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第2部3 ケリヨトの少女⑤

その一言が放たれた瞬間、応接間の空気は一変した。背後に控えていた護衛たちの手が、反射的に剣の柄へと伸びる。教会の権威を、その最前線に立つ審問官の目の前で真っ向から否定したのだ。

ざわめき立ち、殺気立つ護衛たち。それをサウルは、煩わしそうに片手を挙げて制した。

「やめよ。なぜ怒りを覚える必要がある?」

サウルの声は、氷のように冷静で、かつ絶対的な威厳に満ちていた。彼は昂ぶる部下たちを顧みることなく、真っ直ぐにミリアムを見つめ直す。

「正当な理由があるのなら、いかなる権力者であろうと等しく法の光に照らされなければならない。それが我らの掲げる正義だ。神の名を背負う我らとて、その例外ではない」

サウルはわずかに身を乗り出し、机の上に組んだ手に顎を乗せた。その瞳には、ミリアムの不敵な回答を愉しむような、狂気にも似た知的好奇心が宿っている。

「……理由を聞こうか、鑑定士。なぜ、エルサレムの教会がこの事件の『犯人』だと言う?」

ミリアムは臆することなく、サウルの冷徹な視線を受け止めた。

「昨日の事件よ。あなたたちはこの館の主人を、ヘロデ王への謀反の罪で裁こうとした。けれどもその決定的な証拠はなく、一度は引き下がるしかなかった」

ミリアムの言葉は、法廷での告発のように鋭く、淀みがない。

「元々、教会が持つ裁判権はローマから与えられた限定的なもの。教会としてはその権力と権威を維持するために、常にローマへ貢献しているという姿勢を示し続けなければならない。それゆえに、ローマの傀儡であるヘロデ王に牙を剥く疑いのある彼を、何としても捕らえたかったはずだわ。……けれども、法の手続きではそれは叶わなかった」

サウルは、まるで極上の音楽でも聴いているかのように目を閉じ、深く息を吐いた。

「なるほど……焦った最高法院サンヘドリンは、法ではなく、『外法げほう』をもって事を成そうとした。そう言いたいのだな? 教会という組織そのものが、暗殺という手段を選んだのだと」

サウルは目を開けると、その冷徹な瞳に奇妙な熱を宿してミリアムを見つめた。

サウルは否定しなかった。それどころか、心底、何かに失望したかのような、悲しげなため息さえついて見せた。

「法の守護者たる最高法院が、そのようなおぞましいことに手を染めるはずがない……。ミリアム、私がそう言ったところで、今のあなたは信じないだろうな」

サウルは自嘲気味に口角を歪めると、視線を落とした。

「……その通りだ。最高法院には前科がある。『タルタロスの林檎』を使い、洗礼者ヨカナンの暗殺を企てていたという、拭い去れぬ前科がな。神の正義を守るためという大義名分さえあれば、彼らは手段を選ばない。法そのものを汚すことすら、彼らにとっては『必要な犠牲』に過ぎんのだ」

ミリアムは思う。大祭司カヤパ。

ガマリエル率いるパリサイ派の温情主義を嫌う、サドカイ派の首領格。「大を救うために小を切り捨てる」冷徹な実利主義者だ。その目的達成のためにはいかなる卑劣な手段も辞さない男として、広く知られている。

彼が教会の頂点に立つ限り決してその体制は変わらないだろう。

サウルの言葉には、組織の末端にありながら真実を追い求めてしまう、サウル自身の「孤独」と「嫌悪」が滲み出ていた。彼は教会の影を知ってしまったからこそ、ミリアムの提示した「一人目の犯人」を否定できなかったのだ。

サウルはさらに言葉を重ねた。その口調は、まるで複雑なパズルのピースを一つずつ検証していく熟練の鑑定士のようだった。

「確かに、教会の関与があるとするならば、オリーブの樹を十字架に見立て、そこにはりつけにするという猟奇的な演出にも理由がつく。ローマへの反逆者に対し、『これは神罰であり、ローマの法に照らした処刑である』という強烈なメッセージを込めたのだとな。……しかしだ、ミリアム。その話には、致命的とも言える大きな欠陥がある」

