第1部1 鉄の記憶、黄金の契約③
その日、ミリアムは再び市へと向かった。
ヨシュアの言葉に導かれたわけではない。あの路地以来、母を慕い泣きじゃくるサロメを、このままにはしておけなかったからだ。
しかし、市は昨日とは打って変わって、殺気立った不穏な空気に包まれていた。
「黒い麦が出たぞ!」
「病の麦だ、食えたもんじゃない! 街を殺す気か!」
人々の口から漏れるのは、不吉な「黒い麦」の噂だった。一度混じれば他の健全な麦まで毒し、すべてを廃棄しなければならない、死を招く麦。大損を掴まされた商人たちは、やり場のない怒りを爆発させていた。
「責任者を出せ! 誰がこんな呪われたものを仕入れたんだ!」
怒号が飛び交う中、立ち止まっていたミリアムに、興奮した男たちの矛先が向かった。
「おい、お前! 何をジロジロ見てやがる。見世物じゃねえんだぞ!」
荒くれ者の一人が、ミリアムの焦燥に満ちた美しさに目を留め、下卑た笑いを浮かべた。
「……いや、とんでもねえ別嬪じゃねえか。おい、いいからこっちに来いよ。俺たちがたっぷり慰めてやるぜ」
脂ぎった汚れた手が、ミリアムの細い腕を乱暴に掴もうとした、その瞬間。
震えているが、それでいて弾丸のように鋭い叫びが、湿った路地の空気を切り裂いた。
「……やめろ!『アハティ(僕のお姉ちゃん)』に、その汚い手で触れるな!」
*
割って入ったのは、肩で息を切り、必死の形相で追いかけてきたナタンだった。
小さな体を精一杯に広げ、盾となってミリアムの前に立つ。その瞳には、恐怖を押し殺した、大切なものを守り抜こうとする幼い獣のような気迫が宿っていた。
あまりの剣幕と、迷いのない敵意に、男たちの下卑た興奮は一気に冷めていく。女子供相手に無様な騒ぎを起こすことを厭うた彼らは、忌々しげに悪態を吐き捨てながら、蜘蛛の子を散らすように闇へと消えていった。
「ナタン……。ありがとう、助かったわ。でも、どうしてここに?」
震える胸を抑え、安堵から溜息を漏らすミリアムに、ナタンは向き直った。
先ほどまでの刺すような気迫はどこへやら、彼は今にも泣き出しそうな顔でミリアムの服の袖をぎゅっと掴んだ。
「ねえ、姉様。お願い、僕も一緒に行かせて。……一緒に、この路地の謎を解こう? 姉様を一人で、あんな怖い目に遭わせたくないんだ」
その健気な訴えは、ミリアムの心の奥底に眠っていた不安を、優しく溶かしていくようだった。
愛おしさが決壊し、ミリアムは力いっぱいナタンを抱きしめた。
腕の中に伝わるナタンの体温。まだ少しだけ幼い、その柔らかな髪の匂い。
「もちろんよ、一緒に行きましょう。ありがとう……私の小さな、自慢のナタン」
抱きしめ返す腕に、ナタンもまた、小さな力を込める。
二人は互いの鼓動を確かめ合うように深く深く抱き合い、そして迷いの晴れた瞳で、真理が待つ路地の奥へと足を踏み出した。
*
雑踏の中、ミリアムは周囲を警戒しながら核心に触れた。
「ねえナタン、サロメがお母様の幻を見たあの日、何か変わったことはなかった?」
ナタンは少し考え込み、眉を寄せて記憶を辿る。
「別に何も……いや、待てよ。そういえば、サロメが叫ぶ直前、僕もお母様のことを考えてたんだ。姿を見たわけじゃない。ただ、ふっと思い出したんだよ。あの優しかった手のひらや、子守唄を」
ミリアムの胸が、激しくざわついた。サロメが見て、ナタンが想った。
それは単なる偶然か、あるいはあの路地の「空気」そのものが、人々の記憶を強制的に引き出し、増幅させる性質を持っていたのか。
「行ってみましょう。あの場所を、もう一度、今度は『鑑定士』として見直さなきゃ」
その時だった。
背後から響く、鈴の音のように清らかで、しかし毒のように甘い声。
「引き受けてくれたんだね、奇跡を見通す娘(鑑定士)」
振り返ると、ヨシュアが壁に背を預け、退屈そうに指先で自身の髪を遊ばせていた。
「別に、あなたのためじゃないわ。サロメのため、そして私の家族のためよ」
ミリアムの明確な拒絶に、ヨシュアは楽しげに目を細めた。
「どちらでもいいさ。いや、どちらでも『同じ』かな? 君がその意志を固めてくれたなら、僕は報酬を渡さなければいけない」
ヨシュアが右手を軽く振ると、何かが放物線を描いて飛んできた。それを、ミリアムは反射的に両手で受け止める。
「……っ!?」
掌に伝わる、ひんやりとした金属の質感。緻密な透かし彫りの凹凸。
それは、ミリアムが夢に見るほど探し求め、どこかで失くしたはずの、母の形見である「銀の籠」だった。
「なぜ……あなたがこれを持っているの? どこで、どうやって……!」
驚愕のあまり声を震わせるミリアムに、ヨシュアは冷たい微笑を浮かべるだけだった。
「因果は巡る。いつかその答えも分かるだろう。……けれども、それは『今』じゃない」
彼は数歩歩み寄り、ミリアムの耳元で囁く。その距離は、破滅を予感させるほどに近く、そして不穏な熱を帯びていた。
「今はただ、僕のために奇跡を解いておくれ。……その籠の中に、君がこれから見つける『真実』を詰め込むためにね」
ヨシュアはそれだけ言い残すと、陽炎のように雑踏の中へと溶けて消えていった。
残されたミリアムの手の中には、取り戻したはずの愛の証が、今は呪いの重石のようにずっしりと横たわっていた。
「姉様、どうかした?」
