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第1部1 鉄の記憶、黄金の契約④

翌朝。天幕の隅に座り込むサロメの横顔には、依然として生気がない。

差し込む朝陽が、宙を舞う埃を白く照らす中、彼女は自分の膝を抱え、ただじっと、何もない地面を見つめていた。ナタンが天幕に入ると、彼女は力なく顔を上げた。

「兄様、母様は見つかった……?」

絞り出すようなその問いに、ナタンは一瞬、罪悪感に目を伏せるが、すぐに決意を込めて微かに頷いた。

「ああ。見つかったよ、サロメ。……一緒に行こう。会いに行こう、僕たちの最愛の人に」

二人は手を繋ぎ、砂埃の舞う市へと歩き出した。市場の喧騒、ロバの嘶き、欲深い売り子の怒鳴り声。その騒がしさの中で、サロメはナタンの手を、骨が鳴るほど何度も強く握り締める。

「ねえ兄様、本当に……本当に母様に会えるの?」

「ああ、本当だよ。お前を最も愛する人に会わせてあげるよ。兄様のことが信じられないかい?」

ナタンが、泣きそうな顔で優しく覗き込むと、サロメは「ううん」と激しく首を振った。

その時だった。街の悪臭を強引にかき消すように、辺りにむせ返るほど激しい乳香の匂いが立ち込めた。

石造りの建物の隙間から、薄紫色の霧のような煙が、まるで意志を持っているかのように、生き物のように微かに漂い始める。ナタンはぎょっとして足を止めるが、サロメの瞳にはもう、他のものは映っていなかった。

彼らが歩く先、路地の曲がり角に一人の女性が立っていた。

土色のベールを深く被り、顔は見えない。だが、その佇まいはあまりにも懐かしく、あまりにも優しかった。

「……母様?」

ナタンの口から、無意識に、震える声が漏れる。

「兄様、母様だよ! 本当に母様がいたよ。会いに行こう!」

サロメはナタンの手を振り払わんばかりの勢いで、闇に沈む路地へと駆け出した。影は逃げるように角を曲がる。ナタンは、その角を曲がった瞬間に、すべてが砂のように消え失せているのではないかと、胸を締め付けられるような恐怖を覚えた。

