第1部2 二人の先駆者、あるいはユダ①
夜の砂漠は、日中の酷熱をすべて神へ返却したかのように、無慈悲な冷気に支配される。
天幕の厚い布地を抜けて忍び寄る夜風は、日中に火照った肌を刺すような冷たさで撫で回した。外では、カシウスが熾した焚き火が、乾燥したアカシアの枝を「パチッ、パチッ」と爆ぜさせ、その火の粉が暗黒の虚空へと吸い込まれていく。その音だけが、この孤独な夜において、唯一の命の鼓動のように響いていた。
「……ミリアム、お前は日に日に美しく成長するな。こうしていると、まるであのころのアハティのようだ」
背後から届いたカシウスの声は、火の温もりを纏ったように低く、どこか湿った哀愁を含んでいた。
ミリアムは手を止め、焚き火に照らされた小さな手鏡を覗き込む。そこに映るのは、かつての「アハティ」――ミリアムと同じ名を持つ、カシウスの歳の離れた姉であり、彼女の実の母の面影だ。
ミリアムにとってカシウスは、物心ついたときからずっと「兄様」だった。けれど、血の真実は、砂の下に埋められた遺跡のように、時折その一部を覗かせる。実際には、カシウスは彼女の叔父だった。母が亡くなった後、まだ青臭い若き職人だったカシウスが、ミリアムを「妹」として引き取り、今日まで育ててくれたのだ。
「兄様。……母様は、本当にガブリエル様の言葉で私を授かったの?」
ミリアムが幾度となく繰り返してきた、幼い子供のような問い。カシウスはいつもと同じ、困ったような、それでいて深い愛情の籠った笑みを浮かべ、同じ「美しい嘘」を繰り返した。
「ああ。天より使いが現れ、お前は神の子だと言ったんだ。だからミリアム、お前は特別な子なんだよ。この一族の、そして俺の、光なんだ」
(子供騙しだわ)
ミリアムは鏡の中の自分の瞳を、鑑定士の冷徹さで見つめ返す。
虹彩の奥にある光をどれほど凝視しても、そこに神の粒子など見当たらなかった。あるのは、物事の裏側を見透かそうとする、渇いた観察眼だけだ。
彼女はそっと、懐から銀の籠を取り出した。あの日、ヨシュアから渡された母の形見。かつては単なる思い出の品だったそれが、今の彼女の目には「歴史の断片」として映っている。
ミリアムは、透かし彫りの細部を、指の腹でなぞる。
火が爆ぜる光の中で、彼女はある微細な刻印を確信した。
「六芒星と槌」。
それは、カシウスが日々工房で振るう槌に刻まれているものと、全く同じ紋様だった。職人の世界において、この意匠は一子相伝、あるいは師弟の絆を証明する血判状にも等しい。
母様は、これを「大事な人」から貰ったと言っていた。
ミリアムは、これを見るまで母が道ならぬ恋をし、父のない子を産んだことへの負い目から、その「父」の存在を隠すために、天使の作り話をしたのだと考えていた。けれど、この紋章が語る真実は別だ。
(兄様は隠しているけれど……父様はきっと、兄様の師匠だわ)
それは確信に近い推測だった。ならば、なぜ兄はそれを隠すのか?
