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第1部 1 鉄の記憶、黄金の契約①

誰かの背中におぶわれている。

視界は地面に近い場所で低く、歩みに合わせた揺れ方は、ゆったりとした舟の上のようでいて、どこか岩のような頼もしさがあった。

幼いミリアムの頬に触れるのは、職人の厳しい仕事で鍛え上げられ、幾多の火傷の痕と煤が刻み込まれた、ごつごつとした皮膚だ。けれど、それはミリアムにとって世界でこの上なく温かくて大きな背中だった。

ミリアムはその首筋に小さな顔を埋め、汗と鉄の入り混じった匂いを吸い込みながら、弾むような声で何度も呼びかける。

「ねえ、ねえ……!」

大好きでたまらないその人は、愛しげに喉を鳴らして何かを言いかけて、ゆっくりとこちらを振り返る。逆光の中で、そのかおがゆっくりとこちらを向く。唇が動き、慈しむような言葉が紡がれようとする。

けれど、その瞬間に視界を覆うのは、地を這うような赤茶けた砂嵐の轟音ばかりだった。幼い耳を打つ無慈悲な風の音が、大切な言葉を意味として成す前に、粉々に霧散させてしまう。

ただ、その人物の体温が遠ざかる刹那、ある「香り」が鼻腔の奥深くに突き刺さった。

それは甘く、重く、どこか抽出されたばかりの金属の冷たさを孕んだ匂い。

ミリアムの魂の最も深い場所に、消えない刻印を捺す宿命の匂いだった。

* * *

「……っ」

天幕の継ぎ目から漏れ出した、針のように鋭い朝陽の矢に射抜かれ、ミリアムは目を開けた。

意識の覚醒と共に、睫毛がひどく重く感じる。指先で頬をなぞれば、一夜のうちに流された涙の跡が、薄い塩の膜となってカサカサと乾いていた。

「また、あの夢だ……」

重力に引き戻された瞬間、あんなに鮮明だった背中の確かな感触も、振り返ろうとした相手の輪郭さえも、指の間を音もなくすり抜ける砂時計の砂のように、意識の深淵へとこぼれ落ちていく。

ただ、あの「香り」の残像だけが、喉の奥を焼くような切なさと共に、いつまでも鼻の奥に、執拗に居座り続けていた。

あの夢を見るようになった理由は、自分でも痛いほどに自覚している。

あの夜。ガリラヤ湖畔の冷たい静寂の中で、真昼の月のような、慈悲と残酷が同居する瞳を持つ少年――ヨシュアに出会ってからだ。

彼がミリアムの中に眠る「鑑定士」としての野生に近い本能を、あまりにも乱暴に呼び覚ました。そのせいで、日常という平穏の下に厳重に封じ込めていた記憶の蓋が、軋んだ音を立てて狂い始めているのだ。

* * *

ベツアレムの一族。

かつてモーセと共に神の意志を形にするべく、聖なる幕屋と黄金の什器を造り上げた伝説の職人、ベツアレムの名を冠する彼ら。かつての栄光は砂塵に消え、今や国を追われ、彫金の火種を守りながら各地を渡り歩く、流浪のハビルーへと身をやつしていた。

ミリアムが天幕の重い布を捲って外へ出ると、そこには砂の匂いのする、けれど愛おしい「日常」が広がっていた。

低い角度から差し込む太陽が、舞い上がる砂埃を銀の粉のように白く照らしている。その下で、兄のカシウスと弟のナタンが、既に汗を流しながら炉の火を操っていた。

ふいごが「シュゴッ、シュゴッ」と規則正しく吐き出す熱い呼気。赤く焼けた青銅を叩く、乾いた、それでいて芯の通った鉄槌の音。

天幕の隅で、乾燥させた薬草を慣れた手つきで仕分けていた末妹のサロメが、ミリアムの姿を見つけるなり、羽化したばかりの蝶が舞うような足取りで駆け寄ってきた。

「おはようございます、姉様!」

「おはよう、私の可愛いケタンタ(おチビちゃん)」

サロメの無垢な瞳に宿る朝の光と、鼻をくすぐる、石の竈で炊かれた粥の香ばしい匂い。駆け寄ってきたサロメを、ミリアムは壊れ物を扱うように優しく受け止めた。

夢の中に漂っていた、あの重く、死を予感させるような懐かしい香りは、サロメの柔らかな髪から漂う陽だまりのような匂いにかき消されていく。

「姉様、お目々が赤いよ。怖い夢見た?」

サロメがミリアムの顔を覗き込み、小さな、けれど驚くほど柔らかな手のひらで彼女の頬をそっと包み込む。その無防備な優しさは、どんな精緻な鑑定の技術や理論よりも深く、ミリアムの張り詰めた心を解きほぐした。

