第9話:黒歴史との対面
大祭典まで、あと四日。
アリアに与えられた部屋は山小屋の十倍の広さだ。天蓋付きのベッド、書棚、暖炉、窓からは王都の街並みが一望できる。調度品の一つ一つが上質で、花瓶には生花が活けてある。毎朝誰かが替えてくれるのだという。部屋の奥には木の浴槽が備え付けられていた。使用人が湯を運んでくれるらしいが、アリアは断った。長袖を脱ぐのは、一人の時だけだ。
初日の夜、アリアはベッドの端に寄って、壁に背中をつけて眠った。天蓋付きの広いベッドのほんの一角だけを使って。古代語を覚えた洞窟は狭かった。手を伸ばせば壁に届く、暗くて湿った空間。山頂の山小屋も狭かった。ベッドと椅子とテーブルと棚。それだけで部屋がいっぱいだった。体の周りに壁がある方が安心する。広い空間は落ち着かない。
食堂に行くと、レオンが廊下で待っていた。
「おはようございます、アリア殿」
「……おはよう」
頼んでいないのに、レオンは毎朝いる。朝食のお品書きを見る。今朝はお粥と果物、チーズに紅茶だった。
食堂に入り、窓際の席に座った。レオンが盆を二つ持って戻ってくる。レオンは目玉焼きの黄身が崩れていないのを確認した後、盆をアリアの前に置いた。細かいことを気にする男だ。
お粥を口に運びながら、アリアは聖典のことを考えていた。ジークの手元に大量の写本がある。原本は図書館の聖典の間に保管されている。大祭典まであと四日だ。この四日の間に原本を消さなければ、あの恥ずかしいポエム帳の写本が十二の神殿に届き、強固な管理のもと永久に保管される。
「アリア殿。今日、ジーク副院長が、図書館を案内してくださるそうです」
フォークが止まった。
「……図書館?」
「ええ。聖典もご覧いただけるとのことでした。大賢者の顧問として、王国の知の中枢をご覧になるのは自然だろうと」
聖典。原本。あの恥ずかしい日記帳の実物。
ジークが自ら案内を申し出てきた。行かない理由はない。むしろ行かなければならない。あの原本がどういう状態で保管されているのか、この目で確認しなければ、消す方法も立てられない。願ってもないチャンスだ。
だがあのノートを目の前にして、平静でいられるかだろうか。昨日のジークとの面談で、写本の束を見ただけで呼吸困難になりかけた。また、あんな状態にならないとは限らない。
だが。
「行くわ」
行くしかない。
「よかった。ジーク副院長も喜ばれると思います」
アリアはお粥の最後の一口を紅茶で流し込んだ。味がよくわからなかった。
◇ ◇ ◇
午後、レオンに伝えられた王宮の正面ホールに赴くと、ジークが待っていた。一人だった。
「アリアさん、お忙しいところお越しいただき、ありがとうございます」
「別に、忙しくはないわ」
「それは何よりです」
ジークは笑顔で、アリアの肩に乗るゾディを見て微笑んだ。
「では参りましょう」
ジークの歩き方は穏やかだった。早すぎず、遅すぎず、アリアの歩幅に合わせている。廊下を二人、並んで歩いているとまるで王宮内を散歩しているようだった。すれ違う文官や魔術師が皆、ジークに会うと立ち止まり、会釈をする。
「おや、副院長。それにこちらが噂の大賢者様ですか?」
通りがかった恰幅のよい貴族のような男が、出会い頭にそう尋ねた。ジークに紹介され、アリアも会釈を返す。隣には痩せた背の高い、これまた貴族のような男が会釈をした。
「四年に一度の大祭典も、今年はさぞ豪華になりましょうね」
恰幅のよい貴族が笑い、背の高い方も笑う。ジークもつられて笑う。
「前回の大祭典も見事でしたが……」
恰幅のよい貴族が言った。
「ええ」
「四年前は確か、ジーク副院長は……」
恰幅のよい貴族が、背の高い方を見る。背の高い方は笑顔のまま首を傾げる。
「四年前もそうですね。副院長である私が、祭典を取り仕切らせていただきました」
「ですよね。ガハハ。今回も大いに期待しております」
恰幅のよい貴族と背の高い貴族は、笑ってそのまま通り過ぎた。だが、二人は顔を見合わせ、お互い首を傾げていた。記憶が定かではない様子だ。アリアにとっては理解できない仕草だった。百年前も、前世の記憶も、古代語で書いた日記も、一言一句、全て覚えているアリアにとっては。
図書館は王宮の東棟にあった。重い樫の扉を開けると、天井まで届く本棚が視界を埋め尽くした。埃と紙とインクの匂いが、館内に充満している。前の生で入り浸っていた王立図書館。あの頃は生まれたばかりの好奇心だけで、全ての本を読み漁った。背表紙を見れば、そこに何が書いてあるのか空で言える。懐かしくて、郷愁がアリアの胸に込み上げてくる。
「こちらが一般閲覧室です。蔵書は約二十万冊。分類は……」
「見た感じ、何冊かは新しい版になってるようだけど、全て閲覧済みです」
アリアは館内を見渡す。取り立てて今気になる蔵書はなさそうだ。
