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第1部2 二人の先駆者、あるいはユダ④

ヨシュアが放ったその一言は、火薬庫に投げ込まれた一筋の火種だった。

数千という濁った瞳が、一斉に向きを変え、鋭い槍のようにミリアムの全身へと突き刺さる。

「……ッ!」

ナタンが反射的に、己の小さな体を盾にするようにしてミリアムを背中に隠した。しかし、もはや手遅れだった。群衆の殺気は、ヨシュアという劇薬が投入されたことによって、爆発的な指向性を得ていた。標的は、この神聖な奇跡に泥を投げつけた、不遜な少女ただ一点。

ミリアムは、肺から空気が抜き取られたような衝撃に息を呑んだ。

群衆の罵声が遠のき、世界が静止する。その静寂の中心で、彼女はヨシュアの黄金の瞳と真正面からぶつかった。

(……ああ、そうなのね、ヨシュア)

戦慄が、氷の楔となって彼女の背骨を貫いた。

彼は助けに来たのではない。むしろ、逃げ場のないこの狂乱の渦中こそが、彼が彼女のために用意した「鑑定台」なのだ。

ミリアムは悟った。彼は、私を殺すつもりなのだ。

もし私の目が、彼の瞳を補完する「1001番目」に値しない、ただの濁ったガラス玉に過ぎないというのなら――ここで群衆に踏み潰され、石を投げられ、無残に果てるがいい。それが彼の、そして彼が愛憎を向ける「因果」の審判なのだ。

師であるヨカナンより与えられたという至高の試練。それに対する、狂気にも似たなみなみならぬ執着。そして、御簾の奥に潜むユダと鏡写しのように存在する、師への歪んだ狂信。

ヨシュアの美しさの裏側に潜む、奈落のような闇の深さに、ミリアムは眩暈を覚えた。

「さあ、鑑定士ミリアム」

ヨシュアの薄い唇が、音もなく動いた。

物理的な声は届かなくとも、彼の意思が、呪詛のような鮮明さで彼女の脳髄に直接響く。

『君の鑑定が正しいのか、それとも、この地を埋め尽くす「聖なるマナ」が本物なのか。この数千の瞳の前で、君の真実を世界に証明してごらん』

それは救いの手ではなく、断頭台へと誘う甘い囁きだった。

ミリアムは震える指先で、ナタンの外套を強く掴んだ。逃げ場はない。

彼女は、自分を「向こう側」へ引きずり込もうとする黄金の瞳を睨み返した。死の予感に震えながらも、鑑定士としての誇りが、彼女の魂の深奥で静かに、しかし激しく燃え上がっていた。

「――さて、どうする? ユダ」

ヨシュアの声が、静まり返った丘に滑るように響いた。その響きは、最上の絹のように滑らかでありながら、触れる者の肌を無慈悲に切り裂く剃刀の鋭利さを秘めている。

「あの娘は、君が預かったという……僕らが敬愛してやまない、あの偉大なるヨカナン先生の『奇跡』に泥を塗った。神聖なる教えを汚したその罪は、この律法の下では、万死に値するはずだろう?」

ヨシュアは一歩、また一歩と御簾へと歩を進める。彼の黄金の瞳には、一切の慈悲など宿っていない。あるのは、相手の魂のひび割れを冷徹に観察し、そこへ毒を流し込む、鑑定士としての冷酷さだけだ。

「さあ、君の愛する『法』をもって、あの子を八つ裂きにでもするかい? もし君が裁きの剣を振るわず、その口を封じぬというのなら……それは即ち、あの子の瞳が暴いた真実を、君自身が認めることに他ならない。このマナがただの地衣類に過ぎないと、彼女の『鑑定』が正解を射抜いているというのなら――それは、君が人々に示した奇跡が、卑しい『偽り』であったという、拭い去れぬ証明になってしまうのだからね」

「……っ」

御簾の奥から、肺の奥を掻き毟るような、押し殺した呻きが漏れ出た。

ユダは、あるいはその奥に潜む存在は、今、間違いなく歯を食いしばっている。ヨシュアが突きつけたのは、逃げ道のない「真実」か「殺意」かの選択という、完璧な詰みの盤面だった。

