プロローグ 銀貨の泣き声②
陽光さえも届かぬ、暗く湿った地底の牢獄。鼻を突くカビの臭いと、絶え間なく滴る水の音だけが支配するその空間に、数人の男たちが冷淡な壁となって立っていた。
「またお前か。しつこい女だ。何の用だ」
ロシュの制止を突き飛ばすようにして、ミリアムは鉄格子の前へ詰め寄った。カシウスがゆっくりと顔を上げた。
「ミリアムか? すまん、こんなことになってしまって」
中に座り込み、うなだれるカシウス。その顔は白く青ざめ、殴られたような跡もある。いつもミリアムを守ってくれる強く優しい兄。まさかこんな姿を見ることになるなんて。
「謝らないで、敬愛するカシウス兄様。あなたの誠実さは私が一番知っています」
牢屋の中の兄の手を、ミリアムはぎゅっと握りしめる。
「だから教えて、兄様。今日、あのアントニオと一緒に酒を酌み交わすつもりだったのね?」
「……ああ。あいつとは古い付き合いだ。別のキャラバンで香料を扱っていて、久しぶりの再会だった。だから、二人で酒でも飲もうって話になったんだが……俺が着いた時には、あいつはもう、冷たくなっていた。一体、誰が、何のために……」
「大事なことだからよく思い出して。あの場にあったカップは、兄様が用意したものじゃないわね? 自分でコインを入れたりもしていない」
カシウスは困惑し、記憶を辿るように目を泳がせた。
「カップ? ……ああ、あそこに一つだけ、まるで俺を待っていたかのように置かれていた。妙だとは思ったんだ。だが死体を見つけて動転して……そんな時に、コインなんて入れる余裕があるわけないだろう」
ミリアムの背筋を、冷たい戦慄が走り抜けた。やはり。これは「酒を酌み交わす約束」などではない。これは、誰かが用意した「儀式」であり、「告発」なのだ。
「……誰かに殺されたんだわ。それも、この街の根を腐らせるような、醜い欲望の犠牲にね」
ミリアムの言葉に、ロシュは粗野な笑いを漏らした。
「はっ! 必死だな、小娘。だが、その哀れな言い訳が通用するのは身内だけだ。目撃者も、動かぬ死体も、逃げようとした貴様の兄もここにいる。これが神の審判でなくて何だと言うのだ」
「いいえ、違うわ。目撃したのは『死体の側にいた兄』であって、『殺害の瞬間』ではない! あなたたちは、自分の見たい現実を正義と呼んでいるだけよ!」
ミリアムは震える手で木のコップを掲げ、周囲を威圧するように睨みつけた。
「これを見て! このデナリ銀貨……もし本物の銀なら、もっと潔く、深く沈むはずよ。でもこのコインは、まるで自分の嘘に怯えるようにワインの中でふらついている。比重が軽すぎるのよ!」
*
ミリアムは木のカップを高く掲げ、集まった男たちの視線を釘付けにした。その瞳には、鑑定士としての誇りと、兄を想う執念が宿っている。
「これは錫と鉛を混ぜ、表面だけを薄っぺらな銀で塗り固めた『偽金』よ。アントニオはこれを見つけ、兄様に助けを求めようとした。……彼は、この街の平和を、神聖な経済を守ろうとして、闇に消されたのよ!」
鋭い指摘。物理的な根拠。自警団の男たちの間に、さざ波のような動揺が広がった。「偽金だと……?」「この聖なる地の価値を汚している輩がいるというのか」
だが、そのざわめきを切り裂くように、ロシュの怒号が響き渡った。
「惑わされるな、同胞よ! 我らの中に、そのような卑劣な罪を犯す者などいはしない。これは放浪者の娘が、血を分けた兄を救うために吐いた浅知恵だ。言葉の魔術に耳を貸すな!」
ロシュの放つ圧倒的な威圧感が、真実を認めようとしていた男たちの口を強引に閉ざしていく。カシウスを救うための唯一の糸口が、無骨な権力によって塗り潰されようとしたその時――。
「……相変わらず、岩の頭は硬いね。まるで、自分の正義という殻に閉じこもって、外の光を拒絶している石像のようだ」
*
声の主は先程の少年だった。月明かりに照らされ、天幕の影から悠然と姿を現したその美貌は、夜の闇の中でさえ発光しているかのように見えた。
ミリアムは息を呑む。(彼は……天使? それとも、魔物なの?)
