第14話:にゃんにゃんご主人様大好きにゃー
大祭典まで、あと三日。
深夜、壁に背中をつけたまま、アリアは目を閉じていた。
眠れない。右の肩甲骨の下あたりにあった文字が消えた。百年間ずっとそこにあったものが消えた。その事実が、壁の冷たさと一緒に背中に張りついている。
窓枠のゾディは丸くなっている。寝息が聞こえる。白い羽根が月光に照らされて、胸の六芒星がかすかに脈動していた。
王宮の夜は静かだ。遠くで見回りの騎士の足音が聞こえるくらいで、他には何もない。
何もないはずだった。
突然、窓の外の空が赤くなった。
一瞬だった。王都の北側、外壁のあたりが赤黒い光に照らされた。直後、部屋が大きく揺れた。部屋の花瓶が音を立てる。窓硝子がびりびりと震え、天蓋ベッドが軋む。
ゾディが目を開けた。金色の瞳が窓の外を射抜く。
「古代種だ」
短く、低くゾディがそう呟いた。それだけで十分だった。
アリアはベッドから飛び降りた。ローブを羽織り杖を掴む。部屋を出ると、廊下は既に騒然としていた。騎士たちが甲冑を鳴らしながら走っり、魔術師が杖を手に飛び出して行く。
「北壁の外部に大型魔獣が三体! 魔術師部隊の攻撃が通用しません!」
伝令の騎士が叫びながら廊下を駆け抜けていった。
階段を駆け下りると、正門の前にレオンがいた。儀礼用ではない実戦用の甲冑を纏い、剣を腰に佩いている。深夜だというのに身支度が早い。
「アリア殿」
「聞こえたわ」
「北壁です。私の部隊が先行していますが、古代種相手では」
「行くわ」
アリアは外に出て北を見る。
「私もお願いします」
アリアがこれから何をするのかわかったのだろう。理解が早い。アリアはレオンの腕に触れ、上空に飛んだ。
転移魔法で北壁の上に瞬間移動する。夜風が頬を叩いた。北壁の上から地上を見下ろすと、外壁の外で三体の魔獣が暴れているのが見えた。
巨大だった。人間で言えば五十人分はあろう大きさだ。牛のような見た目で、四本の脚に鉤爪がある。体表が赤黒い鱗で覆われ、口から炎の息を漏らしていた。残りの二体はそれよりやや小さいが、同じ赤黒い鱗を持っていた。親子か、あるいは群れの個体か。
外壁の下では第七騎士団が防衛線を張っていた。ゲオルクが大剣を構え、前線で指揮を取っているのが見える。騎士団が魔獣の攻撃を捌き、後方から魔術師団が光弾を撃ち込んでいる。だが、光の砲撃は赤黒い鱗に弾かれて霧散する。
魔術が通らない。間違いない。古代種だ。
「あれは」
ゾディが肩の上で目を細めた。
「獣系の古代種だな。知性は低いが、その分、防御力が異様に高そうだ。並の魔術じゃ奴の鱗に傷の一つもつけられないだろうな」
「倒すには、禁呪しかないってこと?」
「そうなるな」
倒す。
——あるいは。
アリアは三体の魔獣を見た。暴れてはいるが、街の方には向かっていない。外壁に体当たりしているだけだ。外壁は頑丈だが、いつ崩れるかわからない。騎士団が刺激しなければ、このまま去る可能性もあるか? いや、そんな悠長なことは言っていられない。
苦痛の声が聞こえた。騎士が一人、壁の下で動けなくなっていた。魔獣の突進を避けきれなかったのか、壁際に倒れている。甲冑が衝撃で歪んでいた。他の騎士が助けに行こうとしているが、魔獣が近すぎて側に寄ることができないでいる。
時間がない。このままでは、死者が出る。
禁呪を使うしかない。紋様が消えると知ったばかりなのに。さっきゾディに「紋様の一部が消えてる」と言われたばかりなのに。
使えばまた消える。消えたらどうなるかはわからない。最悪、老衰死だ。根拠はない。だが、根拠がないことが、余計に怖い。
「アリア」
ゾディが低い声で言った。止めるのか、急かすのか。どちらとも取れる声だった。
「使うなとは言わん。お前の判断だ」
さっきと同じ言葉だった。
壁の下で倒れている騎士が、手を伸ばしている。助けを求めている。この距離でも、甲冑の隙間から表情が見えた。その顔は若い。
アリアは杖を握り直した。
殺すのではない。使役契約だ。古代種でも獣系であれば、使役の古代語で従わせることができる。従えてしまえば、騎士を襲うことはなくなる。
「アリア殿」
それに、転移魔法でレオンを連れてきたせいで、まだレオンがアリアの隣にいてともに宙に浮いている。この状態で、あの詠唱を叫ばなければいけないのか。レオンを地上に下ろしている時間はない。
アリアは左手で顔を覆った。指の隙間から、紫紺の瞳が三体の魔獣を見下ろす。夜風がマフラーを揺らした。
「ᚾᛁᚨᚾ‡ᚾᛁᚨᚾ|・ᚷᛟᛊ‡ᚢᛁᚾᛊᚨ†ᚨ《・ゴシュジンサマ》|・ᛞᚨᛁᛊᚢᚲᛁ‡ᚾᛁᚨ《・ダイスキ・ニャー》ッーー!」
銀黒い光がアリアの杖から噴出し、三体の魔獣を包み込んだ。