立ち止まったミリアムを、ナタンが振り返る。その時にはもう、ヨシュアの黄金の髪は雑踏の向こうへ消え、残されたのは雨を予感させる重苦しい風だけだった。
「……ううん、なんでもないの。行きましょう、ナタン」
*
ミリアムは動悸を抑えながら、昨日サロメが駆け出したあの忌まわしい路地を見渡した。
そこは聖霊が降り立つような神聖な場所でも、奇跡が起こりそうな特別な場所でもない。ただの埃っぽい、貧しさと停滞が澱む路地の入り口だ。
しかし、ミリアムの脳裏にふと、あの夢のシーンが鮮烈にフラッシュバックした。
幼い自分を背負った、あの大きな、ごつごつとした背中。
なぜ今、それを思い出したのか? 答えはすぐに届いた。
あの夢の中で嗅いだ、懐かしくて切ない、胸を締め付けるような**「匂い」**を、今、この場所で明確に感じたからだ。
「ねえ、ナタン。お母様といえば、どんなことを思い出す?」
「え? 急にどうしたんだい」
ナタンは戸惑いながらも、遠くの地平を見るような目をして答えた。
「……そうだね。僕を抱き上げてくれた時の、太陽みたいに温かい腕。それから、夜寝る前に歌ってくれた低い、波の音みたいな子守唄。あとは……そう、少しだけ**乳香**の香りがした気がするよ。祈りの後に漂う、あの透き通った匂い」
「それだわ!」
*
二人は市場を急ぎ、異国情緒漂う香料を取り扱う商人の前で足を止めた。
フードを深く被り、顔を隠したローブの露天商が、低い、砂を噛むような声で問いかける。
「いらっしゃい……。何か入り用かね、美しいお嬢さん。あるいは、失くした記憶をお探しかな」
「ええ、この器に合う香を探しているの」
ミリアムが取り出した銀の籠を見て、商人の目がフードの奥でギラリと光った。
「ほほう……これは随分と良い品だ。この緻密な透かし彫り、相当な手練れの職人の仕事だね。……じゃあ、これなんかどうだい? 貴婦人が死ぬまで手放さないという、最高級の乳香だ」
商人が取り出した小瓶の蓋を開けた瞬間、ナタンが弾かれたように身を乗り出した。
「これだよ、この匂いだ! あの時、あたりに漂っていたのは、間違いなくこの香りだ。……ああ、母様の匂いだ。だから、僕はあの日、路地でお母様のことを思い出したんだね」
「商人さん、昨日、あなたはどこに店を出していたの?」
「ああ? ……昨日はあの、不吉な死者が出るとかいう路地の角だよ。ああ、縁起でもない。なんだい、あんたたち買わないのかい? ならさっさとどいてくれ。商売の邪魔だ」
場所を移し、ナタンは興奮気味に、謎が解けた達成感と共に語った。
「そういうことか、姉様! 昨日の幻は匂いが原因だったんだね? 特定の匂いで記憶が鮮明に蘇るなんて、僕、知らなかったよ!」
「ええ。嗅覚は脳の最も深い部分と直結しているの。お母様の記憶も、私の夢の記憶も、香が呼び覚ましたのね。……でも」
ミリアムは、掌の中の銀の籠を見つめて首を傾げた。
「でも、何?」
「……ナタン。同じ匂いを嗅いだのに、どうしてサロメは幻覚まで見て、あなたは『思い出した』だけで済んだのかしら。幻を現実の肉体として見せるには、香りだけじゃ、まだ何かが足りない気がするの」
ナタンは黙り込んだ。確かに、自分は姿までは見ていない。
一体何が足りないのか?
そう考えた瞬間、再びあの「背中の夢」のシーンが、激しい眩暈と共にフラッシュバックした。そして――
(いいかい、ミリアム……私たちの世界は、君が思うよりずっと不確かなものなんだ。目に見えているものだけが本物じゃない。世界は、人々の内側にある「幻」を引き出す罠で満ちている。そう、例えば……)
*
「……っ」
ミリアムは激しい吐き気を伴う眩暈に襲われ、膝をつきかけた。
なんだ今の言葉は? なぜ、このような禁忌に触れる知識が自分にある?
そして、この、古びた銀が擦れ合うような掠れた声は、一体誰のものなのか。
ヨシュアに出会ってからというもの、自分の中の「鑑定士」としての本能が、何重にも封じられた記憶の蓋を無理やりこじ開けようとしている。
けれど、今はその正体を突き止めるよりも、目の前の家族を救わなければならない。
今、ミリアムの頭の中には、冷徹な方程式が導き出した、一つの明確な答えがあった。
急に倒れ込みそうになったミリアムを支え心配そうな顔をしているナタンに言う。
「ねえナタン、例えばあなたが大量に『他人が触ったら危険なもの』を捨てなければいけないとしたら、どうする?」
ミリアムの問いに、ナタンは腕を組んで、職人の思考で考え込んだ。
「どうって……穴を掘って埋めるのは時間がかかるし、湖に捨てたら魚が死んで、すぐに見つかってしまう。……やっぱり、焼くんじゃないかな? 完全に灰にしてしまえば、もう誰にも、その毒が及ぶことはないからね」
これで全てのピースは揃った。
ミリアムは、ナタンの肩を強く掴んだ。
「お願いがあるの。これから私が言う通りに、全力で協力してくれる?」
ナタンは、少し興奮し、どこか恐ろしい覚悟を決めたような姉を、わけもわからず不安そうな瞳で見つめていた。
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朗読版はyoutubeにあります。
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