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第25話:アリアの番

 四年に一度の大祭典が、始まろうとしていた。


 天井の高い大広間に、ステンドグラスの光が七色に降り注いでいる。白い石柱が等間隔に並び、壁面には王国の紋章が刺繍されたタペストリーが掛けられていた。祭壇は大広間の最奥、一段高くなった台座の上にある。そこに、間もなく聖典の原本が置かれる。


 参列者は数百人以上はいそうだ。騎士、文官、魔術師、神官、十二の神殿の代表者。王国の要人がこの場に集まっていた。正装の群衆がざわめき、椅子の軋む音と衣擦れの音が大広間に満ちている。


 アリアが座るのは最前列の来賓席だ。隣にはジークが座っている。ジークはいつもと変わらず、穏やかな微笑みを浮かべていた。銀縁の丸眼鏡と純白のローブは式典用なのか、普段よりも高級感を醸し出していた。


「お似合いです」


 ジークがアリアの服装を見ながら言った。アリアも式典の正装……漆黒の高級そうなローブを魔術学院側が用意していたので、渋々それに着替えていた。アリアはにっこりと、とりあえずの笑顔で返す。


「このような式典は初めてですか?」


「ええ」


「四年に一度の祝祭です。今年は聖典の写本を十二の神殿に奉納する、王国の歴史の中でも指折りの神聖な儀式もあります。大賢者様も、感動していただけると思いますよ」


 感動するかどうかはともかく、アリアのローブの内側には偽装した写本がある。脇腹には革の感触があった。何もしていないのに心臓が騒ぐ。だが顔には出さない。


 ジークの向こう——来賓席の中央に、一人の老人が座っていた。白髪に金の冠。深い紫のマントを纏い、背筋を伸ばしている。傍らには屈強な近衛騎士二人が立っている。


「あれが国王陛下です」


 ジークが小声で教えてくれた。


「学院長から、大賢者様のことはお聞きになっているそうです。後ほどご挨拶の機会を設けますね」


 国王。この国の頂点。アリアは百年以上生きているが、国王に会うのは初めてだった。前の生では図書館に入り浸っているだけの少女で、王宮の奥には縁がなかった。


 国王がアリアの方を見た。穏やかな目だった。レオンに似ている、と思った。権力者の威圧ではなく、人を見守る温かい眼差しだ。王は小さく頷いた。アリアも頷き返した。


 シルヴィアは三列後ろにいる。目を合わせた。小さく頷いた。共犯者の頷きだ。


 ゾディは部屋で待機している。ペットは参加できません、とジークに言われ、しこたま不機嫌になっていた。右肩が、少し寂しかった。


 レオンは来賓席ではなく、大広間の入口付近に立っていた。第七騎士団として、この祭典全体の警備を担当している。甲冑を纏い、剣を腰に佩いた完全装備。さっきまで一緒に市場で揚げパンを食べていた男とは到底思えない。


 ファンファーレが鳴り響いた。


 大広間が静まる。神官が祭壇の前に立ち、祈祷を唱え始めた。重々しい声が石壁に反響する。参列者が頭を垂れる。アリアも頭を下げた。だが目は開いている。祭壇を見ている。


 祈祷が終わると、ジークが立ち上がった。


「それでは、旧約ゼポルディア原理福音大聖典の原本を、祭壇にお迎えいたします」


 ジークが大広間を出ていく。聖典の間に向かったのだ。七重の封印を解き、原本を取り出す。


 待っている間、心臓が煩かった。脇腹に隠した、写本の重みを感じる。手順を確認する。ジークが原本を祭壇に置く。アリアが来賓として祭壇に進み出る。原本に触れた瞬間に、ローブの中の写本と入れ替える。一瞬で終わる。そう、一瞬だ。


 大広間の扉が開き、ジークが原本を捧げ持って戻ってきた。白い手袋越しに、あの日記帳を持って。


 薄茶色の革張りの表紙。折れた右上の角。長年の使用で擦り切れた背表紙。


 記憶の中の日記帳と完全に一致する。完全にコピーしたものが今手元にあるとはいえ、本物は別格だ。私の、黒歴史。


 ジークが祭壇の前に立ち、原本を祭壇の上に置いた。その脇に立ち、アリアに視線を送る。


 アリアの番だ。


 進行役の神官が口を開きかけた。


 その瞬間、大広間が揺れた。


 小さな揺れではなかった。ステンドグラスがびりびりと震え、石柱にひびが走った。天井から埃が舞い落ちた。参列者が悲鳴を上げ、椅子から立ち上がった。


 大広間の壁が、砕けた。


 南側の壁面が内側に崩れ、瓦礫が参列者の席に降り注いだ。騎士たちが剣を抜き、参列者を庇おうと動く。


 崩れた壁の向こうから、それが入ってきた。


 巨大な獣だった。体長は大広間の幅の半分ほどもある。四つの脚に鉤爪。体表が黒い鱗で覆われ、目が真紅に燃えている。口から黒い瘴気が漏れ出ていた。古代種だ。


 大広間の厳粛な雰囲気が、一気に恐怖の色に染まる。参列者が出口に殺到した。神官たちが転び、貴族たちが叫ぶ。屈強な近衛兵士が国王の前に立ち塞がる。


「避難誘導! 参列者を外に!」


 レオンの声が大広間に響いた。騎士団が動く。レオンが剣を抜き、前線に出る。ゲオルクが大剣を構え、レオンの隣に立った。


 魔獣の咆哮が大気を震わせた。黒い瘴気が、大広間に広がる。瘴気を吸った参列者がばたばたと崩れ落ち始めた。


「大賢者様!」


 ジークの声が聞こえた。振り返ると、ジークが祭壇の前に立っていた。原本に手を伸ばそうとしている。回収しようとしているのだ。


 だが魔獣は一体ではなかった。


 崩れた壁の穴から、二体目が入ってきた。一体目よりやや小さいが、同じ黒い鱗、同じ真紅の目。続いて三体目。さらに四体目。合計四体の古代種が、大広間に雪崩れ込んでいた。


