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プロローグ 銀貨の泣き声①

熱を帯びた夜風が、ヨルダン川の東から不毛な砂を運んでくる。

パレスチナ北部、ガリラヤ。

そこは、聖都エルサレムの厳格な空気とは無縁の、豊かな水と緑に恵まれた地だ。だが、ガリラヤ湖の盆地特有の、湿り気を帯びた重苦しい夜が、今は不気味に街を包み込んでいる。

ミリアムは粗末な天幕の隅で、今日手に入れたばかりの銀貨を机に並べていた。

油の尽きかけたランプの火がパチパチと爆ぜるたび、彼女の頬に深い陰影が刻まれる。

彼女はまず、一番端の一枚を指先で弾いた。

チィィィ、と高い金属音が闇に溶ける。彼女はこの地に流れ着いてからというもの、こうして一日の終わりに銀の「声」を聴くのが習慣になっていた。

「……いい声。不純物はないわ」

自分たちの一家が、砂塵に巻かれたキャラバンと共にこのガリラヤへ辿り着いてから、まだ日は浅い。

ベツアレルの末裔を名乗るカシウスの槌と、ミリアムの鑑定眼。その二つだけが、見知らぬ土地で「よそ者」として生きていくための唯一の武器だった。

二枚目の銀貨を取り上げ、コインの縁にある細かな刻み目をなぞる。

指先に伝わる冷ややかな重み。それはヘロデの圧政やローマの徴税に怯える日々の中で、自分という存在がこの世界に確かに「価値」として刻印されたことを確認する、唯一の安らかな儀式だった。

三枚目を、前歯で軽く噛んでみる。

もしこれが偽物なら、脆い鉛の味がするはずだ。けれど、噛みしめれば歯が折れるほどのこの確かな純度こそが、明日のパンと、幼いサロメの安眠を約束してくれる。

だが、その静寂は、乾いた夜気と天幕の布を引き裂くような叫び声によって破られた。

「姉様、姉様、ミリアム姉様はどこにいるの!?」

飛び込んできたのは弟のナタンだった。

「まあ、ナタンったら、一体どうしたっていうの。今サロメが寝たところなのよ、もう少し静かに……」

そこまで言い、ミリアムは彼の様子がおかしいことに気がつく。月光に照らされたナタンの顔は、死人のように青ざめていた。砂に足を取られながら走ってきたのだろう、衣の裾は汚れ、肩で荒い息をついている。ミリアムは弟の震える肩を抱き、強く支えてやった。

「私の小さなナタン、可哀想にこんなに震えて。心配はいらないわ。さあ、姉様に話してごらんなさい」

この哀れな弟を落ち着かせようと、甘やかすような、蕩けるような声で言う。しかし、震える声で彼が告げたのは、そんな慈愛に満ちた声に似つかわしくない、耳を疑うような凶報だった。

「大変なんだ姉様! 兄様、カシウス兄様が人を殺したって……マクダラへと続く路地で、自警団に捕まったんだ!」

最初は弟が何を言っているのかわからなかった。しかし次第に状況を飲み込み、ミリアムの表情も弟と同じものに変わっていく。

「そんなはずないわ!」

ミリアムの声は、夜の静寂を鋭く切り裂いた。握りしめた銀貨が手のひらに食い込み、皮が破れるほどの力がこもる。

「あの賢く、誰よりも誠実なカシウス兄様が、人を殺めるなんて……そんな汚泥を飲み込むような真似、天地がひっくり返ってもあり得ない。ナタン、私をそこへ連れて行って。今すぐに、その『嘘』を暴いてやるわ」

* * *

事件の現場には、すでに松明の煤煙が立ち込め、獣のような男たちが群がっていた。中心にいるのは、筋骨逞しい漁師上がりの男、ロシュ。網を引くことで鍛え上げられたその腕は、今や「異邦人や罪人から街を守る」という大義名分のもと、法を執行する棍棒を握っている。その姿はまさに「ペテロ」そのものだった。

「罪人は裁かれねばならん。我らが父祖の時代より、この地を清浄に保ってきた聖なる法に従ってな!」

ロシュの声は地鳴りのように響き、松明の火に照らされたその瞳には、容赦のない処断の光が宿っていた。

「見ろ、この男を! 救い主を待つ我らの同胞を、背後から卑怯に刺し殺したこの裏切り者を! こいつは明日、ティベリアのローマ守備隊へ突き出す。神を汚し、隣人を殺めた報いを、十字架の上でたっぷりと味わわせてやる。異論など、この私が一言も認めん!」

ロシュの背後で縛り上げられたカシウスは、埃にまみれながらも、ただ悔しげに唇を噛み締めていた。その瞳には絶望ではなく、理解しがたい不正に対する憤怒が宿っている。ミリアムは男たちの威圧をかいくぐり、地に伏した被害者の遺体へと歩み寄った。彼女の瞳は、肉親の危機に動揺する「妹」である以上に、物の本質を冷徹に見抜く「鑑定士」へと切り替わっていた。

