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第1部1 鉄の記憶、黄金の契約②

市から離れた、ガリラヤの喧騒が砂塵の向こう側に霞んで見える小高い丘。足元には、ローマの支配下で喘ぎながらも、強欲に、そして懸命に生きる人々の毒々しい活気が広がっていた。

「ヨシュア……あなた、本当は恐ろしい人だったのね」

ミリアムは彼から数歩距離を置き、警戒を解かずに言った。しかし、ヨシュアは傷ついたふりさえせず、ただ無垢な子供のように首を傾げた。

「僕が恐ろしい? まさか。真に畏るべきは、この時代の歪みを正し、人々を真理へと導くヨカナン先生、ただお一人さ」

洗礼者ヨカナン、この地に住まう聖人。ヨシュアはその高弟であると口々の噂をしていた。あの岩のような男、ロシュまでもひざまづくほどに崇められていた。

ヨシュアは、まるで古い詩編を口ずさむように続けた。

「見てごらん、この街に溢れる人々を。彼らユダヤの民は今、自分たちの形を失っている。国を奪われ、異邦の王に跪かされ、自分たちが何者であるかという誇り……アイデンティティの根幹さえも、砂のように指の間からこぼれ落ちている。ヨカナン先生は、そんな泥沼に沈む彼らの魂を呼び覚ます救世主になられるお方だ」

その瞳は、目の前の景色を通り越し、遥か数千年先の「約束の地」に建つ黄金の都を見つめているようだった。

「僕も同じさ。かつての僕は、この精緻すぎる世界の中で、自分がなぜ息をしているのか、その意味さえ分からなかった。だが今は違う。僕は先生のために産まれ、先生のために死ぬ。そのためだけに、この世界に存在することを許されているんだよ」

ヨシュアは黄金の瞳を猫のように細め、獲物の喉元を定めるような視線をミリアムに送った。

「そんな先生が、僕に『至高の試練パラダイム』を与えられた。」

「至高の試練?」

「そう。この地に隠された真実の奇跡を鑑定せよ、とね。」

ヨシュアが、まるで最上の蜜の味を思い出すように、うっとりと呟く。

「そう。それが先生の御ためになるのなら、僕は因果の鎖を幾千、幾万と繋ぎ合わせる。……けれどミリアム、僕には致命的な欠落があるんだ。僕には『奇跡』という概念が、どうしても理解できない」

ミリアムは戦慄と共に思い出す。あの夜、この少年がコップの水を一瞬で赤く染めた子供騙しの手品と、死者の蘇生という神の領域の奇跡を、全く同列に、乾いた口調で語ったことを。

(そうか、本当にこの人には分からないんだわ。私が、どうしてあの石像が涙を流したか、その種明かしが一瞬で分かったように、この人はどうすれば死者が蘇りるか、その因果のすべてを知りすぎている。しかし、その因果がなぜ一般の人に分からないのか、という『無知の苦しみ』が、彼には分からない。だから何が奇跡で、何が日常なのか、その境界線を描くことができないんだ……)

それは、人の理解が及ばぬはるか天空の視座を持つ、あまりにも純粋で、あまりにも孤独な怪物だった。

ヨシュアが、愛を乞う子供のような痛切さで言った。

「ねえ、だから、君の瞳が欲しいのさ。君の瞳を通して、僕はこの世界に満ちる『驚き』という色彩を見てみたいんだ」

「ごめんなさい……。私はあなたとは違う」

ミリアムは強い意志を込めて、ヨシュアの視線を撥ねつけた。

「私はあなたの力にはなれないわ。私は、自分が何者であるかを、誰よりも強く自覚している。私はベツアレムのミリアム。汗を流して火を操る鍛冶師カシウスの妹であり、あの子たちの誇り高き姉よ」

ヨシュアは、砕け散った氷の結晶を撒き散らすような、冷ややかで残酷な笑みを浮かべた。

「ナタンとサロメ、だったね。確かに、愛らしい子たちだ。……でもねミリアム。君は鑑定士だろう? 既に知っているはずだ。あの子たちは、数年前のある日、氏族長に連れられてきて、君の家の養子になっただけの余所者だ。君とは一滴の血も繋がっていない。そして、君が実の兄だと盲信しようとしているカシウスでさえ……本当の兄ではないはずだ」

