第24話:大祭典当日
大祭典当日。
朝食はお粥と果物、チーズ、紅茶。偶数日のメニューだ。アリアはお粥に蜂蜜を垂らした。甘くて美味しい。朝食にぴったりだ。だが、今日は味に集中できなかった。ローブの内側に、偽装した写本が仕込んである。革の感触が脇腹に触れるたびに、午後のことが頭をよぎる。
「アリア殿」
レオンが向かいから言った。今日は甲冑ではなく、簡素な革の上着に剣だけを腰に佩いていた。
「大祭典は午後からですが、午前は空いていますか?」
「空いてるけど」
「街に出ませんか? 気分転換に。大祭典で市場が賑わっているんです。屋台も出ていますし」
午後に備えて集中したい。余計なことをしたくない。アリアは断ろうとした。
「せっかくだけど……」
「揚げパンの屋台も出ているみたいです」
「行くわ」
即答した。
「行くのかよ」
肩の上のゾディのツッコミは無視した。シルヴィアが隣で小さく笑った。
「シルヴィアも来る?」
「いえ。私は午後の準備がありますので」
シルヴィアの目が一瞬だけアリアのローブの脇腹あたりに動いた。写本がそこにあることを知っている。「楽しんできてください」と言って、シルヴィアは食堂を出ていった。
◇ ◇ ◇
王都の市場は、大祭典の当日とあって祝祭ムードが最高潮だった。
色とりどりの旗が通りに張り巡らされ、屋台が軒を連ねている。焼き菓子、串焼き、果物の砂糖漬け、香辛料の効いたスープ。それぞれの香りが空気中に混じり、通り全体が一つの大きな厨房のようだった。だが。
人が多い。アリアの足が、一瞬だけ止まった。
「大丈夫ですか?」
レオンが半歩前に立つ。王都に来た初日と同じだ。アリアの前に立ち、背中を見せる。目印になる背中だ。
「大丈夫よ」
今日は、本当に大丈夫だった。以前のように、呼吸ができなくなるほどではない。人混みの音が耳を刺すこともない。慣れたのか、あるいは——。
揚げパンの屋台を見つけた。食堂のものとは違っていて、小ぶりで丸い形をしている。きな粉、砂糖、チョコの三種類。アリアはきな粉を二つ買った。一つは自分の分、もう一つは。
「はい」
差し出すと、レオンが目を丸くした。
「いいんですか?」
「うん。いつも色々やってくれるから、そのお返し」
レオンが揚げパンを受け取り、一口食べた。口の端が上がった。
「おいひいですね」
「でしょう」
二人で歩きながら、揚げパンを食べた。きな粉が口の周りについた。マフラーにもついた。レオンが「ついてますよ」と笑って指で示した。いつもと同じだ。だが今日は、食堂ではなく街の中だ。男性と隣同士で街を歩いている。同じものを食べている。同じ方向を見ている。
胸がざわついた。百年間、感じたことのない種類のざわつきだった。ちょっと待って。これって、ひょっとしてーー。
「あ、焼き菓子の店がありますよ」
レオンが足を止めた。小さな店の前に、焼き立ての菓子が並んでいた。バターの香りが漂っている。丸いクッキーのようなものに、ドライフルーツが練り込まれていた。
「ここでしか食べられないガレットです。王都の名物で、大祭典の時期にしか出ない名店ですよ」
レオンが一つ買って、アリアに手渡した。温かい。一口齧ると、バターの風味が口いっぱいに広がった。さくさくと崩れる食感。ドライフルーツの甘酸っぱさが、追いかけてくる。
「おいひい」
声に出ていた。レオンが嬉しそうに笑った。
「思い出します」
「え?」
「あ、すみません。こういう場所が好きだったもので」
不意に、レオンの声が変わった。
「兄の話です。兄は体が弱くてこういった市場には来られなかったんです。でもいつも、私が体験した話を聞きたがってました。何を食べた、どんな匂いがした、どんな人がいた、どんなことをした……。全部、私が話すんです。兄はベッドの上で、目を閉じて聞いていました。まるで、自分もそこにいることを想像するかのように」
レオンの碧い瞳が潤んだような気がした。
「今日のことも、お兄さんに話す?」
アリアが聞いた。聞いてから、レオンの兄はもういないことを思い出した。しまった、と思った。
だがレオンは微笑んだ。
「ええ。いつか、話しますよ。今日、大祭典の日に、大賢者様と市場で揚げパンを食べたんだよ、と」
「大賢者じゃないわ」
「アリア殿と、ですね」
「あのさ、その殿っていうのもやめてくれない? そんなに偉くないから、私」
「そういう訳には……」
「なんか、距離を感じるわ。アリアでいいから」
「……アリア」
レオンが言い直した。その声が柔らかかった。アリアは顔が熱くなるのを感じた。マフラーを上げ直す。
「申し訳ございません。やはり無理です。アリア殿と呼ばせてください」
レオンが申し訳なさそうに言った。もう好きにすれば、とアリアは素っ気なく返した。
◇ ◇ ◇
市場の奥に進むと、クレープの屋台があった。
「行く」
アリアは足を速めた。レオンが後ろから笑いながらついてくる。ゾディが肩の上で呆れている。
「お前、食べてばっかりだな」
「黙って。今日くらい好きにさせて」
生クリームと苺のクレープを選んだ。初めて食べるクレープ。甘い。生地が薄くてもちもちで、苺の酸味が生クリームの甘さと合う。レオンはチョコバナナを選んでいた。
「一口交換しませんか」
不意にレオンが言った。
「え」
「これもおいしいですよ」
レオンがチョコバナナのクレープを差し出した。アリアは自分の苺クレープを差し出した。交換して一口食べる。チョコの苦みとバナナの甘さ。確かにおいしい。
だが味よりも、さっきまでレオンが食べていたものを自分の口に入れたという事実の方が、アリアの頭を占めていた。これは……間接キス、というものではないか? いや、唇だけでなく、体の中に入った。キスを超えている。え? 何? 何よこれ。
これはなんていう行為なの?
顔が熱い。耳まで熱い。マフラーの中で唇を噛む。
「アリア殿? お顔が赤いですが」
「暑いの。日差しが」
「今日は曇りですが」
レオンが曇り空を見上げる。
「蒸し蒸ししてるの」
ゾディが肩の上で何か言いかけてやめた。
◇ ◇ ◇
正午を知らせる鐘が、時計塔から鳴った。大祭典の時間が近づいている。
市場の喧騒が、少しずつ変わっていく。人々が大広間の方角に向かって動き始めていた。祝祭の賑わいが、式典の緊張へと切り替わっていく。
「戻りましょうか」
レオンが言った。
「ええ」
市場の出口に向かって歩く。さっきまでの祝祭の喧騒が、少しずつ遠くなっていく。
「レオン」
「はい」
「今日はありがとう」
今日は自然に口から出た。レオンは「こちらこそ」と微笑んだ。
王宮に向かう道を歩きながら、アリアは自分の胸のざわつきの正体を考えていた。百年間、一度も感じたことのない感覚。名前がわからない。名前をつけるのが、少し怖い。
だが今は、それどころではない。ローブの内側に写本がある。午後、大祭典が始まる。この写本を、原本とすり替える。大丈夫。一瞬で終わる。
百年分の黒歴史を取り返す。今はそれだけに、集中する。