「欠陥……?」

ミリアムが眉をひそめると、サウルは悲劇の幕あいに立ち尽くす役者のような、奇妙に空虚な溜息を吐いた。

「教会には……最高法院には、ユダを殺したくても殺すことのできない、あまりに皮肉な理由があるのだ」

「ユダを殺せない理由? それは一体……何?」

一呼吸、重苦しい沈黙が流れた。サウルはミリアムの瞳をじっと見つめ、その唇から衝撃の事実を零した。

「我々には……『ユダ』の顔が分からないのだよ」

ミリアムは息を呑んだ。

「分からない? そんなはずはないわ。昨日、あなたたちは確かにこの屋敷を訪れて……」

そこまで言って、ミリアムは凍りついたように思い出した。

そうだ。確かにあの人は、常に御簾みすの奥にその姿を隠していた。昨日、サウルたちがこの屋敷を訪れ、緊張感に満ちた対峙をしていた時も、主人は決してその姿を白日の下に晒しはしなかった。

ミリアムがその事実に思い至ったのを見て、サウルは満足げに頷いた。

「あの男はその姿を表に出すことを極端に嫌っていた。おそらくは暗殺を恐れていたのだろう。己に敵が多いことを、誰よりも自覚していたはずだ。そのやりようは徹底していた。使用人であっても、家令やごく一部の執事を除いて、その素顔を見た者はいなかったという。御簾の奥以外では、屋敷のどこに主人がいるのかさえ分からない有様だったらしい。……おそらくは、使用人たちの間に紛れて生活していたのだ」

サウルはさらに言葉を続け、核心を突く。

「実を言えば、彼の正体を確認することも私の仕事の一つだった。だが、結局亡骸は消え、それは叶わなかった。もし、君の言うように教会が犯人であるなら、わざわざ『はりつけ』という手の込んだ殺し方をしておきながら、肝心の亡骸を消してしまう理由が分からない。……どうかな? これで、我々への疑いは晴れただろうか?」

サウルの言い分は完璧だった。

もし教会が「見せしめ」のために殺したのなら、死体を隠す必要はない。むしろ、衆目に晒して恐怖を植え付けるのが彼らの流儀だ。死体が消えたということは、そこに教会とは別の、もっと切実な「隠蔽の意志」が働いていることを意味している。

ミリアムは深く息を吐き、静かに首を振った。

組織としての教会への疑念が完全に晴れたわけではない。しかし、現状では、これ以上食い下がっても時間の無駄だ。今は、より深い闇へ踏み込むための「足場」を固めるべきだと判断した。

それを見て取ったのか、サウルが促すように声をかける。

「ならば、二人目を教えてもらっても良いかな?」

「ええ、無論そのつもりよ」

そもそも、二人目、三人目の容疑者と接触を図るためには、この場を支配しているサウルの協力が不可欠だった。彼の手を借りずして、真実を引きずり出すことなど不可能だ。

ミリアムは逃げも隠れもしない強固な意志を込めて、サウルを真っ直ぐに見つめ返した。

「二人目の容疑者。それは、昨日あなたたちが捕らえた――家令、ステパノよ」

* * *

ミリアムはサウル達に連れられ屋敷を出た。向かう先はエルサレムだ。

エルサレム。それは神の都と謳われながら、あらゆる野心と祈りが混ざり合う、巨大な石の迷宮だった。

馬車が屋敷を離れ、都へと踏み入れた瞬間、のどかなオリーブの香りは押し寄せる熱気と人々の喧騒にかき消された。天を突く神殿の威容、白く輝く巨大な石壁、そして何百もの言語が飛び交う市場。あまりの情報の奔流に、ミリアムの鑑定眼は悲鳴を上げそうになる。しかし、彼女は観光に来たわけではなかった。

サウルに導かれ、一行は華やかな大通りを外れ、陽光の届かない裏路地へと入り込んでいく。

湿り気を帯びた石畳、壁に染み付いた古びた油の臭い。人通りは絶え、代わりに重苦しい沈黙が支配を強める。たどり着いた場所は、最高法院が管理する、罪人を収容するための牢獄だった。