「……大丈夫よ。ただ、少しだけ懐かしい匂いの夢を見ただけ」

炉の方では、カシウスが煤けた太い腕を振り上げ、「おい、おチビ! 職人の朝は早いぞ、水を運んでくれ!」と、地を這うような野太い声で陽気に叫んでいた。ミリアムはサロメの背中を軽く叩いて送り出すと、自分もまた、戦場にも似た一日を始めるために立ち上がった。

ハラシ(職人)の名を継ぐこのキャラバンにおいて、朝の静寂は、金属が赤く焼かれる前の、冷たい鋼のような束の間の休息に過ぎない。

カシウスが力強く槌を振るい、次男のナタンが繊細な手つきでふいごの風を送り、火を育てる。そして、ミリアム。彼女はこの家の「心臓」であり、「秤」だった。

竈を守る母の役割を担い、市場では貪欲な商人たちと互角以上に渡り合う交渉人。さらに、複雑な銀の重さを一分単位で計上する帳簿係でもある。だが、今朝の彼女は、羊皮紙に記された数字よりも、自分の指先の、微かな震えをじっと見つめていた。

(あの時、あの子に触れられた場所が……)

あの暗がりで、ヨシュアに不意に手を取られた。

雪のように白く、命の拍動を感じさせないほどに冷徹な指先。ただそれだけのことなのに、その皮膚の感覚が、まるで赤く焼けた火印を捺されたかのように、いつまでも引かない。

彼に促されるまま、偽金の正体を暴いたあの瞬間。

ミリアムの中で、何も知らずに過ぎ去るはずだった安穏とした「女の人生」が死んだ。代わりに、物事の裏側に潜む醜悪な真実を暴き出さずにはいられない「鑑定士」としての業が、呪いのように目覚めてしまったのだ。

「――ミリアム、おい、ミリアム!」

鼓膜を揺らす怒号に近い声に、ミリアムは肩を大きく跳ねさせた。

カシウスがふいごの手を止め、額から流れる汗を乱暴に拭いながら、煤で汚れた太い眉を寄せて彼女を覗き込んでいた。

「どうしたんだ。朝からずっと、魂を抜かれたように上の空じゃないか。顔も赤いぞ。砂漠の熱風ハムシンにでもやられたか? 熱があるんじゃないのか」

カシウスが心底心配そうに、槌を握り続けて節くれだった大きな手を、ミリアムの額へと伸ばす。その瞬間、ミリアムの脳裏に、ヨシュアのあの冷たくも澄み切った、死神のような指先がフラッシュバックした。

「……っ」

反射的に、首を振ってその手を避けてしまう。カシウスの厚い手が、行き場を失って虚空に止まった。

「……悪い」

カシウスがバツが悪そうに、ゆっくりと大きな手を引っ込める。

「俺の手は汚いからな。煤と油にまみれた手じゃ、お前の綺麗な顔には触れねえよ」

自嘲気味に笑うカシウスだが、その目は笑っていなかった。

「だが、本当におかしいぞ、ミリアム。ここ数日のお前は、何か恐ろしい化け物でも見ているような、ひどく嫌な目をしている。俺たちの知らないところで、何があった?」

ナタンもまた、ふいごの手を止めて、煤に汚れた顔で不安げに姉を見つめている。

ミリアムは自分の拒絶反応に、自分自身で激しく戸惑い、自己嫌悪の泥沼に沈み込みながらも、無理やり乾いた声を絞り出した。

「違うの、兄様。ごめんなさい。……ただ、少しだけ複雑な細工の算段をしていただけ。そうだ、香料がもう切れているんだったわ。市場へ買い出しに行ってくる」

ミリアムは逃げるように立ち上がり、サロメの小さな手を握った。

「おいでケタンタ、ナタンも一緒に行きましょう。重い香油の壺を買うかもしれないから、荷物持ちをお願いね」

* * *

市へと続く乾いた道すがら、サロメは大好きな姉様と兄様とのお出かけに小鳥のようにさえずり、ナタンはわざと滑稽な話題を振って、ミリアムの曇った顔を笑わせようと試みる。