「……何が言いたいの?」

「ミリアム、血の繋がりというものは、君が望む以上に重く、逃れられない呪縛だ。なぜユダヤの民が、互いに争い、国を失い、異邦に散らされながらも、今日まで一つの『民族』として形を保ってこられたと思う? かつて十二あった氏族は、歴史の荒波に揉まれて霧散し、ユダとレビの血脈だけが形ばかりの王国を築いた。失われた十氏族は、君たちのような彷徨えるハビルーの祖となった。けれど、どれほど血塗られた歴史を繰り返そうとも、民が今ここに集っているのは、ひとえに『血』が成せる業だ」

ヨシュアは、遠くの砂地で無邪気に遊ぶサロメたちの背中を、鎌のような視線で指し示した。

「もし、あの子たちが君を見なくなり、その愛情を別の誰かに向けたとしても……君は、血の一滴も繋がらないあの子たちを愛し続けることができるかい? 打算もなく、見返りもない、剥き出しの孤独に立たされた時、君を支えるのは『家族』という脆い幻想かな? それとも――君の中に眠る、ベツアレムの真実の血かな?」

天使のような声で囁かれる悪魔の予言に、ミリアムの思考は麻痺し、足元の地面が揺らぐような錯覚に陥っていた。その時だった。

「兄様! 見て、お母様がいるよ!」

静寂を切り裂いたのは、サロメの、歓喜に震える弾んだ声だった。

見ると、サロメが何かに強く導かれるように、市の喧騒を逃れて不気味な路地の奥へと、弾かれたように走り出している。その小さな背中は、目に見えない糸で乱暴に引かれているかのようだった。

「サロメ! 待て! 戻るんだ!」

ナタンがその後を必死に追いかける。ミリアムは、内臓がせり上がるような激しい悪寒を感じた。

(あんなに幼い子が一人で迷子になれば、人買いに攫われ、二度と太陽の下へは戻れない……!)

一体、何が起こったというのか。考える間もなく、ミリアムも二人を追って、闇が凝縮されたような路地へと飛び込んだ。

そこは市の外れ、石造りの高い壁に囲まれ、日光も届かぬ薄暗い行き止まりだった。

湿った石畳の匂いと、腐った果実のような発酵臭が鼻を突く。どん詰まりの壁を前に、泣きべそをかくサロメと、彼女の小さな肩を強く抱きしめて立っているナタンがいた。

その姿を視界に捉え、ミリアムは膝の力が抜けるほどの、暴力的な安堵を覚える。

「ダメじゃない、サロメ! 一人でどこかへ行っちゃったら、姉様がいつも言っているでしょう?」

ミリアムは冷たい地面に膝をつき、サロメと視線を合わせようと必死に叱りつけた。しかし、サロメの反応は、ミリアムの心を粉々に打ち砕くものだった。

「……だって、本当に母様がいたの。私、母様に会いたくて……!」

背筋に冷たい刃を当てられたような戦慄が走る。サロメの母親は、彼女が物心つく前に、飢えと病でこの世を去っている。一体、この無垢な子は何を見たというのか。

ミリアムが震える手を差し出した、その時だった。サロメはあからさまに、その手を無意識の忌避感と共に避けた。そして、育ての親であるミリアムではなく、血を分けた唯一の肉親であるナタンの腰に、獣のような必死さでしがみついたのだ。

「ねえ、兄様……私、母様に会いたい。お願い、母様を探してよ……!」

困り果てたように、けれどしっかりと、守るべき唯一の家族として妹を抱きしめるナタン。

その光景を見て、ミリアムは指先から魂までが凍りつくような感覚に襲われた。

あれほど自分を慕い、夜ごと自分の腕の中で眠っていたサロメが、ただ一度「実の母」の幻影を見ただけで、昨日までの自分の献身を忘れ、見向きもしなくなった。

ヨシュアが宣告した「血の繋がり」という残酷な真実が、まさに今、目の前で残酷な喜劇として証明されてしまったのだ。

「ねえ、ミリアム。ここはね、『死者が出る路地』と呼ばれているんだ」

いつの間にか背後に立っていたヨシュアが、死神のような静かさで囁いた。

「ここではね、この子のように、多くの者がいなくなった愛する者の姿を見ている。……そして、そのまま幻を追って、帰ってこなくなる者もいる。ねえ、これは『奇跡』かな? 君なら、その正体がわかるかい、ミリアム」

ヨシュアの黄金の瞳が、薄暗い路地の闇の中で、獲物を捕らえた獣のように、冷たく、怪しく輝いていた。

* * *

その夜、天幕の中は、外の砂漠の風音が嘘のように静まり返っていた。

サロメは泣き疲れ、ひどい熱を出して、ミリアムの膝ではなく、ナタンが自分の上着を敷いて作った古布の上で、怯えるような小さな寝息を立てている。その頬にはまだ、幻の母を追いかけた時の乾かない涙の跡が、月の光に濡れていた。