「ヨシュア様……! あなた様のような気高き御方が、一体なぜこのような泥を啜るような場所へ?」
つい先程まで傲慢の塊だったロシュの声が、目に見えて震え、彼は恭しく地に伏した。ヨシュアと呼ばれた少年は、ロシュの問いには一瞥もくれず、ただ真っ直ぐにミリアムを見つめた。その視線は、彼女の衣服や顔の造作を見ているのではない。彼女の魂の奥底にある、冷徹な「鑑定士としての目」を、楽しげに、残酷に値踏みしている。
「面白いね、君。その濁ったワインの底から、世界の不純物を……人間の魂の濁りをすくい出すなんて。その目は、僕がずっと探していた『輝き』を秘めている」
ヨシュアの一言が、牢獄の湿った空気を一瞬で凍りつかせた。
「面白いものを見せてもらったお礼だよ。君のその鑑定眼に、ふさわしい舞台を授けてあげよう」
ヨシュアは優雅な、ダンスでも踊るような足取りでミリアムに歩み寄ると、彼女が持っていた木のカップを、断る隙も与えずひょいと取り上げた。
「僕もまた、その『不純物』を見つける手伝いをしてあげるよ。……ただし、僕のやり方でね」
彼は、偽金の汚れが沈殿した泥のようなワインを、躊躇いもなく一気に煽った。喉を鳴らして飲み干すと、不快そうに唇を歪める。
「……酷い味だ。神殿の祈りよりも退屈で、嘘に満ちている。誰か、早急にこれを清めてくれるかい?汚れた器には、清潔な水が必要だ」
少年の神々しい命令に抗える者などいなかった。言葉のままに、空になったカップへと水がなみなみと注がれる。
ヨシュアが白皙の指先でカップの縁を、まるで愛おしい誰かの肌に触れるように、そっと撫でた。その瞬間だった。
なみなみと湛えられた水が、内側から発光するように燃え上がる鮮紅色の液体へと変貌した。あたりには、この世の花園には存在し得ないような、芳醇で、それでいて脳を直接麻痺させるような毒々しい香りが立ち込める。
「……あ。水が、一瞬で最上のワインに……」
ナタンが呆然と声を漏らし、自警団の男たちは「カナの奇跡か」「主の御業だ」と口々に叫び、震えながらその場に跪いた。
「これは『アムリタ』。人の心の奥底にある、真実と偽りを峻別する神の血だ。真実を語る者の口には、天上の花園を思わせる至高の美酒となるだろう。だが、一度でも偽りを語り、魂を汚した者の口には――そう、はらわたを焼き焦がし、のたうち回らせる『猛毒』に変わる。……さあ、誰から行く? 神の裁きを望んだのは、君たちの方だろう?」
静まり返った牢獄に、ヨシュアの声だけが冷酷に響く。彼はまず、鉄格子の向こうで呆然としているカシウスにカップを差し出した。
「まずは、君からだ。身の潔白を、その命で証明してみせるといい。罪人候補」
*
カシウスは、眼前の少年の人知を超えた圧力に圧されながらも、迷うことなくカップを受け取り、喉を鳴らして飲み下した。
「……清らかな、雪解け水のようだ。毒など、微塵も感じない」
ヨシュアは満足げに頷き、次にロシュへ、そしてその部下たちへと順々にカップを回していく。男たちは恐怖に歯を鳴らし、神の名を呟きながら、自らの潔白を証明するためにその赤き液体を口にした。だが、列の終わりにいた一人の男にカップが手渡された時。夜の静寂が、男の歯の根が合わないガタガタという震えと、荒い吐息に支配された。その男は、ロシュが最も信頼を寄せ、弟のように可愛がっていた右腕の男だった。
「どうしたんだい? 早く飲まないと、聖なるワインが腐ってしまうよ」
ヨシュアの美しい顔が、男の目の前、鼻先が触れそうな距離まで近づく。その金色の瞳には、男の隠し事をすべて引き摺り出し、解体しようとする鋭利な光が宿っていた。
「できない……! 許してくれ、俺には……俺にはこの酒を口にすることはできないんだ! 命だけは、命だけは助けてくれ!」
男は叫び声を上げ、逃げるようにその場に崩れ落ちた。カップは地面に転がり、こぼれ出たワインが、まるで告発者の血のように石畳を赤く染めていく。