「……おかしいわ。この傷、深すぎる」

ミリアムは死体の傍らに跪き、震える指先で死んだ商人アントニオの背中の傷をなぞった。

「兄様の剣は、旅路の護身用よ。重く、鈍く、ただ身を守るためだけに叩き鍛えられた鉄の塊。あんな不器用な刃で、まるで流れる水のように背骨の隙間を縫い、一太刀で命を刈り取るなんて……。そんな神業、あるいは悪魔の仕業、兄様にできるはずがない。これは、計算し尽くされた、あまりにも冷徹な殺意の跡よ」

「女の世迷言など聞き飽きた! 地獄へ行く前に、その口を閉じさせてやろうか」

ロシュの怒号が響く。ミリアムの確信は、男たちの狂熱にかき消されていった。ロシュの無骨な手下たちによって、カシウスは泥の中を引きずられていく。取り残されたのは、血の匂いと焦げた油の匂いが漂う路地裏に佇む、ミリアムとナタンだけだった。

「ねえ、ナタン。兄様はどうしてこんな夜更けに、こんな場所にいたの?」

ミリアムの問いに、ナタンは周囲の闇を怯えたように警戒しながら、ひどく声を潜めた。

「さあ……でも、夕餉の後に『昔馴染みに会う。大事な話があるんだ』って言って出ていったんだ」

「大事な話……」

ミリアムは、無残な死体が転がっていた場所のすぐ側に目を落とした。そこには、惨劇の血溜まりを避けるようにして、不自然なほど静かに、ひとつの木のコップが置かれていた。中には、安物の、しかし底が見えないほど色の濃い赤ワインが注がれている。

「一緒に飲むつもりだったのかしら?」

「そうかもしれないね。でも、おかしいよ姉様」

ナタンが怪訝そうに眉をひそめ、その簡素な器を指差した。

「酒を酌み交わすなら、どうしてカップは一つしかないんだろう? 兄様が持っていたのは、自分の革袋だけだったはずだよ」

ナタンの疑問はもっともだった。不吉な予感に胸を騒がせながら、ミリアムは膝をつき、そのコップを覗き込もうとした。その時だった。

「……そのワインの底にはね、死者の沈黙以上のものが沈んでいるよ」

背後から、鈴の音のように清らかで、しかし心臓を鷲掴みにするほど冷淡な声が響いた。

ミリアムは弾かれたように振り返った。そこには、月明かりをその身に凝縮したかのように、建物の屋根から重力を無視した軽やかさで降り立った一人の少年がいた。

夜の闇を塗り替えるような、輝く金色の髪。エルサレムの王宮に飾られたどの彫像よりも完成された美貌を持ち、その唇には、世界のすべてを見通し、嘲笑うような不敵な笑みを湛えている。

「誰……?」

ミリアムが問いかける間もなく、少年は猫のようなしなやかな足取りで近づき、彼女の肩越しにカップを指差した。その指先が通るたび、夜の空気が凍りつくような錯覚に陥る。

「面白いね、君。その濁ったワインの底から、世界の不純物をすくい出そうとしている。……いいかい、鑑定士。そのカップの中にあるのは、友情の証じゃない。それは『代価』だ。裏切りと欲望、そしてチープな偽善の重みさ」

少年はミリアムの耳元で、羽毛が触れるような軽やかさで、逃げ場を塞ぐように囁いた。

「よく見てごらん。ワインの澱みに、月光が不自然に跳ね返っている。……そこには、嘘つきの肖像が沈んでいるはずだよ」

ミリアムは少年の得体の知れない圧力に圧倒され、呼吸を忘れるほど動転しながらも、吸い寄せられるようにカップの中を凝視した。重苦しいワインの澱みの底に、月光を跳ね返す鈍い銀色の輝きが見える。

「……コインが沈んでいるわ」

少年は、獲物を見つけた猛禽のような目で満足げに目を細めた。

「さあ、行きなよ。君の兄様を救うための『証拠』はそこにある。……ただし、その真実をどう使うかは、君の魂の強さ次第だけどね」

彼女の頭の中で、バラバラだったピースが、冷たい金属の擦れる音を立てて繋がっていく。

「ナタン。このコインは、ただの捧げ物じゃない。これは、死者が最後に守ろうとした『真実』そのものよ」

確信を得て顔を上げたとき、すでに少年の姿はどこにもなかった。まるで最初から夜の幻影であったかのように、音もなく、匂いもなく、掻き消えている。

けれども、そんな不可解な怪異を気にしている暇はなかった。彼女の手には今、確かに冷酷な「真実」が握られているのだから。

ミリアムは弾かれたように立ち上がり、ドレスの裾が泥に汚れるのも構わず、カシウスが囚われた牢獄へと走り出した。

(待ってて兄様。今、その喉元に突きつけられた不当な刃を、私が叩き折ってあげるから……!)


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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