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第1部2 二人の先駆者、あるいはユダ③

不意に、大気が震えた。

それは物理的な揺れではなく、数千人の渇望が一点に凝縮されたことで生じた、巨大な精神の地鳴りだった。

「わあああっ……!」

地を割るような歓声が、丘の麓から頂へと一気に駆け上がる。人々の怒濤のような叫び声に、ミリアムの鼓動は激しく打ち鳴らされた。

丘の最上部、天を突くように切り立った巨大な岩場の影から、ゆっくりと「何か」が姿を現した。

陽光を背負い、逆光の中に浮かび上がるシルエット。

ミリアムは、その人物こそが黄金の髪をなびかせたヨシュアであると、半ば確信しながら目を凝らした。彼が現れ、冷徹な理屈を「奇跡」という名の衣で包み、人々を平伏させる。その傲慢で美しい幕引きを、彼女は鑑定士として見届ける覚悟を固めていた。

……だが。

「……違う」

ミリアムの唇から漏れたのは、鋭い拒絶を伴う困惑だった。

岩場の向こうから現れたのは、ヨシュアのような華奢で、性別を越えた神秘を纏う少年ではなかった。

そこにいたのは、四人の逞しい従者に担がれた、目が眩むほど豪奢な御簾みす。そしてその脇を固める、厳格な法衣に身を包んだ男たちの重々しい行列だった。

計算された優雅さをもって進み出る、その神輿みこしのような権威の塊。

そこから立ち昇る、むせ返るような没薬の香りと、すべてを圧殺するような静かな威圧感。

人々の絶叫は、その神輿が頂に鎮座した瞬間、深い畏怖に満ちた「沈黙」へと一転した。

次の瞬間、「忘却の丘」を埋め尽くした群衆が、それまでの静圧を破り、爆発的な狂喜を爆発させた。その咆哮は、丘の土壌を底から震わせ、大気さえも熱を帯びて歪ませていく。

「ユダ様だ! 預言者ヨカナンの、至高なる高弟……ユダ様だ!」

「モーセの再来! 海を割り、大地を導く御方が、ついに現れたぞ!」

幾千もの喉から絞り出される叫びは、もはや祈りを超えて狂乱へと足を踏み入れていた。

ミリアムは、その熱狂の渦の中心で、金縛りにあったように動けなかった。人々の呼ぶ「ユダ」という名。それが指し示す人物の正体が、彼女の知る「鑑定」の結果と、あまりにも残酷に乖離かいりしていたからだ。

幾千もの喉から絞り出される叫びは、もはや祈りを超えて狂気へと足を踏み入れていた。

重厚な刺繍が施された垂れ絹は、微風に揺れるたびに高価な香料を周囲に撒き散らし、その脇を固める供回りたちは、一様に深々と頭を垂れている。

(……モーセの再来?)

ミリアムはその喧騒のただ中で、心臓を冷たい指でなぞられたような戦慄を覚えた。

群衆の言葉が真実なら、彼らは昨夜、あのガリラヤ湖で起きた「銀の道」の奇跡の主が、この御簾の中にいると信じているのだ。

ミリアムの脳裏に、昨夜の残像が鮮烈に蘇る。

月明かりの下、ボラの群れが織りなす「魚の背」という不確かな足場を大地に変え、悠然と水上に立っていたあの男の影。物理のことわりを嘲笑い、法則を書き換えたかのようなあの超常の主が、今、目の前の揺れる布の向こうに潜んでいるというのか。

やがて、狂乱する熱狂が、打ち寄せる潮が引くように静まり返った。それはユダが何らかの合図を送ったからではない。ただ、その場に漂う圧倒的な「気配」が、衆人の口を物理的に縫い合わせたのだ。

完全な静寂が丘を支配したその刹那。

御簾の奥から、低く、しかし驚くほど清徹によく通る声が響いた。

「聞くが良い、我が兄弟たちよ。……私を、モーセと呼ぶ者たちよ」

その声には、鉄を吸い寄せる磁力があった。耳から入るのではない、脳の髄へと直接染み込んでくるような、甘美で重厚な響き。ミリアムは思わず身を固くした。これは、ヨシュアの放つ剃刀のような鋭利な声とは違う。もっと粘り強く、一度絡め取られたら二度と逃れられないような、湿った権威の声だ。