ナタンはサロメの傍らにじっと座り、時折、その小さな頭を愛おしそうに撫でている。その手つきは、まぎれもなく同じ血を分けた兄のものだった。

ナタンが顔を上げ、天幕の隅の暗がりに立ち尽くすミリアムと目が合う。彼は気まずそうに、けれど精一杯の、優しさを込めて微笑んだ。

「……ごめんね、ミリアム。サロメには悪気はないんだ。ただ、急に思い出して、心が追いつかずに混乱しただけなんだよ」

優しいナタン。彼はいつだってミリアムを気遣い、この家という、今にも崩れそうな砂の城の綻びを繕おうとしてくれる。

けれど、彼が口にした「ミリアム」という、親愛を削ぎ落とした名前だけの呼びかけ。そして、妹を自分から庇うために放たれた「悪気はない」という免罪の言葉。それが今のミリアムには、自分を一族の部外者として疎外する、残酷な懇願に聞こえてしまった。

「……やめて」

ミリアムの声が、夜の冷気に震える。

「そんな他人行儀な言い方、しないで。ナタン、お願い……いつものように『アハティ(僕の姉様)』って呼んでよ」

すがるようなミリアムの瞳に、ナタンは一瞬だけ、深い戸惑いと困惑の色を見せた。ヨシュアが流し込んだ「血」という名の毒が、彼ら二人の間にある透明な、けれど強固な壁を、ミリアムの目にだけ可視化させていた。

ナタンは居住まいを正し、ミリアムの傷ついた心を癒やすために、彼が知る限り最も誠実で、最も深い敬愛を込めた呼び方を選んだ。それは、彼がミリアムを「一族の主」として認めようとする、決意の証でもあった。

「……そうだね。僕の愛しい『ミ・アハト・イェドゥダ(我が最愛なる姉上)』」

それは、かつて高貴な氏族が、一族の誇りである年長の女性に捧げた、畏敬を伴う最大級の尊称だった。

「僕たちが今こうして飢えずに生きていられるのは、全部あなたのおかげだ。……僕の姉様。あなたこそが、ベツアレムの一族の魂だよ」

ナタンの言葉は、本来なら、ミリアムを暗闇から救い上げるはずのものだった。

しかし、その美しすぎる敬称は、今の彼女にはかえって「血の壁」を強調する儀礼のように響いた。そこには、昨日までのように、甘える弟が自分のスカートに顔を埋めて無邪気に呼んでいた「お姉ちゃん」という、泥臭くも愛おしい響きを見出すことはできなかった。

あの夢の意味、自分の中の底なしの穴、その正体をようやく悟る。

(ああ、やっぱり……。私は、どこまで行っても一人なのね)

* * *

その夜、ミリアムは深い眠りの底で、久しぶりに「母」と再会した。

それは最近彼女を悩ませていた、あの「得体の知れない誰かの背中」の夢ではない。もっと優しく、陽光に透ける清潔なリネンのように柔らかな、本物の母の記憶だった。

「ねえ、お願い……私の大事な宝物」

母は、ミリアムの幼い頭を慈しむように何度も撫でた。その手のひらは家事の煤で汚れていたけれど、どんな香油よりも芳しく、世界で一番温かかった。

「そんなに悲しい顔をしないで。あなたは私の光。あなたの笑顔がなければ、私の世界は曇ってしまうわ」

母は腰に下げていた銀のポマンダーを外し、ミリアムの小さな手のひらに握らせた。緻密な透かし彫りの銀細工が、月の光を反射して、まるで生きているかのように白く輝いている。

「これは、私がとても大事な人から貰った宝物。だから、私の最も大事なあなたに持っていて欲しいの。忘れないで……いつでも、私があなたを愛していることを」

* * *

「……お母様!」

ミリアムは飛び起きた。

反射的に自分の手のひらを見る。けれど、そこには寝汗をかいた自分の細い指があるだけで、冷たくて美しい銀の感触は、どこにもなかった。

そうだ、あの銀の籠。

母が非業の死を遂げたあの混乱の夜か、あるいは砂漠を死に物狂いで彷徨っていたいつの日か。ミリアムは、母から託された唯一の絆を、どこかで失くしてしまったのだ。

「どこへ行ったの……どこへ……」

天幕の隅、古い荷物の中を必死に探る。けれど、いくら探しても、あの透かし彫りの籠は見つからない。自分は母に愛されていた。母は自分を「光」と呼んでくれた。その唯一の物的証拠が、今の彼女の手元には欠けていた。

表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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