第15話:隣の席
大祭典まで、あと二日。
昨夜の古代種との戦闘のせいで、体が重い。禁呪を使った翌日はいつもこうだ。体の芯から力が抜けて、魂をやすりで削られたような、独特の痛みを伴う疲労感が残る。それが三回目ともなると、慣れるどころか蓄積していく。
朝食を食べに食堂に向かう廊下で、聞き覚えのある声が聞こえた。
「——だって、おかしいじゃないですか。大賢者様だからって……」
角を曲がる手前で、アリアは足を止める。壁の向こう……いや、この廊下の角を曲がった先だ。
「どうした?」
肩の上のゾディが首を傾げる。
「しっ」
アリアは人差し指を立てた。耳を澄ますと、男の低い声と耳馴染みのある少女の声が聞こえてくる。
「シルヴィア君。大賢者様を疑うなんて、本気で言っているのか」
大人の男性の声で、苛立ちを隠す気がない口調だ。
「大賢者様は昨夜も古代種を三体、たった一言で無力化されたんだぞ。王国を救っている救世主、メシアだ。そんなお方を疑うなんて」
別の男性の声も聞こえた。おそらくは魔術学院の上官だろう。
「ですが、深夜に聖典の封印を解析する理由は」
シルヴィアが言った。
「あの方が聖典に興味を持つのは当然だろう。古代語の専門家なんだから」
「専門家であればこそ、正規の手続きを踏むべきです。深夜に足音を消す術式をかけて侵入する理由が……」
「いい加減にしろっ!」
上官の声が廊下に響いた。
「大賢者様のおかげで、昨夜も王都は救われたんだ。その方を疑う報告書を出すのは、王国への侮辱だ。次にあんなものを出したら、口頭注意じゃ済まない。わかったな」
足音が遠ざかる。途端に、周囲が静かになった。アリアは角を曲がらなかった。壁に背中を預けたまま、自分の靴先を見ていた。
メモをつけていたシルヴィアを思い出す。彼女が、アリアについての報告書をまとめ、上官に提出したのだろう。
であれば、その報告書は正しい。
アリアが深夜に封印を解析していたのは事実だ。足音を消す術式をかけていたことも。シルヴィアは調査員として当然の仕事をしたまでだ。なのに、叱責されている。
しかも昨夜の古代種討伐が、シルヴィアの立場をさらに悪くしていた。アリアが王国を救えば救うほど、アリアを疑うシルヴィアの信用が落ちる。彼女が正しいのに。皮肉だった。
「行かないのか」
ゾディが肩の上で言った。
「行ってどうするのよ」
「知らん。お前が決めろ」
決心したアリアは壁から背を離し、角を曲がった。だが、廊下には誰もいなかった。
食堂はすでに混んでいたが、レオンが場所を取っていてくれた。
今朝のメニューはお粥と果物、チーズに紅茶。偶数日の朝食だ。レオンが隣でお粥に蜂蜜を垂らしている。この男は甘いものが好きらしい。昨日気づいた。
食堂の反対側に目を向けると、シルヴィアが一人で座っていた。隅の席だ。周囲には誰も座っていない。空間が彼女を避けるように空いていた。フォークでチーズを突いているが、口に運んでいない。目の下に影がある。昨夜のシルヴィアの目を思い出した。アリアを心配している目だった。調査員のそれではない。
「聞いたか? あのシルヴィアってやつ」
「大賢者様が深夜、聖典の間に忍び込んで、大聖典を盗み出そうとしたなんて出鱈目な報告書を出したってよ」
「マジで? ありえねえだろ」
「点数稼ぎしたいだけだろ? だったら、もっとマシな嘘つけよ」
どこからともなく、シルヴィアへの陰口が聞こえてくる。こんな喧騒の食堂でもアリアの耳に届くのだ。一人や二人が囁いているのではない。
シルヴィアに声をかけたかった。食堂を横切って、あの空いた席に座りたかった。
だが何と声をかければいい? 大賢者が孤立した調査員に接触すれば、噂はさらに広がる。結果、彼女の立場が悪くなる。声をかけない方がいい。関わらない方がいい。
やらない理由なら、いくらでも並べられる。洞窟から出ず、人混みを避け、結界から出ず、百年間、そうやって生きてきた。
だが昨夜、あの少女は寝間着のまま外壁まで走ってきた。ノートも持たずに。調査のためではなく、アリアを心配して。
アリアはお粥の器を置き、紅茶を一口飲んみ、立ち上がる。
「アリア殿?」
レオンの声が聞こえたが、振り返らなかった。盆を持ったまま食堂を横切る。騎士や文官がアリアの動きに気づき、視線が集まる。
隅の席に座る。シルヴィアの前に立つ。シルヴィアが顔を上げた。その表情から驚きが読み取れる。それから、かすかな戸惑いも。だが、冷たさはなかった。
「何か御用ですか。大賢者様」
「隣、いい?」