しかし、角を曲がった先。

陽光の届かない冷たい路地の奥に、その姿は確かに実在していた。

両手を広げる女性。サロメは弾かれたように、その胸へと飛び込んだ。

「母様……!」

抱きしめた腕の、確かな柔らかさと、生きている者の体温。

鼻をくすぐる、懐かしい乳香の香り。

サロメは歓喜に震えながら、その顔を上げた。

しかし、そこにいたのは――。

「あれ……? 姉様?」

そこに立っていたのは、亡き母親を模した古びた衣を纏い、自身の髪を隠したミリアムだった。

彼女の胸元で揺れる銀の籠からは、あの乳香が、今も白く細い煙を、まるで奇跡の演出家のように上げている。

ミリアムは切なげに、けれどこの上なく慈しむような微笑みを浮かべ、サロメの小さな、震える頬を包み込んだ。

「ごめんね、サロメ。私は、あなたの本当のお母様にはなってあげられない。あなたのお母様は、世界でただ一人、天にいるあの人しかいないから」

路地の奥、ひんやりとした静寂の中で、ミリアムの声だけが優しく、そして哀しく響く。

「でもね、サロメ。私は私として……あなたの姉様として、あなたを心から愛しています。血が繋がっていなくても、私はあなたを離さない。……それじゃあ、ダメかな?」

サロメは一瞬、世界が崩壊したような、今にも泣き出しそうな顔をした。

けれど、すぐに自分を抱きしめるミリアムの腕の強さ、自分を見つめる瞳の圧倒的な熱さに気づく。

サロメはぎゅっと目をつぶり、今度は自分から、ミリアムの胸に深く、深く顔を埋めた。

「ううん……それでいい。だって私、姉様が大好きだもの」

サロメの小さな肩が、激しく震える。ミリアムは彼女を抱きしめながら、背後で立ち尽くすナタンと視線を合わせた。

「家族」という名の、血よりも濃く、どんな理論よりも確かな絆が、今この瞬間、絶望の淵で結び直されたのだ。

サロメを抱きしめるミリアムの姿を、ようやく緊張の鎖から解き放たれたナタンが、ため息混じりに、どこか呆れたように見つめていた。

「……全く。姉様はいつもそうだ、詳しい説明は何もしてくれないんだから。ただ『サロメをここに連れてきて』としか言わないんだもの」

ナタンは地面の乾いた砂を軽く蹴り、頭をかきながら苦笑いした。

「正直に言うよ。僕まで、本当に母様が墓の中から蘇ったのかと思って、心臓が止まるかと思ったじゃないか。あの角を曲がるまで、僕には間違いなく、あれが母様に見えたんだ」

その言葉を聞いて、ミリアムはサロメを抱いたまま、悪戯っぽく片目を細めて笑ってみせた。

「あら。ナタン、あなたも実はお母様が恋しかったのかしら?」

ミリアムはサロメを片腕で支えながら、もう片方の手をナタンの方へ向けて、芝居がかった仕草で大きく広げてみせた。

「いいわよ、あなたもこっちへいらっしゃい。偉大な姉様が、存分に慰めてあげるわ」

「……っ、やめてよ。全く、降参だよ。本当に……あなたは、僕の自慢の、偉大な姉上だ」

ナタンは呆れたように首を振りながらも、その瞳にはミリアムへの、かつてないほどの誇らしさが溢れていた。

路地の隅で、銀の籠から立ち上っていた煙が、役目を終えたようにふっと途絶えた。

乳香の香りはまだ微かに残っていたが、それはもう「死者」を呼ぶ不吉なものではなく、ただ三人の家族を包み込む、穏やかな安らぎの香りへと変わっていた。

「でもさ姉様、種明かしはしてよ。昨日はサロメにしか見えなかったものが、どうして今回は僕にも見えたの? あの幻は何だい。……確かに今、サロメが抱きついているのは姉様だけど、あの角を曲がるまで僕たちが追いかけていた背中は、絶対に姉様じゃなかったはずだ」

ナタンの瞳には、まだ先ほど見た「母の残像」への隠しきれない困惑が残っている。ミリアムは歩みを止め、少し真剣な面持ちで弟を見つめた。

「ねえナタン、昨日市で聞いた話を覚えている?」

「話? ……ああ、あの騒ぎになっていた『黒い麦』のこと?」

「ええ。あれは麦角菌ばっかくきんという菌に侵された、病気の麦。それを大量に燃やすと、その煙を吸い込んだ者に、脳を狂わせる激しい幻覚をもたらす毒になるの。この数日、商人たちは廃棄のためにあの麦を路地の入り口で大量に燃やしていたわ。その煙が、出口のないこの路地に、濃い霧のように溜まっていたのね」

ミリアムは、胸元の銀の籠を軽く指先で弾いた。

「けれど、ただ毒を吸うだけでは、あんなにはっきりとした『個別の姿』は見えない。そこに、嗅覚を刺激する『乳香』を混ぜることで、脳内の特定の記憶を強制的に引き出し、そのまぼろしを描かせたのよ。……昨日、サロメだけがそれを見たのは、この子が小さくて煙が回るのが早かったから。それに、子供はもともと夢と現実の境界が曖昧でしょう?」

「じゃあ、今日僕がそれを見たのは……」

「サロメの『母様がいる!』という強い確信に引きずられて、あなたの中に『ひょっとして本当にいるのかもしれない』という、脳を騙す強い思い込みが生まれたからよ。心の中にあった母様の記憶が、毒の力で実体となって外側に溢れ出した……それが、あの背中の正体。私が角を曲がって、あなたたちを抱きしめた瞬間に、その『思い込み』が私の実体に上書きされて消えたのよ」

ナタンは呆れたように自分の頭を軽く叩くと、大げさに溜息をついてみせた。

「……なるほど。全部、僕たちの頭が作り出した『仕掛け』だったってわけか。姉様にかかると、恐ろしい幽霊も、聖人の奇跡も、形無しだね。これじゃあ、異界の住人も商売あがったりだよ」