「私をモーセと呼んではいけない。私は預言者などではないのだ。私はただの一人、荒野を彷徨う迷える羊に過ぎない。……しかしただの羊ではない。偉大なる預言者ヨカナンの庭に住まうことを許された、一匹の羊なのだ。今、この地上に真の預言者はただ一人、我が師ヨカナンのみ。これ以上に偉大なる者が女の腹より出でることは、もうありはしないのだ」

ユダの言葉は、巧緻を極めていた。

自らを徹底して貶め、謙遜という名の衣を纏うことで、その背後にいる「師」を絶対的な神域へと押し上げていく。その卑屈さは、逆説的にユダ自身の価値を、ヨカナンという巨大な太陽を反射する「月」のように光り輝かせていた。

「この地で起こる奇跡は、私が起こすものではない。……すべては、我が師の手の中にあるものなのだから」

ユダがそう告げた瞬間、ミリアムは周囲の空気が急速に冷え込み、気圧が変化するのを感じた。

物語という名の舞台装置が、ついに「奇跡」という幕を上げる準備を整えた。

ユダの声が途切れた刹那、一陣の乾いた突風が「死者の丘」を猛然と駆け抜けた。

空は一点の曇りもない、吸い込まれるような蒼穹。だというのに、吹き抜ける風は鉛のように重く、不吉な予兆を孕んでいる。

ふと空を仰いだミリアムの頬に、柔らかな、だが確かな衝撃が走った。

「……え?」

一つ、また一つ。

それは瞬く間に数を増し、抜けるような青を背景に、丘の上へと降り注ぐ。

白銀の礫か、あるいは――天から零れ落ちた雪のような「白い雨」であった。

「見よ! これこそが、かつて聖なるモーセが荒野で天より賜ったという神の食べ物、マナだ! さあ、ヨカナンからの至福の贈り物だ、存分に味わうが良い!」

ユダの咆哮が呼び水となった。

「マナだ! 本当にマナが降ってきた!」

「おお、主よ、ヨカナン様……!」

群衆は狂喜し、獣のような声を上げて地面に這いつくばった。泥に塗れた白い粒を、指が折れんばかりの勢いで競い合い、むさぼるように口へと運ぶ。その粒が口の中で甘く溶けるたび、絶望と飢えに乾いていた彼らの顔に、不気味なほどの陶酔が広がっていく。

ナタンは、その圧倒的な「狂気」に身を震わせ、ミリアムより小さな体で守るように強く抱きしめた。

「いったいどうなってるんだ? 姉様、これは、これは本当に聖書に出てくる、あの伝説の『マナ』なの?」

ナタンの困惑は、正常な人間のそれだった。四方八方から伸びる、土に汚れた無数の手。マナを求めて重なり合い、文字通り泥を噛むようにして白い粒を奪い合う、地獄絵図のような熱狂。

その喧騒の中で、ミリアムの手の甲にひとひらの「マナ」が舞い落ちた。

彼女はそれを震える指先で摘まみ上げ、鑑定士の、極低温の氷のような瞳で凝視した。

その時、ミリアムの脳裏に、あの記憶の底に眠る没薬の香りを纏った声が、鮮烈に響き渡った。

(いいかい、ミリアム。古来よりの伝承には、必ずと言っていいほど科学的な事実が潜んでいるんだ。例えばモーセの奇跡……紅海を割った話は、気圧の変化と潮の満ち干きで説明がつく。マナだって、例外ではない……)

またあの声だ。没薬の香りと共に現れる、導きの手。それは最初のあの夜から、幾度となくミリアムを真実へと導いてきた。

(……これは、父様の声なの?)