分厚い樫の木の扉がいくつも並び、それぞれが重厚な鉄のかんぬきで外側から固く封印されている。サウルの案内で辿り着いたのは、地上からは想像もつかない、冷たい石に囲まれた地下の回廊だ。

サウルが合図をすると、看守が重い音を立ててその一本を引き抜く。扉が開くと、そこには狭い石部屋と、壁の高い位置に嵌め込まれた小さな空気窓から差し込む、わずかな光しかなかった。

その暗がりの中、男はいた。

家令、ステパノ。

男は石壁に打ち付けられた鎖に繋がれたまま、驚くほど平然と床に腰を下ろしていた。ミリアムが扉の前に立つのを待ちわびていたかのように、男はゆっくりと顔を上げる。

「ああ、ミリアム様。……遅かったではありませんか」

鎖が擦れ、硬い金属音が石室に反響する。その声は、湿った壁を伝って不気味なほど柔和に響いた。

まるでミリアムがここへ来ること、そしてこの時間に到着することさえも、あらかじめ知っていたかのような物言い。

(……やはり、気味の悪い男)

ミリアムの背筋を冷たい悪寒が走る。主人の凄惨な死、そして自身の投獄。それらすべてを「予定通り」だとでも言いたげな、底知れない余裕がそこにはあった。

ミリアムは確信に近い予感を覚える。目の前の男は、間違いなく「何か」を知っている。

昨日、この男が主人の前で見せていた、あの狂信的ともいえる忠誠心。それが本物であったなら、主人の凄惨な死を聞かされた今、この男は正気を失い、喉を掻き切らんばかりに嘆き悲しんでいるはずだ。

だというのに、この不気味なほどの落ち着きようは何だ。

冷たい石床に座るステパノからは、主を失った絶望も、己の身を案じる焦燥も微塵も感じられない。

ミリアムの思考を読み透かしたかのように、ステパノは唇の端を吊り上げた。

「ミリアム様。あなた様は、私が主人を殺したのではないか……そう疑っておられるのですね?」

暗がりから投げかけられたその言葉に、ミリアムは心臓を掴まれたような戦慄を覚える。だが、彼女は視線を逸らさなかった。

「ええ、そうよ。あの屋敷の主人の顔を知る者は、あなたを含めてごくわずかしかいない。あなたは、その数少ない一人だったのでしょう?」

「当然です。私があの方の素顔を知らずして、いかにお側でお世話ができましょうか」

ステパノは誇らしげにさえ見える態度で頷いた。鎖の音が、肯定の拍手のように冷たく響く。

「ですが、それがなんだと言うのです? 私に主人を殺せるわけがないのですよ」

ステパノの言葉に、ミリアムの思考が加速する。

その通りだ。昨日、ミリアムたちの目の前でサウルに連行され、この石牢に繋がれた男が、物理的にあの屋敷で殺人を犯し、遺体を磔にすることなど不可能だ。

普通なら、そこで彼の容疑は消える。だが、ミリアムの中の鑑定士としての本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。

(物理的な不在。確かなアリバイ。……だからこそ、そこに何らかの『鑑定すべき歪み』があるはずよ。この男が手を下さずとも、殺人が完遂されるような、何らかの仕掛けが)

ミリアムはステパノの一挙手一投足、呼吸の乱れ一つも見逃さないよう、全身の神経を研ぎ澄ませて身構えた。この饒舌な男が吐き出す言葉の「綻び」を絶対に暴いてやる。その強い決意と共に、次の一言を待った。

しかし、ステパノの口から漏れたのは、ミリアムが用意していたあらゆる推論を無に帰す、予想だにしない言葉だった。

まるで愛の詩でも口にするかのように、うっとりと目を細める。その表情は、湿った地下牢の空気すらも甘く塗り替えてしまいそうなほどに陶酔しきっていた。

「私はこんなにもあの方を愛している、こんなにもお慕いしている……。その私に、どうしてあの方を殺めることなどできましょうか?」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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