 四体が暴れ始めた。石柱に体当たりし、椅子を踏み潰し、タペストリーを引き裂く。口から黒い瘴気が噴き出し、大広間全体に充満していく。瘴気を吸った参列者がばたばたと崩れ落ちていた。


 最初に突入した一体が祭壇に激突した。ジークが横に飛ぶ。台座が砕け、石の破片が飛び散る。原本が宙に舞った。


 黒い鱗の魔獣が、落下する原本を丸呑みにした。


 丸呑みにした。


 アリアの日記帳を。長年の黒歴史が、あの魔獣の腹の中に。


 一瞬、アリアの思考が止まった。


 消えた。黒歴史の原本が消えた。魔獣の胃の中で溶ければ、あの恥ずかしいノートはこの世から消滅する。すり替えの必要すらない。これでいいじゃない。


 だが大広間は地獄と化していた。黒い瘴気が充満し、参列者が次々と倒れている。出口に殺到する人の波が入口で詰まり、悲鳴と怒号が反響している。


 聖典どころではない。人が死ぬ。


 まずは瘴気をなんとかしないと。古代種の瘴気は通常の魔術では消せない。浄化の禁呪が必要だ。


 アリアは杖を天に掲げた。左手で顔を覆った。数百人の前、国王の前で、あの詠唱をしなければならないのか。だが瘴気を吸えば、人は死ぬ。迷っている暇はない。


ᛟᚾᛖ‡ᛊᛟᛊᛁ(オネ・ショシ・)ᛏᛁᚨᛣᛏᚨ(チャッタ・)・|ᚷᛟ†ᛖᚾᚾᚨ・ᛊᚨ‡ᛁ《ゴメンナ・サーイ》ッ!!」


 杖の先端から、緑黒の光が爆発した。清浄な風が大広間全体に吹き抜け、黒い瘴気を吹き散らしていく。濁った空気が洗われるように澄んでいき、崩れかけていた人々が顔を上げ、息を吹き返す。


「瘴気が……消えた……!」

「大賢者様が……!」


 アリアの膝が震えた。体の芯から力が抜けていく。だがまだ終わっていない。四体の古代種の魔獣が、まだ暴れているのだ。魔術師団が光弾を撃ち込み応戦しているが、黒い鱗に弾かれ火花となって散るだけだった。


 アリアは杖を構え直した。左手で顔を覆う。四体の魔獣を見据え、口を開く。


ᚾᛁᚨᚾ‡ᚾᛁᚨᚾ(ニャン・ニャン)|・ᚷᛟᛊ‡ᚢᛁᚾᛊᚨ†ᚨ《・ゴシュジンサマ》|・ᛞᚨᛁᛊᚢᚲᛁ‡ᚾᛁᚨ《・ダイスキ・ニャー》ッーー!」


 銀黒い光が、聖典を呑んだ個体を包み込んだ。黒い鱗が銀の光に染まる。巨体が動きを止め、瘴気が消えた。魔獣はゆっくりと大広間の床に伏せた。腹を見せるように横たわる。使役契約が成立した。


 膝が笑った。禁呪の二連発。体から力が抜けていく。視界がちらつく。だが残りの三体がまだ暴れている。一体が石柱に体当たりし、柱が折れた。天井の一部が崩れ落ちる。


「このサイズだと、一度に一体が限界みたい」


「残りは力技だな」


 聞こえるはずがないゾディの声が聞こえた。いつの間にか、白いフクロウが窓の破片が散る大広間を飛んできて、アリアの肩に降り立っていた。


「なんでここにいるのよ」


「うるさい。窓が割れたから入ってきただけだ。ペット禁止もクソもあるか」


 アリアは小さく笑った。右肩にゾディの重さがある。それだけで、体が少し軽くなった。


 残り三体。瘴気はおねしょで浄化済みだが、古代種の鱗は魔術では傷がつかない。騎士団の白兵戦でも、この数は厳しい。


 瞬時に考える。この状況を、打破する方法を。


 ーー三体を同時に仕留める方法を、一つだけ思いついた。


 極光砲の上位禁呪。一度に三条の光線を放つ。だが、使いたくない。詠唱が、ママのおっぱいよりもさらに恥ずかしいからだ。


 だが三体が暴れ続ければ、大広間が崩壊する。参列者が死ぬ。レオンが前線にいる。ゲオルクがいる。騎士たちがいる。


 体が限界を訴えていた。腕が重い。杖を持ち上げるのに、全身の筋肉を総動員してやっとだ。指先が痺れ、感覚が薄れている。視界の端が暗い。禁呪の三連発か。もう、心も体もボロボロよ。


 だが、やるしかない。


「アリア。いけるか」


 ゾディが肩の上で低く言った。


「いける」


 嘘だった。だが言った。


 アリアは精一杯の力を振り絞り、杖を天に掲げた。

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