ミリアムは小さく喘ぐように、真実を口にした。

「違う……。ナタン、これは神の食べ物なんかじゃない。ただの『マナ・ライケン(地衣類)』よ」

「植物だって? じゃあ、これは奇跡じゃないの?」

「ええ、こんなもの奇跡でも何でもないわ。これは乾燥地帯に自生するコケの一種。極限まで乾燥すると地面から剥がれ、上昇気流に乗って数キロ先まで運ばれる性質があるの。……おそらくあの御簾の奥の人物は、今日この丘で風が吹くことを、これが降ることを、あらかじめ知っていたんだわ」

だが、理性の声は、狂乱の中にあった信奉者たちの耳を、鋭利な棘となって突き刺した。

「なんだと、小娘……。お前、今なんと言った?」

「ユダ様を、我が師ヨカナン様を否定するのか!」

「不信心な輩め! 聖なるマナをコケだなどと……。そんな奴は我らが同胞ではない!」

殺気立った民衆の波が、ミリアムとナタンに向かって急速に縮まり始める。その怒濤をさらに煽り立てるように、御簾の奥からユダの朗々たる声が、逃げ場のない雷鳴のように丘全体を撃ち抜いた。

「同胞たちよ! 惑わされてはいけない。真に仕えるべき主を、見失うな!」

ユダの声は、人々の魂を直接鷲掴みにし、激しく揺さぶる。

「お前たちが仕えるべきは、この聖なる地を蹂躙する不浄な異邦のカエサルか? 我らの誇りを泥靴で踏みにじる、汚らわしい帝国か? ……それとも、ただの羊飼いに過ぎない私か?」

「否だ! お前たちが仕えるべきは、ただお一人。洗礼者ヨカナンだ! あの方こそが、この腐り果てた律法を焼き払い、ユダヤに新たな光をもたらす、真の王なのだ!」

「ヨカナン! ヨカナン!」

数千人の咆哮が、物理的な振動となって大地を揺らした。ナタンは顔を青ざめさせ、ミリアムを連れて懸命に後ずさる。しかし、周囲を囲む群衆の瞳は、すでに人としての理性を喪失し、盲目的な忠誠と暴力の熱に浮かされていた。

「姉様、まずいよ……! これじゃあ、鑑定どころじゃない。殺されちゃう!」

ナタンの悲鳴に近い震え声が、ミリアムの鼓動をさらに速める。

周囲を囲む群衆の瞳は、もはや人としての光を失っていた。空から降るマナに、人を陶酔させる微量な毒が含まれているのか。あるいは、ユダが放つ「言葉」という名の毒によって、彼らの精神が完全に融解してしまったのか。

一歩、また一歩と距離を詰めてくる彼らの手には、道端の石が握られ、口からは呪詛が滴り落ちていた。

ナタンが震える声で言う。

「僕が食い止めるから姉様はその間に逃げて」

「馬鹿なこと言わないで。むしろ逆だわ。あなただけでも…」

ミリアムが絶望に瞳を閉じかけた、その時だった。

狂乱し、泥のうねりのようにのたうつ群衆。その背後、一切の熱を拒絶し、絶対的な静寂を纏った「黄金の瞳」を、ミリアムの鑑定眼は射抜くように見つけ出した。

ヨシュアだ。

彼は、燃え上がる群衆の喧騒から切り離された場所で、ただ静かに佇んでいた。その佇まいは、偶然そこに居合わせた傍観者のそれではない。この残酷な喜劇の幕をいつ、どの角度から引き裂くかを冷徹に見定めている、舞台の支配者のものだ。

ミリアムの視線に気づくと、ヨシュアは薄い唇を優雅に、そして残酷なまでに美しく吊り上げた。

(さあ、鑑定士。君の『真実』など、この熱狂の前で何の意味がある?)