ナタンの冗談めかした口調に、ミリアムの頬がわずかに緩む。

やがて、ミリアムに促されたナタンが、ぐったりと眠るサロメを背負い直した。小さな体で懸命に妹を支える、その健気で温かな背中。

「先に戻ってて。私は……少しだけ、この場所の『残滓』を確かめてから帰るわ」

「欲張りなんだから。あんまり遅くならないでよ、姉様」

ナタンは何度も振り返りながら、ゆっくりと夜の帳の向こうへ消えていった。その愛おしい背中が完全に見えなくなるまで、ミリアムは微笑みを絶やさなかった。

だが、彼の気配が途切れた瞬間。

ミリアムの瞳から温度が消えた。

周囲を包む空気が、一変する。

先ほどまでナタンがそこにいた温もりを、冷酷な沈黙が塗りつぶしていく。ミリアムは視線を動かさず、背後の色濃い闇に向かって、静かに、そして鋭く言葉を紡いだ。

「――いるんでしょ、ヨシュア。出てきて」

その声は、弟に向けた慈愛に満ちたものとは似ても似つかない、深淵の住人を呼び戻すための、冷ややかな呪文だった。

ミリアムの言葉に応えるように、石造りの建物の深い影から、黄金の髪をなびかせた少年がゆっくりと姿を現した。彼は賞賛を込めて、優雅に、けれど皮肉に満ちた手拍子を打つ。

「素晴らしいよ、ミリアム。もしかすると君は、僕が見込んだ以上の、残酷なまでに有能な『鑑定士』かもしれないね」

その軽口を、ミリアムは冷ややかな、拒絶の視線で撥ねつけた。

「……ねえヨシュア、私、あなたに会った日からずっと夢を見るの。誰かに背負われている夢。それはとても懐かしい誰か……。あなた、何か心当たりはある?」

「なぜ僕に聞くの?」

ヨシュアは首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。

「君の夢は君にしか分からない。あの幻があの子たちの頭の中にしかなかったようにね。それとも、僕が君に呪いでもかけたとでも言うのかい?」

「今日、私、あの乳香の香りを嗅いだあの時……もう一つ、別の香りを嗅いだの」

ミリアムは一歩、ヨシュアへと歩み寄った。

「それは没薬ミルラの香りよ。母を象徴する乳香と対比される、もう一つの、死を予感させる苦い香り。あの夢の中で香っていた匂い……鉄と火の匂い、それとこの没薬の香り。私、思い出したの。あの背中は、父様だわ」

ヨシュアは何も言わず、ただ真昼の月のような瞳で、彼女の魂の奥を覗き込んでいる。

「私に父の記憶は無いの。母の記憶も、夢のようにぼんやりとしている。物心ついた時から一緒だった家族は、カシウス兄様だけ……。それから、あの子たちがやってきた。私の家族はそれだけで十分なはずだった」

ミリアムの声が、微かに、けれど激しく震える。

「でも、いたの。確かに私には、お母様とお父様がいたんだわ。一族の者は皆、私の父と母のことを語らない。……母がなぜ死んだのか。父がなぜ、いなくなったのか。あなた、何か知っているの?」

ヨシュアの微笑みが、ふっと消えた。

彼はミリアムの胸元で揺れる銀の籠――彼が一方的に返した、あの形見――を細い指で示した。

「ミリアム。君の言う『没薬』は、古来より死者に手向けられる香り。そして、失われた父の香りだ。鉄と火は、ベツアレムの一族に課せられた、逃れられぬ血の宿命なのかもしれないね」

彼は吸い寄せられるように一歩近づき、ミリアムの瞳を覗き込んだ。その距離は、もはや呼吸さえも共有するほどに近い。人間離れした清潔な、まるで死の庭園のような気配が、ミリアムを冷たく包み込んでいく。

「でもね、君が問うべきは、僕が何を知っているかではないんだ。知るべきは――君自身が、何を知りたいか、だ」

ヨシュアの声は、愛を囁くような、あるいは毒を流し込むような甘さを帯びていた。

「僕はヨシュア。一〇〇〇の瞳を持ちながら、真実を映す自らの瞳を持たぬ、めしいのヨシュア。もし、君が僕の一〇〇一番目の瞳となってくれるなら、僕は喜んで、僕の持つすべてを君に差し出そう。僕たちは二人で一つ、真理を暴く一対の翼になれるはずだ」

