第2部3 ケリヨトの少女⑥
その歪んだ愛情の吐露に、ミリアムは思わず唖然として言葉を失った。これほどの純粋な「狂信」を突きつけられるとは予想もしていなかったのだ。
「……あなた、自分がどうして今こんな所にいるのか、本当にわかっているの?」
ミリアムは、混乱を抑え込むように低い声で問うた。
「あなたの主は、あなたを売ったのよ。自分だけが生き延びるために、長年尽くしてきたあなたを教会の手に渡した。それでも、そんなことが言えるの?」
それこそが、ミリアムの導き出したステパノの動機だった。
あの日、御簾の奥から聞こえてきた主人の冷酷な決断。最も身近にいたステパノが、その「裏切り」に絶望し、怒りに燃えて主人を殺害した。
(芝居……なの? これもすべて、私を煙に巻くための計算?)
ステパノは、うっとりとした表情を消し、冷徹なほどに静かな「真実」を語る者の顔に戻った。
「私と主の深い関係は、おそらくあなたには計り知れないでしょう。……あの方が必要とした。私には、それ以上の理由などいらないのです」
鎖がチャリと鳴り、石室の冷気が肌を刺す。ミリアムは思わず、格子の前で一歩身を引いた。理解の範疇を超えた狂信。そこにあるのは、自己犠牲ですらない、個の消失だ。
「意味が分からないわ……。あなた、どうしてそこまであの人に心酔できるの? あなたを盾にして逃げるような男に!」
ミリアムの震える問いに対し、ステパノはふと真顔に戻った。その瞳には、もはや先ほどまでの嘲笑はなく、ただ一点の曇りもない透明な「確信」が宿っている。
「ミリアム様……あなたも、本当は知っておられるのでしょう? あの方の深淵なるお考えを」
「……何ですって?」
「あの方は、すべてのユダヤの民のために、そのすべてを捧げようとされている。ローマの支配、偽りの王、腐敗した神殿……この袋小路に陥った民族を救うために、あの方はご自身の『名』も『命』も、そして『死』さえも利用しようとなさっているのです。それに比べれば、私の命など……塵ほどにも安い」
ステパノの言葉に、ミリアムは衝撃を隠せなかった。
その話は、昨日ステパノが捕まった後、ミリアム達に語られた話だ。だというのに、昨日の昼からずっと独房に閉じ込められているはずのこの男が、なぜその詳細を知っている?
「一体、あなた……主人からどこまで話を聞いているの?」
「すべてですよ、ミリアム様」
ステパノは平然と言い切った。鎖の音が、静かな自慢のように響く。
「主がお考えのことは、すべて私は存じております。あのお方が御簾の奥で何を視、何を憂い、何を望まれたか。私たちは言わば、一心同体のようなものなのですから」
やはり、ミリアムには理解不能だった。
自分の理想を、人生をかけた計画をすべて共有するほどの腹心。いわば己の半身とも呼べる存在を、主人はあの日、あんなにもあっさりと見限ったというのか。計画の完遂のためには、最も信頼する者さえも使い捨ての駒に過ぎないというのか。
激しく考え込むミリアムの様子を見て、ステパノはふっと表情を緩めた。その瞳には、混乱する少女を哀れむような、あるいは慈しむような奇妙な光が宿っている。
「ミリアム様、無駄ですよ。私からあの殺人の糸口を掴むことなど、期待しないでください。私は主の意志に従い、ここにいる。それだけが私の真実なのですから」
ステパノはそう言うと、初めてミリアムに対して恭しく頭を下げた。鎖が床に擦れ、鈍い音を立てる。
「ただ、あなたは私が敬愛してやまないあの方の……あのお方の血を引く娘だ。このまま手ぶらでお返ししては、あの方に対して申し訳が立たない」
*
ステパノはゆっくりと顔を上げた。その口元には、毒を含んだ蜜のような、甘く残酷な笑みが浮かんでいた。
「少しだけ、あなたのお父様のお話をして差し上げましょう。……あなたお父様とベツアレム、そしてイスカリオテにまつわるお話をね」
ステパノはゆっくりと顔を上げた。その口元には、毒を含んだ蜜のような、甘く残酷な笑みが浮かんでいた。
「あの方は、かつて放浪者だった。その旅の中で、ある一人の美しい娘と出会われた。娘の名はミリアム。そう、あなたと同じ名を持つお母様……高潔なるベツアレムの血筋を持つお方です」