その黄金の瞳が、無言のうちに彼女へ挑発を叩きつける。彼は最初から、この瞬間のためにここにいたのだ。ミリアムが信じようとした「本物の価値」を、衆人の欲望という泥で塗り潰し、彼女の心を完膚なきまでに叩き折るために。

ヨシュアは、ミリアムの魂を抉るような鋭い一瞥を投げたまま、ゆっくりと、確かな足取りで動き出した。

それまでの喧騒が、まるで目に見えない刃で切り裂かれたかのように一変する。

ヨシュアが歩む道。そこには不吉なほどの「静寂」が伝播し、狂乱していたはずの群衆が、言葉を失った獣のように、本能的な恐怖に駆られて道を開けていく。彼は重力さえも従えているかのような足取りで、丘の頂、神輿の上で光り輝く「ユダ」の正面へと舞い降りた。

二人の間には、一陣の風さえ通さぬほどの、凍てつくような緊張が張り詰める。

ヨシュアは、神輿の上に鎮座する男を――民の偽りの希望であり、ミリアムを絶望の淵へ追い込むためのパーツであるその存在を、焚きつけるように、そして慈しむように見つめた。

「――随分とご機嫌じゃないか。君が幸せそうで、僕は嬉しいよ。……ユダ」

凛とした、そしてあまりにも透き通るような声が、凍りついた丘を吹き抜けた。

決して張り上げた叫びではない。しかし、その声は熱狂の濁流を鋭利な剃刀で両断し、人々の鼓膜の奥、魂の芯にまで冷徹なくさびを打ち込んだ。

一瞬の、死のような静寂。

「……ヨシュア様だ」

誰かが、祈りよりも深い絶望を込めて喘いだ。

「『千の瞳』を持ち、因果の糸を弄ぶ……黄金の神童、ヨシュア様だ!」

群衆は畏怖に身を震わせ、モーセが海を割った故事の如く、本能的な服従をもってヨシュアのために道を開けた。その中心を、彼は王侯貴族の優雅さと、死神の冷徹さを併せ持った、あまりに悠然たる足取りで歩んでくる。

御簾みすの奥に潜む「ユダ」。そして、黄金の瞳を苛烈に輝かせるヨシュア。

目に見えぬ火花が、丘の乾燥した空気をチリチリと焦がし、吸い込む息さえも喉を焼くほどに張り詰めていく。

「久しいな、ヨシュア。……この荒野にまで、お前の放つ冷え冷えとした理知の香りが届いているぞ」

御簾の隙間から、ユダの声が重々しく響き渡った。それは湿った石壁が擦れるような、粘り気と威厳を孕んだ重奏。

「相変わらず、その黄金の瞳で何を見ている。形なき『因果』という名の亡霊を追い、また虚空を彷徨っているのかね?」

「それが先生から僕に与えられた、至高の試練――。いいや、この退屈な世界を彩る、唯一の『遊戯』だからね」

ヨシュアは軽やかに肩をすくめ、足元に降り積もった白い粒――マナ・ライケンを、極上の屑でも眺めるように、退屈そうに爪先で転がした。その何気ない一挙手一投足が、数千の視線を釘付けにする。

「ところで、ユダ。君が今、この哀れな羊たちの前で派手に演じてみせた、この『奇跡』。――これは、本物なのかい? それとも、ただの質の悪い手品かな?」

「……口を慎め、幼き隠者よ」

ユダの声が一段と低く沈み、丘全体を圧殺するような重圧を放った。

「これは我が師、洗礼者ヨカナンの血肉より溢れ出し、神の御手によって具現した聖なるマナだ。お前が弄ぶ『理屈』という名の安っぽいはかりで、天の御業を量れると思うな。その不遜……万死に値すると知れ」

「おっと、不機嫌にならないでくれ。君だって、僕の『欠損』はよく知っているだろう?」

ヨシュアは一歩、また一歩と、逃げ場を奪うように御簾へ近づき、残酷なほどに透き通った笑みを浮かべた。

「僕には『奇跡』なんて不確かな概念、どうしても理解できないんだ。だから、純粋な好奇心で聞いたまでだよ。……でもね、ユダ。僕が信じても、あの子は信じないだろうね」

ヨシュアはそこで言葉を切り、深い「タメ」を作ってから、ゆっくりと、しかし確実な「殺意」と「愉悦」を指先に込めて突き出した。

その瞬間、丘を埋め尽くした数千の期待は、瞬時に黒い「憎悪」へと反転し、ミリアム一点へと突き刺さった。

「あそこに、君のその奇跡を、誇り高くも『真っ赤な偽物だ』と鑑定し、言い切っている――ベツアレムの娘がいるよ」

表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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