その痛いほどの配慮こそが、今のミリアムには切なく、孤独を深めさせた。

市の入り口。そこには、数千年の風雨に耐えてきた古びた石造りの彫像が、守護神のように鎮座していた。それは「沈黙の工匠」として敬われる聖アザリアの姿だった。

「ねえ、姉様知ってる? この聖人像の、奇跡のお話」

ナタンが足を止め、像を見上げながら言った。

「なあに、それ?」

「伝承ではね、アザリアはソロモン王の神殿で、至聖所を飾る黄金の門を造った伝説の職人だったと言われている。けれど、あまりに完璧で、あまりに美しい門を完成させたとき、彼は自分の技が神の領域を侵してしまったことを恐れた。神を畏怖した彼は、自ら金槌で自分の指を全て折り、二度と物を作らぬよう、祈りの中で自ら石になったと言われているんだ」

サロメが息を呑み、彫像の裾に触れる。

「そして今でも、この街で『偽り』が蔓延したり、職人の誇りが失われようとする不吉な記念日になると、彼は石の瞳から涙を流して、僕たちに警告をくれるんだよ」

ナタンが指さす先、確かに彫像の煤けた頬が、一筋の湿った線を描いて濡れていた。

周囲には、その「奇跡」を拝もうと、多くの巡礼者や商人が膝をつき、熱心に祈りを捧げている。

「不思議だよね。どうして石が涙を流すんだろう。やっぱり、この像には神様の御心が宿っているのかな?」

ミリアムは立ち止まり、祈る群衆の背後から、鋭い「鑑定士」の視線でその「涙」の軌跡を冷徹になぞった。

彫像の質感、石の種類、そして周囲の湿度。彼女の脳内で、瞬時にその因果関係が計算される。

「……ナタン、像の裏側を見て。台座の接合部に、大きなヒビがあるでしょう?」

ミリアムの声は、熱狂する群衆の中で、そこだけ温度が低いかのように響いた。

「この像は多孔質の石灰岩でできているわ。昨夜、このあたりは霧が非常に深かった。スポンジのような石が夜の間に湿気をたっぷりと吸い込み、そして今、太陽が昇って表面が急速に温められた。そうなれば、内部に閉じ込められた水分が膨張し、最も脆い目尻の彫り込みから漏れ出すのは、物理的な必然よ」

群衆の祈りの声を切り裂くように、ミリアムは断言した。

「これは神の嘆きでも、警告でもない。ただの石の呼吸。ただの自然現象に過ぎないわ」

ナタンは驚きと、どこか気圧されたような声を上げた。

「本当だ! ヒビから水が染み出してる……。姉様はやっぱり凄いよ。何百人もの大人が『奇跡だ』と跪いているのに、姉様の目にかかれば、それはただの仕掛けになっちゃうんだから」

その称賛の声に、ミリアムは少し複雑な感情を抱く。その時だった

「――さすがだね、ミリアム」

背後からかけられたその声は、真夏の陽光さえも凍てつかせるような冷ややかな透明感を孕んでいた。

振り返らなくても分かった。心臓の拍動が不自然に速まり、指先が不規則な痙攣を始める。

「……あなた」

ヨシュアは、汚れ一つない真っ白なフードを優雅に跳ね上げた。眩しい太陽の下に流れ出した黄金の髪は、まるで精錬されたばかりの純金の糸のように輝き、その奥に潜む真昼の月のような瞳が、ミリアムの存在そのものを射抜いた。

「物の道理を見極めるその瞳。人々が奇跡と呼んで跪く現象の裏側に、石のヒビと水分の膨張という無機質な真実を見出す冷徹さ。……やっぱり、君は僕が求めていた本物の鑑定士だね。ねえ、少し時間をくれないか。ゆっくり話をしようじゃないか、僕のこと。そして、君自身のことをね」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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