「……っ」
ミリアムは咄嗟に、胸元にぶら下げた銀の籠を握りしめた。籠の中には、今は亡き母が遺した、あの神秘的な香りが静かに眠っている。
「私のお母さん……」
「ええ。お二人は出会い、瞬く間に恋に落ちた。そして、あの方はベツアレムの婿養子となり、職人としての道を歩み始めたのです。その腕はまさに『神の腕前』でした。あの方は、歴史の闇に失われかけていた一族の秘術を、まるで最初から知っていたかのように次々と取り戻された」
ステパノの瞳が、過去の栄光を視るかのように熱を帯びる。
「精油、蒸留、そして金属の細工……。あの方の手にかかれば、泥土でさえ黄金に勝る価値を持った。ベツアレムの一族は、あの方という新しい血を得たことで、かつてない黄金期を迎えようとしていたのです。ですが、皮肉なことだ……」
ステパノは語り続ける。その声は、歴史の闇に埋もれた重厚な扉を一枚ずつ剥ぎ取っていくようだった。
「強い光は、また影を濃くするものです。ミリアム様……ベツアレムには、歴史の表に出ることのない『裏の顔』があった」
ステパノの声は、地下牢の湿った空気を震わせるほどに低く、重い。
「それは、イスカリオテの長老としての顔です」
ミリアムの心臓が、早鐘を打った。
イスカリオテ。かつてアンドレから教わった、歴史の裏側で糸を引く巨大な組織の名。それが、今ここで自分の血筋と結びつこうとしている。
「かつて十の氏族がイスカリオテを作り上げた際、その頂点には十人の『長老』が置かれました」
ステパノは格子の隙間から、ミリアムが握りしめる銀の籠を、畏怖を込めた目で見つめた。
「組織の名、イスカリオテ――ヘブライ語で『イシュ・ケリヨト』。すなわち、ケリヨトの男を意味します。そこに集いし十人の男たちが、富と技術、そして時代の波を操る最高決定機関となったのです」
「待って……。それとベツアレムの職人に、何の関係があるというの?」
ミリアムが問い詰めると、ステパノは悲しげに目を伏せた。
「いつしか、その十の席の一つは、神の如き技術を継ぐ『ベツアレムの血脈』が座るべきだと定められたのです。血が、逃れられぬ役職を決めた。……あの方は、あなたの母上を愛し、一介の職人として生きることを望まれました。だが、組織はそれを許さなかった」
ステパノの指が、鉄格子を強く握りしめる。
「その圧倒的な才能ゆえに、あの方は望むと望まざるとに関わらず、イスカリオテの長老という……血塗られた椅子に座らされることとなったのです」
「……父様が、イスカリオテの長老?」
ミリアムの脳裏に、あの御簾の奥の孤独な影が浮かぶ。
一介の職人として愛する妻と穏やかに暮らすはずだった男が、その腕前ゆえに、ユダヤの闇の王として君臨することを強要されたのだ。
ステパノは、自慢げに顎を上げた。その瞳には、主人の知略を崇拝する狂気が宿っている。
「主は語られたでしょう? あの『十二使徒』の話を。……勘の良いあなたならお気づきのはずだ。あれもまた、イスカリオテを統べる十人の長老たちの構造から着想を得たもの。かつてイスカリオテの盟約は、ユダ、そしてレビの一族と結ばれた聖なるものでした」
ステパノの声は、地下牢の冷たい壁に反響し、歴史の重みを帯びていく。
「しかし、ユダヤが生き残るためには聖なる誓いだけでは足りなかった。あの方は、敵対勢力であるローマ、そして傀儡王ヘロデとも密かに手を結んだのです。彼らの汚れ仕事を引き受け、闇を担うことでその弱みを握る。毒を以て毒を制し、危ういバランスを取りながら、我々、ユダヤの民はは今日まで生き長らえてきたのです」
ミリアムの脳裏に、昨夜与えられたあの部屋の光景がフラッシュバックする。
足が沈み込むほど柔らかな絨毯、黄金で縁取られた調度品。使用人が誇らしげに言っていた「ローマの貴賓さえもてなす部屋」という言葉。
(……あの部屋は、単なる贅沢じゃなかった。父様があの場所で、ローマの影と密談を交わしていた証拠だったんだわ)
族長エギンの言葉が、重い楔となってミリアムの胸に打ち込まれる。