抗いがたい力を持った声だった。

光に透ける黄金の髪、天の使いのような美しい容姿。だが、その甘美な誘いの裏には、底知れぬ深淵が口を開けている。これは天使の救いか、あるいは己の魂を切り売りする悪魔との、最後の手取引か。

だが、ミリアムの心はもう、決まっていた。

母の乳香、父の没薬。その記憶を繋ぎ止め、失われた自分自身の輪郭を取り戻すために。真理に手が届くのなら、代償にこの瞳を捧げても構わない――。

ミリアムは逃げ場を断つように、真っ直ぐに彼を見据えて言い放った。

「いいわ、ヨシュア。契約しましょう」

その言葉が夜の空気に触れた瞬間、どこか遠くで、重い天秤の皿が音を立てて奈落へと傾いた。

「私とあなたの――この世界に満ちる、偽りの『奇跡』を解き明かすために」

凛とした声が路地裏に響き、消えていく。

ヨシュアは、満足げにその唇を深い弧へと歪めた。その眼差しは、望んでいた「最後の瞳」を手に入れた歓喜か、あるいは、自らが差し出す「対価」の本当の価値をまだ理解していない少女への、残酷な慈しみか。

黄金の髪が夜風に揺れ、彼の背後の闇が一段と深く、濃く、彼女を包み込んでいく。

「……ああ。行こう、ミリアム。君がその瞳で、僕の欠けた世界を完成させてくれる日まで」

その囁きは、もはや約束ではなく、逃れられぬ呪詛のようにミリアムの耳底に沈んだ。

街の騒めきは遠ざかり、ただ、死の庭園のような清冽な香気だけが、いつまでもそこに留まっていた。

* * *

ミリアムが去った広場。そこにはもう、ヨシュア以外に人影はない。

今頃、彼女は手に入れた偽りの平穏を抱きしめ、家族と暖かな時を過ごしていることだろう。そう、今のただ一時は。

つい先程まで晴れ渡っていた空は、一転して不吉にかき曇り、世界を押し潰すような激しい雨が降り出していた。商人たちは呪詛を吐きながら慌てて荷を畳み、皆、何かに追われるようにこの場を去っていく。

ヨシュアはその雑踏の中、一人だけ悠然と立ち止まっている、濡れることを拒まぬ男に声をかけた。

「ねえ、待ってよ。調香師」

それは、先程ミリアムたちが「母の匂い」を見つけた、あのフードを深く被った露天商だった。

「偶然を装い、これだけの『奇跡』を、麦の煙と香りで演出してみせる。なかなかの手際だ……並大抵の腕じゃないね」

ローブの男は、雨に打たれながら、影のように恭しく頭を下げた。

「貴方様のような偉大なお方にそのように仰っていただき、恐縮でございます。千の瞳のヨシュア。あなたの知恵は、楽園の知恵の実を食べた者のようだと皆が噂しておりますよ」

男の声には、商人の卑屈さではなく、訓練された工作員のような冷徹さが混じっていた。

「我らユダヤの祖、アダムとイブ。彼らが追放された後の楽園より知恵の実を収穫したのは、全知全能なるあのお方か、それとも蛇か……。あなたはどちらから、その果実を賜ったのでしょうね」

ヨシュアの口の端が、微かに、残酷な形に歪む。

「君の主、『ユダ』に伝えておくれ。……近々、遊びに行くとね。積もる話もあるだろう?」

「必ずやお伝えしましょう。我が主もお喜びになりましょう」

ローブの男は、降りしきる雨の中に溶けるように消えていった。

激しさを増す雨音が、街の喧騒を、そして血と嘘の匂いを洗い流そうとする。

後にはただ、濡れることも厭わぬヨシュアだけが、感情の消えた瞳で虚空を見つめて立ち尽くしていた。


第1部1 鉄の記憶、黄金の契約 了

表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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