない。王宮に置いておくのは論外だ。ジークに見つかれば、全てが台無しになる。


 だが、ここなら。


 この小屋なら。アリアの結界に守られた、誰も訪れることのない、この世界の最果ての楽園の、この場所なら。


 アリアは立ち上がり、棚に手を伸ばした。茶葉の缶の隣に日記帳を置いた。


「消さないのか」


「しょうがないでしょ。消せないんだから」


「しょうがないな」


 ゾディの声は素っ気なかった。だがその金色の瞳は、どこか安堵しているように見えた。


 アリアは小屋の中を見回した。テーブルに椅子、棚、やかん。茶葉の缶の隣に、一冊の日記帳。


 過去の自分を、ここに預ける。消すのではなく。捨てるのではなく。


 いつか、もう一度読み返す日が来るかもしれない。その時は、ひょっとしたら、今よりも恥ずかしいと感じないかもしれない。


 小屋を出て、扉に再び封印を施す。振り返る。


 花壇のマリーゴールドが満開だった。オレンジと黄色の花が、春の陽光に照らされて揺れている。出発前は芽が出たばかりだった。数日で、こんなにも咲いた。


 環境維持魔法のおかげだ。だが、それだけではないような気がした。


 アリアはマフラーを少しだけ下ろした。花の香りを吸い込んだ。甘い。温かい。


「帰りましょう」


「どこに」


「王宮の食堂。今日のA定食、何だろう」


「お前はいつも腹が減ってるな」


「百年間、干し肉とパンだけだったんだから。取り返すのよ、百年分」


 ゾディが肩の上で小さく笑った。アリアも笑った。


 転移魔法を唱える。光に包まれる前に、もう一度だけ花壇を見た。


 マリーゴールドが満開だった。


 枯らさないように守ることと、枯れたものを魔法で咲かせ直すことは、全然違う。


 消さないように守ることと、消えたものを取り戻すことも、きっと、全然違う。


 百年の黒歴史は、消えなかった。消せなかった。でも、ここにある。満開の花に囲まれた、世界の果ての小屋の棚に。


 それでいい。今は、それでいい。


 光が弾けた。雪山が消え、花の香りが遠ざかる。


 次に目を開けた時、そこには王宮の廊下と、廊下の向こうで手を振るレオンの姿があった。


「アリア殿。今日の食堂のメニュー、聞きましたか?」


「まだ。何?」


「木曜日です」


 木曜日。揚げパンの日だ。


 アリアの歩く速度が、少しだけ速くなった。













 第一部 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