「イスカリオテの深淵に落ちた」――その言葉の真意を、ミリアムは今、この湿った石牢で最悪の形で理解していた。父はただの職人を捨て、ユダヤを背負う怪物となる道を選んだのだ。
*
「……兄様は、父様が母様を殺したと言っていたわ」
ミリアムは絞り出すような声で、ずっと心に棘のように刺さっていた問いを投げた。
「あなたはそのことも知っているの?」
「……。無論でございます」
ステパノは一瞬、悼むような沈黙を置いてから頷いた。
「あなたのお母様の弟君であるカシウス様は、師でもあるお父様を心底尊敬されておりました。それは崇拝と言ってもよいほどに。ですがミリアム様、いくら神のごとき才能と言えども、人は神ではありません。……ある時、その手が届かず、お母様をお助けすることができなかったのです」
ステパノの声は淡々としていたが、それがかえって事実の残酷さを際立たせた。
「カシウス様は、そのことを激しく責められました。『あなたほどの人が、なぜそれだけの力を持ちながら、己の妻一人救えなかったのか』と。……そうお聞きしております」
ミリアムはその言葉を聞き、肺に溜まっていた熱い空気が抜けていくような、微かな安堵を覚えた。
(そうか……。あれは、そういう意味だったのね)
本当に父が刃を向けたわけではない。救えなかった絶望を、カシウスは「殺した」という言葉で表現していたのだ。父への深い崇拝があったからこそ、その「全能」が崩れた瞬間の怒りは、憎悪に等しいものへと変貌したのだろう。
「別に……本当に父が母を殺したわけではない。……よかった」
ミリアムの唇から、小さな溜息が漏れる。しかし、その安堵を切り裂くように、ステパノの瞳に冷酷な光が宿った。
ステパノは、まるで見透かしたような、あるいは預言でも唱えるような静かな声で告げた。
「ミリアム様、老婆心ながらご忠告いたします。……まだ、何も終わってはいませんよ」
「……どういう意味?」
ミリアムの問いに、ステパノは格子の向こうで首をゆっくりと振った。その瞳には、狂信と慈愛が混ざり合った、歪な光が宿っている。
「ベツアレムの力をもってヨカナン様を救世主へまつりあげる――あの『十二使徒』。主がいなくなったからといって、それが終わったわけではありません」
ステパノは、鎖の音を響かせながら一歩前へ出た。その影が、ミリアムを飲み込むように伸びる。
「あなたの中にベツアレムの血が、お父様の血が流れる限り、あなたは『力あるもの』として決断せねばならない時が必ず来ます。民のためにその力を振うのか……。それとも、すべてを見捨て、己の小さな幸せだけに固執するのか」
ステパノはそこで一度言葉を切り、最後は祈るように呟き恭しく頭を垂れる。
「……その時どうするか、今のうちにどうかお考えくださいませ」
* * *
ミリアムは迎えの馬車に身を投じた。今日、三人目に会うべき人物――この惨劇の全容を識る男に会うためだ。
しばらく夜の帳を走り抜け、馬車が止まったのは、エルサレムの至宝、神殿を囲む巨大な石壁の傍らだった。天を突く壁の威圧感は、もはや人の造形物とは思えぬほどの静謐を纏っている。
教会の使いに導かれ、彼女は聖域の最深部、一般の信徒は決して立ち入ることのできない天空へと続く螺旋階段に足をかけた。
(……これは処刑ではない。まるで、何かの『役割』を与えられた聖像だわ)
一段登るごとに、街の喧騒と下界の命の熱気は遠ざかり、代わりに切り裂くような冷たく激しい風の音が、耳元で審判の調べのように鳴り響く。
登り続けるミリアムの脳裏には、先ほど見た父の死に様を描き出した「絵師」の輪郭が、没薬の香りと共に浮かび上がっていた。
一段、また一段。湿った石階段が、彼女の靴音を吸い込んでいく。
やがて、頭上の視界が突如として開けた。
辿り着いたのは、神殿の最上層。「ソロモンの回廊」をも眼下に収める、遮るもののない屋上だった。
燃えるような夕暮れの赤の中、その場所に、「彼」がいた。
第2部3 ケリヨトの少女 了
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe
【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