「俺が、俺がやったんだ! アントニオが偽金の出処を突き止めやがった……。あいつを生かしておけば、俺たちは全員破滅だったんだ! だから、カシウスが来るのを待ち伏せて、あいつの背中を……。悪かった、許してくれ、俺だって、家族を食わせるために必死だったんだ!」
男の醜い懺悔が、牢獄の闇に響き渡った。
「だが、聞いてくれ! 俺はユダヤの誇りを守るためにやったんだ!」
男はなおも、血走った目で周囲を唆すように叫んだ。
「あのアントニオはローマの間者だ! 我らが聖なるガリラヤを、異邦人の王に売り飛ばそうとする裏切り者だ! 俺の罪は、同胞を想うあまりの過ちだ。そうだろ、ロシュ? 俺を裁けば、ユダヤの正義が死ぬんだぞ!」
その必死の訴えに、自警団の男たちの間に一瞬迷いが生じる。「愛国」と「信仰」。この地で最も強力な免罪符が、男の口から突きつけられたからだ。だが、ヨシュアは楽しげに、肩を揺らして笑った。彼は地面に落ちていた、あの「比重の軽い偽金」を細い指先で拾い上げ、男の目の前に差し出した。
「ねえ、このコインをよく見てごらん。ここに刻まれているのは、誰の横顔だい? 君が守ろうとした『神』の姿かい?」
「……カエサルだ」
「そうだろう。君はカエサルの持ち物(銀貨)を掠め取り、その価値を偽り、自分の懐を肥やすことだけに心血を注いだ。その汚れた口で、よくもまあ『ユダヤの誇り』などという言葉を吐けたものだ。君が守ろうとしたのは、神でも正義でもない。ただの、自分自身の醜い欲望だ。……救いようのない、つまらない喜劇だね」
男の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼が掲げた「誇り」という名の盾は、ヨシュアが突きつけた一枚の偽金によって、跡形もなく粉砕された。ヨシュアは興味を失ったように男から視線を外すと、傍らに立つロシュへと向き直った。
「ねえ、ロシュ。一つ教えてよ。カエサルの銀貨がこれほどまでに流通するこの地は、本当にローマの領土かい?」
ロシュは苦い砂を噛むような顔で、絞り出すように答えた。
「……いえ。違います。ここは、我らが神が約束された地です。ローマの軍靴に汚されてはいても、魂は我らのものです」
「そうだろう。ならば」
ヨシュアは、ゴミでも捨てるかのように偽金を放り投げた。コインは泥の中に沈み、価値を失う。
「その罪人は、君たちの法で裁くといい。君たちの世界の不純物は、君たちの手で掃除するんだ。不純物の処理を僕に任せようなんて、図々しいにもほどがあるよ」
ロシュは深く頭を下げた。もはや、カシウスを捕らえ続ける正当性は、この場に塵一つ残っていなかった。
* * *
牢獄の喧騒は去り、夜の静寂が戻ってきた。ナタンは疲れ果てたカシウスに肩を貸し、天幕へと連れ帰った。残されたのは、鑑定士の少女と金髪の少年。そして、その足元に転がる、布をかけられた物言わぬ死体だけだ。
ミリアムが先に口を開いた。その声は微かに震えていたが、瞳は決して逸らさなかった。
「……お礼を言うわ。あなたの介入がなければ、兄様は明日、十字架にかけられていたかもしれない。感謝はしている。……例え、使われたトリックがどんなにチープなものだったとしても、ね」
ヨシュアが意外そうに、面白そうに眉を上げた。ミリアムは淡々と、自分の観察結果を突きつける。
「何のことはないわ。あなたは隙を見て、カップの中に高度な反応剤を投げ入れた。それが錫と反応して、ワインの色を変質させた……。いいえ、変質したように見せただけよ。後は香料で香りを誤魔化した。暗闇と恐怖に怯える男たちの目は、あなたのその傲慢なまでの美貌に眩まされただけだわ」
ミリアムは震える指先を隠すように拳を握り、目の前の少年を真っ向から見据えた。
「鑑定士を欺けると思わないで。人の心を弄ぶような、そんな卑劣な真似……私は、絶対に認めないわよ」