「……戯言を。ここに集いし者たちは皆、我が主が慈しんだ迷える羊だ。羊を正しい道へと導き、安らぎを与えることこそが、羊飼いたる私の至高の義務。八つ裂きなどという野蛮な凶行、神に仕える者が口にすることではない。お前の言葉……それこそが、神への不遜、愚の骨頂よ」

ユダの声は、表面上は聖職者らしい気高さを保っていたが、その底には隠しきれない焦燥と、崩れゆく偶像の軋みが混じっていた。

「優しいね、ユダ。本当に……だから僕は、君のことが大好きなんだよ」

ヨシュアは楽しげに、肩をくすくすと揺らして笑った。その笑い声は、この殺伐とした丘において、あまりにも場違いで美しく、それゆえに猛毒を含んでいる。

「けれどね、慈悲深き羊飼いよ。その尊い情けを、君の足元に跪くこの『飢えた獣たち』は、果たして認めてくれるかな?」

ヨシュアがゆっくりと、舞台を指し示す千両役者のように、視線を群衆へと巡らせた。

その瞬間、凍りついていた憎悪の導火線に、火がついた。

「そうだ! ユダ様を侮辱した不信心な女を許すな!」

「石打ちだ! 聖なる奇跡をコケだなどと抜かした悪魔の使いに、神の鉄槌を!」

一人の叫びが、数千の憎悪を呼び覚ます。

ナタンは、もはや自分の体が震えているのか、それとも大気が震えているのかも分からぬまま、ミリアムを背中に隠して必死に立ちはだかった。彼の手は恐怖で細かく震え、呼吸は浅く乱れている。だがその瞳だけは、姉を守るという「男の誓い」を灯し、群衆の圧力を押し返そうともがいていた。

ユダは、沈黙に陥った。

ここで少女を救えば、自ら築いた『奇跡』という名の砂の城が瓦解する。かといって、暴徒に彼女を差し出せば、『慈悲深き聖者』という唯一の仮面が、血にまみれて剥がれ落ちる。

ヨシュアは、どちらに転んでもユダの首が締まる「因果の檻」を、完璧な幾何学模様のように完成させていた。彼は、ミリアムの頬を伝う恐怖の汗さえも、この実験における美しい触媒として、慈しむように見つめている。

「ユダ、そしてミリアム。僕は君たち二人の、唯一無二の友人だ。だから、誰もが幸せになれる『解決策』を提案しようじゃないか」

ヨシュアは、まるで天啓を与える司祭のように、あるいは喝采を浴びる劇場の主役のように、その細い両手を優雅に広げて宣言した。その声は、殺気立った丘の空気を一瞬にして「見世物小屋」の狂おしい興奮へと塗り替えていく。

「――さあ、始めようじゃないか。二人による『奇跡の競演コンテスト』を」

ヨシュアは懐から、その辺りに転がっているのと大差ない、無価値な一個のつぶてを取り出した。石は乾いた音を立てて宙を舞い、吸い込まれるように彼の掌へと戻る。彼はその石を弄びながら、御簾の奥に潜むユダへと、毒を孕んだ視線を投げた。

「この石を、君たちがこの世界で最も尊いと思うものに変えてごらん。もし、この若き鑑定士が勝てば……ユダ、君には僕のささやかな『願い』を一つ、捧げてもらう。無論、断る権利など君にはない」

「……私が、勝ったら?」

御簾の奥から響くのは、地を這うような重低音。警戒と野心が入り混じったユダの問いに、ヨシュアは待っていましたと言わんばかりに、残酷なほど美しい笑みを深く刻んだ。

「その時は、僕のすべてを君に献上しよう。君の望むまま、慰みものにでも八つ裂きにでもすればいい。先生から直接『奇跡』を預かるほど高潔な君だ。石ころ一つを真実まことに変えることなど、造作もないだろう? ……それとも、この破格の条件に、肝を潰してしまったかい?」