なぜ、一族の誇りであるはずの父を「天使」という虚構に置き換える必要があるのか。父は、ベツアレムの一族にとって触れてはならない「禁忌」を犯したのだろうか。
ミリアムの胸の内に、鑑定できない「謎」という名の毒が、じわりと広がっていった。
そんなミリアムの思考を、背後から響いた、細く震える幼い声が引き止めた。
「……ねえさま、ねむれないの」
*
天幕の隙間から、目を真っ赤に腫らし、べそをかきながら這い出してきたのはサロメだった。
乱れた髪をそのままに、小さな手でミリアムのスカートの裾をぎゅっと掴み、添い寝をして欲しいと甘ったれた声でねだる。
カシウスが「お前ももう休め、明日も早いぞ」と、火を消しながら優しく促した。ミリアムは頷き、温かなサロメの小さな体を抱き上げるようにして、天幕の中へと戻った。
天幕の中は、家族の眠れる吐息が重なり合い、外の冷気とは対照的な、濃密な生温かさに満ちていた。
中では、サロメを寝かしつけていたはずのナタンが、先に高い寝息を立てていた。
「困った兄様ね……」
普段は一人前の職人として背伸びばかりしている弟の、防備のない、幼子のような寝顔。ミリアムは、隣で丸くなって眠りについたサロメの髪をそっと撫で、その柔らかな頬に、音を立てないようにキスをした。
「おやすみ、私の大事なケタンタ(おチビさん)」
ふと、その愛おしさがナタンにも向かい、同じようにしようとして、ミリアムは寸前で微かに頬を染め指を止めた。
(……もう、この子は幼い子供ではないものね)
代わりに、寝返りで肌がはだけた彼の外套を、静かに直してやるに留めた。彼らの寝息が一定のリズムを刻み、家族が深い眠りの底へと落ちたのを見届けてから、ミリアムは一人、作業机に向かった。
彼女は小さな黒ずんだ宝石箱を開ける。
中には、宝石の代わりに「ガラクタ」が詰め込まれていた。
錆び付いて動かない歯車、歪にひしゃげた青銅の破片、用途不明の濁った硝子球、そして数片の乾いた香料の滓。
これらすべては、この数週間のうちに、ヨシュアから「報酬」として受け取ったものたちだ。
あの日、ヨシュアと「契約」を交わしてから、ミリアムは幾度となく彼と共に、ガリラヤの街に溢れる「奇跡」の現場を訪れた。
ある時は「不治の病を治す聖なる泥」を。ミリアムはそれが特定の鉱石を含んだ、単なる止血効果のある粘土に過ぎないことを暴いた。
ある時は「独りでに鳴り響く聖なる鈴」を。彼女はそれが温度変化によって膨張する金属の熱疲労が生んだ、物理的な音であることを鑑定した。
(ヨシュアは、本当に父様のことを知っているの? それとも、この無価値な金属片を餌にして、私を操っているだけ……?)
一見、道端に転がっているゴミのようなこれらも、ヨシュアの唇から紡がれる「因果の物語」に触れた瞬間、ミリアムの脳裏に父の背中の残像を鮮烈に映し出す。彼の言葉には、鑑定士の理性を麻痺させる、底知れぬ魔力が宿っていた。
*
「――おいで、僕の1001番目の瞳」
天幕の外から、夜風のささやきに紛れて、その声は届いた。
夜の静寂を切り裂くような鋭利さはなく、むしろ親しい友人を散歩に誘うかのような、穏やかで低い声。
ミリアムは驚かなかった。むしろ、その声が届くのを、暗闇の中で息を潜めて待っていた自分に気づき、密かに唇を噛む。
彼女はカシウスの眠りを妨げぬよう、音を殺して外へ出た。
そこには、青白い月光を背負って、幽霊のように佇むヨシュアの姿があった。
睦言を交わす恋人のように、夜更けに訪れるこの逢瀬は、もう彼らにとっての「日常」となっていた。
「今夜は一段と冷えるわね、ヨシュア。私の体温を鑑定しに来たわけではないのでしょう?」
ミリアムは腕を組み、冷え切った夜気から体を守りながら、少しだけ棘のある声を投げた。ヨシュアは彼女の刺々しさを、まるで柔らかなビロードで受け止めるように微笑む。
「不機嫌にならないで。君の体温よりも、君の瞳に映る『真実の温度』に、僕は興味があるんだ」
二人の間に、恋慕の情など欠片もない。
あるのは、瞳という「視点」と、情報という「対価」の、冷徹な等価交換。
だが、月明かりの下で見つめ合う二人の姿は、世界から隠された「裏の真実」という名の背徳を共有する恋人同士よりも、ずっと淫靡で、触れてはならない秘め事のように見えた。
「ガリラヤの湖に、新しい『奇跡』が降った。その奇跡を解き明かしておくれ」
*
二人は無言のまま、銀の砂漠を抜けて、月明かりに濡れたガリラヤの湖畔へと辿り着いた。
さざ波一つ立たない湖面は、巨大な黒い鏡のように天空の月を映し出していた。