赤黒い鱗が銀の光に染まる。三体が同時に動きを止めた。鉤爪が下がり、炎の息が消え、巨体がゆっくりと地面に伏せた。猫が腹を見せるように……いや、実際に魔獣たちは腹を見せていた。巨大な牛型の古代種の魔獣が、三体揃って腹を上にして寝転がっている。赤黒い鱗の腹側は、意外にも柔らかそうな白い毛で覆われていた。
壁の上が静まり返った。
壁の下で倒れていた騎士の横に、魔獣の一体が鼻先を近づけた。騎士が悲鳴を上げかけたが、魔獣はただ鼻先で騎士の頬を撫でただけだった。犬が飼い主を心配するような仕草だ。
「大賢者様が古代種を……」
「一言で……。たった一言で、三体の巨大な魔獣を……」
「従えた……。古代種を従えた……っ!」
騎士たちのざわめきが広がる。夜の静けさの中、その戸惑いの声は山間でよく響いた。
地上に降りる。隣に立つレオンの碧い瞳が月光に照らされて、いつもより明るく見えた。
「先ほどの詠唱は、古代語で『命ある者よ、敵意を捨てよ』という意味合いでしょうか。古代の和平の祈りですね。素晴らしい。まったくもって、慈愛に満ち満ちている」
全然違う。にゃんにゃんご主人様大好きにゃー、と無様に叫んだだけだ。
ゾディがアリアの肩の上で、金色の瞳を細めた。
「アリア。今お前……」
「黙って」
「にゃんにゃん……」
「黙ってって言ってるでしょ。黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」
壁の上の騎士たちの視線が、アリアを突き刺さすように見つめている。崇拝、畏敬の目だ。深夜に叩き起こされたとは思えない輝きを、全員がその双眸に宿していた。
壁の下の方から、別の視線を感じた。
外壁の階段の中ほどに、シルヴィアが立っていた。亜麻色の髪は寝起きなのか、ぼさぼさだった。寝間着の上に魔術学院のローブを羽織っただけの格好で、手にはノートすら持っていなかった。騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。
シルヴィアの目が、アリアをまっすぐに見ていた。ノートがないから、記録はできない。ただ、ただ見ていた。
◇ ◇ ◇
魔獣の三体は使役契約によって完全に無害化され、騎士団が外壁の外の森に誘導した。
「どうしたらいいですか、これ」
困惑する第七騎士団の若い騎士がレオンに尋ねる。
「殺すのも忍びないので、訓練して我々の猟犬に使えませんか?」
レオンが「ね」とアリアに同意を求めた。確かに、古代の秘術で使役契約を結んだので、人間に害をなすことはない。だが魔獣を犬と同じように扱えるかは甚だ疑問だ。
「とりあえず、努力してみます」
と、若い騎士は肩を落として戻って行った。
街への被害はなかった。倒れていた騎士も、命に別状はないとの報告が入った。
第七騎士団で後始末があるというレオンを残し、アリアは一人転移魔法で王宮に戻った。
部屋に戻り、扉を閉める。ローブを脱ぎかけて、手を止める。
「ゾディ」
「ああ」
何も言われなくても、ゾディはベッドの足元に降りてきた。わかっていた。アリアは背を向けて、ローブを下ろした。背中の紋様が露出する。
ゾディが金色の瞳で凝視した。沈黙が、さっきよりも長かった。
「消えてるな。さっきよりも、明らかに」
わかっていた。わかっていたが、声に出して言われると、胸の奥が冷たくなった。
「左の肩甲骨の上だ。さっきのと合わせて、目玉焼きの黄身くらいの大きさだ」
「使うたびに消えるってことね」
「そういうことだ」
「ゾディ。背中と左腕の紋様って、全部で何文字くらいあるのかしら」
「腕を広げろ」
アリアは言われるまま、左手を伸ばす。
「……ざっくりだが、消えたのを三文字分だとして、百五十文字くらいか」
「今まで数えたことがなかったのが、逆に不思議ね」
「まあ、消えるとは思ってなかったからな」
確かに、背中の紋様が全部で何文字だろうかと、数えたことはなかった。百年間、そこにあるのが当たり前すぎたからだ。
アリアはローブを戻し、壁に背中をつけて座り込んだ。使うたびに紋様が少しづつ消えていく。百五十文字くらいなら、あと百五十回は使える計算になる。だが、そんな単純な話なのかどうかもわからない。禁呪の威力にもよるのであれば、一度にかなりの紋様が消えることもあり得るだろう。その逆に、消えない場合もあるかもしれない。
「寝ろ。明日も長いぞ」
ゾディが目を細めて言った。
「そうね。流石に眠くなったわ」
禁呪を使った後は、疲労感がすごい。考えなければならないことが多いというのに。
「じゃあな。明日のことは明日考えろ」
禁呪を習得してから、まともに詠唱したことはなかった。唱えた途端、体に刻まれた文様がなくなり、急に不安になる。
ゾディが窓枠に戻る。アリアは目を閉じた。壁の冷たさが背中に染みている気がした。紋様ができた時は刺青みたいで嫌だったが、百年近く自分の体に刻まれたそれは、呪いというものを超えた愛着があった。
日付はとうの昔に変わっていた。大祭典まであと——二日。