「す、全て、ですか?」
ジークが驚きを隠すことなく言った。
「はい」
「冗談……じゃ、なさそうですね」
ジークは引き笑いのあと、真顔になる。
「本題に入りましょうよ」
ジークは一瞬だけ目を細めたが、すぐに微笑んだ。
「さすがですね。こちらです」
奥の扉を開けた。
小さな部屋だった。四方の壁に古い文献が並ぶ。この部屋も、アリアは前の生で訪れていた。記憶の中の本棚と比較する。何冊かの本が無くなっていた。アリアが読んだ時にも古くボロボロになっていた本があった。この部屋にあるのは禁書の類が多い。おそらくは、複製も禁じられているのかもしれない。
さらに奥の部屋に通される。厳重な鍵が二つ。ここから先は、アリアは知らない。確か以前は普通の閲覧室だったはずだ。おそらくはアリアの前の死後、改装された部屋なのだろう。
通された部屋の中央には白い大理石でできた台座が一つ。天窓から差し込む午後の光が、台座を照らしている。
一冊の本……日記帳が、そこにあった。アリアの足が止まる。心臓が煩くなる。
私の……黒歴史。
見覚えがある。見覚えしかない。薄茶色の革張りの表紙。右上の角が折れている。百年間の使用で擦り切れた背表紙。洞窟の湿気で少しだけ波打ったページの端。
あの日記帳だ。洞窟での生活の間、アリアが抱え眠った日記帳だ。
古代語の文字が表紙に走っている。アリアにしか読めない文字。そしてそこに書かれた意味を知っているのは、この世界でアリアだけだ。
「これが旧約ゼポルディア原理福音大聖典の原本です」
隣にいるはずのジークの声が、遠くに聞こえた。
「古代語で記された、世界で唯一の文献です。我々の知識ではまだ内容の解読が叶いませんが、いつの日か、これが人類の叡智を照らす鍵になると、信じています」
照らさなくていい。永遠に解読されなくていい。
なぜなら中身は、百年間、孤独な少女が泣きながら書いた、恥ずかしい願望の数々でしかないのだから。
だが同時に、胸の奥が締め付けられるような感覚があった。嫌悪だけではない。洞窟での生活の間、あの日記帳だけが、自分の心の拠り所だった。誰にも会えない夜に、古代語で「友達が欲しい」と書いた。誰にも触れられない朝に、「手を繋いで歩きたい」と書いた。
恥ずかしい。だがあれは、紛れもなく過去のアリア自身だ。
アリアが手を伸ばすと、指先に何かが触れた。
「残念ながら、保護のため封印が施してあります。私が管理しているものですが、旧約ゼポルディア原理福音大聖典の安全を第一に考えておりまして」
ガラスのような感覚が指先にある。だが、目には見えない。強力な魔力を感じた。ひんやりと冷たい。ノートとの距離は、ほんの数センチだ。なのに届かない。百年分のアリア自身が、ほんの数センチ向こうに閉じ込められている。
これがジークの封印か。あとで解析しなければ。
「大祭典では、十二の神殿に旧約ゼポルディア原理福音大聖典の写本を奉納する式典がございます。アリア殿にもご出席いただければ」
あと四日。
「……考えておくわ」
「ごゆっくりご覧ください。私は少し、席を外しますね」
ジークが部屋を出ていった。足音が廊下の奥に消える。
アリアは一人、台座の前に立った。ゾディが肩の上で、何も言わずにノートを見つめている。
「なんで、これが残ってるのよ」
日記帳は、洞窟を出ていく際に消去したはずだった。ありったけの力で消滅魔法を撃った、はずだった。あの時、確かに。なのに残っていた。恥ずかしい日記は、巡り巡って大聖典になっていた。消すなら、今だ。
アリアは杖の先を台座に向ける。
「お前バカか。今消すつもりか? おおごとになるぞ」
肩のゾディが小声で叫んだ。
「おおごとって何よ」
「おおごとはおおごとだよ。大聖典なんだろ? 国中がエラいことになるぞ」
「自分のものを自分でどうしようと、私の勝手でしょ」
「やるにしても時と場合を考えろ。今は無理だ。すぐにバレる」
「バレてもいい」
「あいつに迷惑がかかるぞ」
あいつ、と言われ、アリアの脳裏にレオンが浮かぶ。
「古代語を解読した魔女を連れてきた、まではいい。だがその魔女が、大聖典を消したとバレたらどうなる? 俺たちは逃げればいいが、次は俺たちを連れてきた奴に白羽の矢が立つ」
投獄されるレオンの姿が脳裏に浮かんだ。
「じゃあどうしろってのよ。このまま指咥えて見逃せって言うの?」
「そうじゃない。時と場合を考えろって言ってるだろ」
「どういうことよ」
「場所はわかったんだ。今夜、忍び込めばいい」
ゾディが静かな口調で言った。
「今はまだ、本気を出すな。様子見だ。いいな」
確かに、ゾディの言う通りだった。
「わかったわよ。とりあえず、今は封印の構造を見るだけにしとく」
アリアは杖を下ろし、ノートに施された封印を確認すべく、指を伸ばした。