「見て、ヨシュア。湖が……割れているわ」
ミリアムは思わず、溜息のような声を漏らした。
ヨシュアが持ち込んだ「奇跡の依頼」――それは、満月の夜、ガリラヤの湖が真っ二つに割れるという噂の真偽だった。
眼前に広がる景色は、あまりにも神話的だった。漆黒の湖の中央に、銀色に輝く真っ直ぐな道が、どこまでも遠く、水辺を切り裂くように浮かび上がっている。それは、かつて預言者モーセが紅海を割った、あの至高の奇跡の再現そのものだった。
「どうかな。君の目には、あれが乾いた大地に見えるかい?」
ヨシュアが横から覗き込むように問う。ミリアムは深く呼吸し、自らの意識を研ぎ澄ませた。感情という名のノイズを削ぎ落とし、網膜に届く光の粒子だけを、微細に「鑑定」していく。
「……いいえ。あれは道じゃない。……『魚』よ」
彼女の鋭い視線が、銀光の正体を暴いた。
「満月の夜、産卵のために何万というボラが、水面ギリギリまで一斉に浮上する。その銀色の背中が月光を一点に反射して、遠目には一つの硬質な帯に見えているだけ。……ただの自然現象だわ。こんなものは、奇跡でも何でもない」
そう言い切ろうとした瞬間、ミリアムの呼吸が喉の奥で氷結した。
網膜に焼き付いたのは、物理的な因果を超越した異形。
月光を反射して銀色にうごめく「魚の道」の上、一人の男が屹立していた。
ボラの群れが密集し、互いの鱗を擦り合わせる音は、本来なら波音に紛れるはずの囁きに過ぎない。しかし今、その音は奇怪な鳴動となって湖面に響き渡っている。
男は天を仰ぎ、法悦に浸るかのように両手を天へと広げていた。
ミリアムは鑑定士として、その光景を脳内で瞬時に分解しようと試みる。ボラの背は、どれほど密集しようとも人の体重を支えるほど強固ではない。浮力も、足場の剛性も、この光景を成立させるにはあまりに脆弱すぎる。
一歩。
男が足を動かすたびに、銀色の背が波打ち、しぶきが月光を撥ねて男の衣の裾を濡らす。沈まない。まるで、湖そのものが意思を持って彼を拒み、天へと押し上げているかのようだった。
「そんな……。馬鹿な。あれは本当の道ではないはずなのに。……どうして、あの人は沈まないの?」
戦慄が、ミリアムの背筋を這い上がった。
彼女は自身の足元さえ不確かなものに感じ始め、縋るように、隣に佇むヨシュアの横顔を盗み見た。
ヨシュアの黄金の瞳には、歪みのない鏡のように、水上に立つ男の影が鮮明に映り込んでいた。しかし、彼はいつものように饒舌な解説を始めようとはしない。沈黙という名の重圧を楽しみながら、ミリアムの瞳が混乱に濁っていく様を、ただ慈しむように見守っている。
「ヨシュア、あれも……何かのトリックなの? それとも……本物の奇跡だとでも言うの?」
ミリアムは、自分から「答え」という名の毒杯を求めてしまっていることに気づき、激しく唇を噛んだ。ヨシュアが指先から滴らせる解という名の蜜を、彼女の魂は飢えた獣のように欲しがっていた。理性を捨て、彼の物語に従属してしまえば、この混乱から逃れられるのではないかという誘惑。
だが、ヨシュアは彼女の内面の崩壊を愉しむように、薄い唇を優雅に、そして残酷な形へと吊り上げただけだった。
「不機嫌にならないでくれ。今夜の答え合わせは、これでおしまいだ」
ヨシュアの声は、甘い毒のように鼓膜に絡みつく。「あまりに早く真理へ辿り着いてしまうのは、美しい君の瞳への冒涜だと思わないかい?」
答えを求めていたミリアムを置き去りにし、彼は身を翻した。夜風になびく外套の裾。その足取りには重さという概念がなく、まるで暗闇の一部が歩いているかのようだ。
瞬きの一瞬、視界から彼が消えた。
直後、耳元に冷たい気配が這い上がり耳元で何かが囁かれる。凍てつくような呼気が思考を麻痺させ、彼女が握りしめる「銀の籠」を、彼の白く細い指が上書きするように覆った。
何かを叫ぼうとした時には、もう、そこには誰もいなかった。
月光に溶け、静寂に食われたかのような唐突な消失。残されたのは、狂ったように水面で跳ねる魚の音と、ミリアムの激しい動悸だけだ。
掌には、不気味なほど鮮やかな「冷たさの記憶」がこびりついている。それを拒絶したい自分と、その感触に唯一の真実を見出そうとする自分。
裂けそうな胸の内側で、死神の誘惑のような囁きが繰り返される。
「あの男が何者か、そしてなぜ魚の背が彼を拒まないのか。……もし、その因果の糸の末端を掴みたいのなら、明日、『忘却の丘』までおいで」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