「あはは! 面白い、本当に君は面白い! 僕の『演出』を見抜いたのは、この地で君が初めてだよ。……でも、手品で救えるのは、まだ息のある者だけなんだ」
彼は笑いながら、一歩、横たわる死体へと歩み寄った。
「じゃあ、これはどうかな? 君の鑑定眼で、これの『種明かし』をしてみてよ」
*
ヨシュアが死体の上にかけられた布の端を掴み、そっと剥がす。その瞬間、ミリアムの視界が白く染まった。目も眩むような光の奔流が、死体そのものから溢れ出したように感じたのだ。夜の闇が消え去り、そこには昼間の太陽よりも鋭い「純粋な理」が顕現する。
「……え?」
しばらくして光が収まった時、静寂を破ったのは、低く、湿った、それでいて確かな「うめき声」だった。
「嘘……あなた、一体、何をしたの? 何を……!」
ミリアムは戦慄し、後ずさった。死後数時間が経過していたはずのアントニオが、喘ぐように肺に空気を送り込み、目を見開いていたのだ。背中を無残に切り裂いていたはずの深い傷痕は、跡形もなく消え去り、そこには生まれたての赤ん坊のような滑らかな肌が戻っていた。
「別に何も。さっきのワインと一緒だよ」
ヨシュアは、まるで壊れた玩具を直したかのように、無造作に言った。
「因果の糸を、少しだけ解いて結び直しただけ。この男が死んだという『不愉快な結果』から、刃物が届かなかった『過去』へとね。……不思議だね、君たちの世界では、こんな些細な数学的処理を『奇跡』と呼び、涙を流してひざまずくんだから」
蘇った男の激しい喘ぎ声だけが響む闇の中で、ヨシュアは至近距離まで顔を寄せ、ミリアムを凝視した。その瞳は、深海の底にある鏡のように滑らかで、彼女の驚愕と恐怖をただ冷たく映し出している。
「ねえ、君。名前はなんて言うの? 偽物の王女様」
「……ミリアムよ。それ以上は、一歩も近づかないで」
震える声を絞り出す。少年はその名を、極上のワインの味を確かめるように一度、口の中で転がした。
「ミリアム。……皆は僕のことを『1000の目のヨシュア』と呼ぶよ。世界に起きるすべての因果を、一点の曇りもなく見通す救い主だとね。……でもね、ミリアム。本当の僕は、何一つ見えていないんだ」
ヨシュアは、氷のような冷たさと、赤ん坊のような無垢さが同居した笑みを浮かべた。
「僕は、ただの盲のヨシュアさ。……世界が色彩を持たない冷徹な数字の羅列にしか見えない僕には、物語を映し出すための『光』が、あまりにも足りないんだ。だからねえ、お願いだ。ミリアム、君のその瞳を僕にくれないか?」
「私の……瞳を? 何を言っているの。あなたは、そんなことをして私に何の得があるの?」
ヨシュアが微笑む。
「代わりに僕は君の望む物をあげよう」
「あなたに私の願いがわかるというの?」
「わかるさ。君の心の奥底で、何が叫び、何を求めて泣いているのか。君の心には、底なしの穴が空いている。どんなに銀貨を積み上げても、どんなに真実を暴いても、決して埋まることのない欠落。孤独の果てに捨てられた『本物の誇り』の残骸が」
ヨシュアの指先が、ミリアムの胸元にそっと触れる。その瞬間、彼女の全身に冷たい電流が走った。
「僕なら、その穴を完璧に塞いで、君を『本物の王女』としてあげられる」
少年の背後に、広大な宇宙の暗闇が広がったように感じられた。
「どうだい、取引をしよう。君のその欠落した魂と引き換えに、僕のものになって。……僕の、この空っぽな世界を彩るための『瞳』になってよ、ミリアム」
底知れない闇の奥から響く、涼やかで残酷な誘惑。ミリアムは、自分が今、一生かかっても、あるいは死んでも抗えない「運命」という名の罠に足を踏み込んだことを悟った。
夜の底で、少女と少年の影がひとつに重なる。夜の闇は、どこまでも深く広がっていた。
プロローグ 銀貨の泣き声 了
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