シルヴィアの目が見開かれた。
「……どうぞ」
アリアはシルヴィアの隣の席に座った。食器を乗せた盆をテーブルに置く。周囲の視線が刺さる。
「大賢者様があの調査員の隣に」
「昨夜の件で何か」
ざわざわと、食堂中に囁き声が広がっていく。アリアは無視した。
「なぜ、ここに」
シルヴィアは正面を向いたまま言った。
「あなたが一人だったから」
「同情ですか」
「違うわ」
アリアはお粥を一口すすった。蜂蜜の甘さが舌に広がる。
「昨夜、外壁にいたでしょう」
シルヴィアの手が止まった。
「寝間着にローブだけ羽織って、ノートも持たずに。あれ、調査じゃなかったでしょ?」
シルヴィアは答えなかった。チーズを突いていたフォークを、皿の上に置いた。
「だったらなんですか? 大賢者様。誰だって、忘れ物をすることくらい、あるでしょ?」
「大賢者じゃないわ」
「え?」
「アリアって呼んで」
アリアは自分でも驚いたが、そう言って胸を張る。
「ーーアリア、殿」
シルヴィアが名前で呼んだ。その声からは硬さが抜けていた。
「殿はやめてよ。あ、様も禁止」
アリアがそういうと、シルヴィアはしばらく考えた後、
「アリアさん」
と言った。アリアは大きく、ゆっくりと頷く。
「アリアさん、あの夜、聖典の間で何をしていたんですか?」
「まだそれ聞くの」
「ええ。でも今は、調査員としてではなく」
シルヴィアがアリアの目を見た。まっすぐに。
「あなたのことを、知りたいから」
知りたい。か。
レオンは「お力を」と言った。ジークは「希望です」と言った。シルヴィアだけが「知りたい」と言った。
アリアのことを知りたい、と。
「今は、まだ言えない」
「そうですか」
「でも、いつか話すわ」
「いつか、ですか」
「ええ。いつか、きっと」
シルヴィアの唇がわずかに動いた。それは笑みとは呼べないほど、ほんのわずかな変化だった。
「ここ、いいですか」
レオンが自分の盆を持ってこちらに来た。シルヴィアの返事を待たず、向かいに座る。シルヴィアが再び目を丸くした。大賢者と第七騎士団長が、孤立した調査員のテーブルに揃って座っている。レオンは気にする素振りもなく、お粥に蜂蜜をさらに追加した。
「かけすぎだろ」
アリアの肩に乗るゾディが、呆れ顔で言った。
「蜂蜜は体にいいんですよ」
と笑顔で答えた。
「それでもかけすぎよ。お粥じゃなくてそれはもう蜂蜜よ」
「あ、アリア。俺の干し肉、貰ってきてくれ」
ゾディが言った。
「自分で取りに行けば?」
アリアが言うと、
「俺が一人で行くと、捕まえようとするんだ、あいつら」
ゾディが料理の受け取り口に視線を向ける。コック帽の老人たちが、じっとゾディを見つめていた。
「美味しそうだからじゃない?」
アリアがいうと、ゾディが目を細める。
シルヴィアは俯いた。微かに肩を震わせていた。泣いているようにも、笑いを噛み殺しているようにも見えた。
「大賢者様。昨夜はお疲れ様でした。古代種を三体も無力化されたとか」
食堂を出たところで、ばったりジークと出会した。
「たまたまよ」
「ご謙遜を。さて、大祭典の準備ですが、順調に進んでおります。写本の奉納式も華やかにしたいと思っておりまして。あ、写本は大賢者様の分も準備しておりますので」
「あらそう。で、その写本はどこで作ってるの?」
「知ってどうするおつもりですか?」
ジークが笑顔で尋ねる。
「別に。単純な興味よ」
まさか、写本を燃やしに行くため、とは言えない。
「ああ、そうだ」
ジークが声のトーンを少し落とした。穏やかさは変わらない。
「シルヴィアという生徒から困った報告が上がったようですね。深夜に大賢者様が、聖典の間にいらしたとか」
アリアの背筋がわずかに伸びた。
「あ、お気になさらないでください。アリア殿が聖典に興味を持つのは自然なことですから。なんだったら、いつでも見に行っていただいて結構ですよ。封印がかかった状態であれば、いつでも」
ジークは誰もが安心するような笑顔で言った。暗にそれは、封印に絶対の自信を持つことの裏返しであろう。
こうなったら、意地でも封印を解いてやる。能力強化の禁呪を使えば不可能ではないだろう。能力を五倍にして、五日かかる解除作業を一日に減らすことは理論上可能だ。だが、相当な魔力を消費することになる。背中の文様も、ひょっとしたら一部分では済まない可能性もある。だが、背に腹はーー。
いつの間にかジークは去っていた。アリアは廊下に立ったまま、呆然と今後の聖典抹消計画を検討していた。