しばしの沈黙。

丘の上を走る風だけが、ヒュウ、と空虚な音を立てて吹き抜ける。ユダはヨシュアの意図を測り、この首を吊るための縄とも言える誘いに乗るべきか、冷徹な計算を巡らせていた。だが、数千の信奉者が見守るこの「聖域」で、背を見せることは社会的な死を意味する。

広場を埋め尽くしていた喧騒が、薄氷を踏み抜いたかのように一瞬で凍りついた。

石が空を切る風切り音さえ聞こえるほどの静寂の中、貴賓席を仕切る豪奢な御簾みすが、ゆっくりと、だが抗いようのない傲然たる重みをもって揺れた。

従者が、その石を「挑発」を受けるがごとく己の手に納めるのを、ヨシュアはまるで極上の余興を見守るように、不敵な笑みを湛えて注視している。

そしてユダが動いた。

御簾の隙間から、神像のごとき力強さを湛えた右腕が滑り出した。その掌は、従者が捧げた石を、逃れられぬ運命を捕らえるかのように無造作に掴み取る。

「……児戯にも劣る。地を這う虫の羽音ほどにも、我が鼓膜を震わせることはできぬ」

冷徹でありながら、地鳴りのような響きを伴う重低音。

拳を握り込んだまま、一切の迷いなく、天の頂――正午の太陽へと向かってそれを力強く放り投げた。

「見よ! 跪け! これこそが、天より預かりし我が師の権能。形なき魂に形を与え、泥土を光へと変える、絶対的なることわりである!」

群衆は、その言葉に打たれたように、烈烈れつれつたる陽光を正面から浴びて目を細めた。視界が白く焼き切れるような、その刹那――。

青空の深淵に消えたはずの石が、黄金の放物線を描いて再び地上へと降りてきた。

だが、それはもはや先ほどまでの、どこにでもある灰色の礫ではなかった。

直射日光を反射して火花を散らし、灼熱のプラズマを纏った太陽の破片そのもののような――。

空気を切り裂く重厚な唸りを上げ、砂塵を黄金色に染め上げながら地面へと叩きつけられた、それは「純金」の塊だった。

鈍い、しかしあまりに重い金属音が石畳に響き渡る。

転がった黄金の塊は、民衆の足元で、神の勝利を祝福するように毒々しいまでの輝きを放っていた。

「おおおっ……!」

「黄金だ! 石が、本物の金に変わったぞ!」

「奇跡だ! 万歳、ユダ様万歳!」

地響きのような狂乱が丘を揺らす。人々は奇跡の現証を目の当たりにし、大地を叩き、獣のような歓喜の咆哮を上げた。

だが、その熱狂の渦中で、ミリアムだけは氷のような、あるいは断頭台を待つ罪人のような冷静さを保っていた。

(あまりに稚拙なトリック。従者から石を受け取る際、法衣の袖に隠し持っていた「黄銅鉱」か、磨き上げた金塊にすり替えたに過ぎない……。正午の太陽を直視させ、人々の網膜を焼き切ることでその「まやかし」を正当化したのよ)

彼女の鑑定士としての瞳は、その詐術の輪郭をあまりに鮮明に捉えていた。

その「いかさま」を白日の下に晒し、理知の光で暗雲を払おうと唇を開きかけた、その時。

ヨシュアの、射抜くような、挑発的な瞳とぶつかった。

(……違う。これは、『正解』を答えるための試験じゃない)

ミリアムの背筋を、刺すような冷気が駆け抜けた。

先ほど、マナの正体を「地衣類」という真実で暴いた際、群衆が見せたあの激昂。ここにいる人々は、理屈や科学的な真理など、一欠片も求めてはいないのだ。彼らが求めているのは、過酷な現実を忘れさせてくれる刺激的な「物語」であり、自分たちを救ってくれると錯覚させてくれる「奇跡」という名の幻想。

真実を突きつけることは、彼らの唯一の心の拠り所を奪うこと。それは、彼女自身の死に直結する。

ヨシュアは、ミリアムがその「鑑定士の矜持」と「生存の本能」のどちらを優先し、いかにして魂を汚すのかを、愉悦の表情で見物していた。

「――さあ、次は君の番だ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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