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第2部3 ケリヨトの少女④

その問いは、ミリアムの記憶の根底を揺さぶるような冷徹な響きを持っていた。もし彼女がここで言葉を濁せば、事件そのものが「錯乱した旅人の妄想」として処理され、消えたカシウスはさらに深い闇へと追いやられるだろう。

ミリアムは小さく、けれど断固とした動作で首を振った。

「はい。私は確かに、オリーブの樹に打ち付けられたあの人の亡骸を見ました。幻などではありません」

ミリアムの声は、自分でも驚くほど冷えていた。鑑定士としての感覚が、あの時視た「死」の質感を鮮明に呼び覚ます。

「皮膚の裂け目から流れる血の色、死後硬直が始まりかけた指の角度、そして……あの男の絶望に満ちた死に顔。あれが幻だと言うのなら、この世のすべてが幻だわ、サウル」

サウルはその答えを聞くと、満足そうに口角を微かに上げた。

「そうか。正直に言おう、我々の見解も同じだ」

サウルは、ミリアムの断定を疑うどころか、深く頷いて同意を示した。その態度の変化に、ミリアムはかえって肌が粟立つような予感を覚える。

「現場の凄惨な血溜まり、昨晩以来ユダが消えた事実、そして使用人たちの証言……これらを総合すれば、昨晩、あの場所で凄まじい殺人が行われたことは疑いようもない事実だと我々も判断している。……しかしだ」

サウルはそこで一度言葉を切り、組んだ指の上に顎を乗せた。その瞳は、逃れられない罠を仕掛ける猟師のように冷たく、ミリアムを射抜いている。

「そうなると、君にとっては極めて不都合な事実が出てくるはずだ。昨日消えたものは、『ユダ』の亡骸だけではない。君の兄、カシウスもまた忽然と姿を消した」

サウルはゆっくりと、一文字ずつ重みを置くようにして続けた。

「死体と、近くにいた者。その両方が消えたのだ。……ミリアム、君ならどう推論する? カシウスこそがユダ殺しの犯人であり、証拠である遺体を隠滅して逃亡した。そう考えるのは、法に携わる者として当然の帰結ききゃくではないか?」

「兄様は犯人ではないわ。私、昨日は兄様と同じ部屋で寝ていたもの」

ミリアムは食い気味に、縋るような思いで言葉を叩きつけた。

「兄様が夜中にどこにも行っていないことは、私が証明するわ。ずっとそばにいたんですもの」

「証明?」

サウルは鼻で笑うように、低く冷たい声を漏らした。その瞳には、ミリアムの焦燥を見透かすような残酷な色が浮かんでいる。

「ミリアム。本当に、あなたはそれを『証明』できるのか? あなたは一睡もせず、カシウスを見張っていたとでも? 人間の浅い眠りの間に、何が起こり得ないと言い切れる。あなたが微睡まどろんでいる間に、その事件が起こらなかったと、なぜ断言できるんだ」

「でも、悲鳴を聞いたわ! あの時、兄様は確かにこの部屋にいた……!」

「その悲鳴が、確かに『ユダ』のものだったという証拠はどこにある?」

サウルの追求は、容赦なくミリアムの心の隙間を抉った。

「カシウスの手によって、細工されていた可能性を考えまかったのか? 他人の声で演出することなど容易い。あなたが聞いたのは、彼があなたに見せようとした『虚構の断末魔』ではなかったのか?」

「それは……」

ミリアムの言葉が、喉の奥で氷ついた。サウルの言葉は極論だ。だが、今の自分にそれを論理的に否定する術はない。

サウルは、黙り込んだミリアムを冷ややかな、それでいて心底がっかりしたような目で見つめ、大袈裟に肩を竦めてみせた。

「どうした、ミリアム。たかだかこの程度の理屈に屈するつもりか? かつて私の追求を撥ね退けたあなたの瞳は、その程度のものだったのか」

サウルは組んでいた足を解き、椅子の背にもたれかかった。その瞳に一瞬だけ、審問官としての顔ではない、一人の観客としての熱が宿る。

「本来であれば、中立であるべき法の番人が口にしていいことではないだろうが……あえて言おう。昨日、君があの家令、ステパノを言葉の刃で追い詰めていった様は実に見事だった。この私が、見ていて胸がすく思いだったよ」

サウルはそこで一度言葉を切り、震えるミリアムの指先をねめ回す。

「その時の、真実を射抜こうとするあなたの姿は……本当に美しかった。しかし、今の君にはその輝きがまるでない。泥を飲み込んだような顔をして、一体、たった一晩で何があったというのだ?」

サウルは決して味方ではない。しかし、ミリアムのことを尊敬すべき同類として認めていることもまた確かだった。

ミリアムは思わず、震える声で呟いた。

「……あなたは、怖くないの?」

「何がかな?」

「自分のその冷徹な瞳が、誰かを深く傷つけてしまうことが。そして、そうやって傷つけた相手のことも、ただの鑑定の対象として……。何の感情も向けることなく、冷徹に解析し続けてしまう、自分自身のことが」

それを聞いたサウルは、動きを止めた。それから、心底愉快そうに喉を鳴らして笑った。しかし、その瞳の奥には、やはり氷のような理性が居座ったままだ。

「怖いと思ったことなど一度もない。そうあるべきだと常に心得ている」

サウルらしい、迷いのない答えだった。しかし、ミリアムは小さく首を振った。

「……私は、怖いの。私の中にある、この黒い鑑定士としての性が。ただ鑑定することを喜びとして、愛するものさえ顧みず、冷徹に読み解こうとするこの本能が……恐ろしくてたまらない」

ミリアムの瞳に、昨夜の光景がまざまざと蘇る。

「ユダの亡骸を見たあの瞬間、私の中にあったのは、ただその感情だけだった。すべてが解る、すべてを暴き出せるという、悍ましいほどの万能感。もしあのまま、その感情に身を任せてしまえば……私はきっと、ただの醜い化け物へと成り果てていたわ」

サウルは一瞬、言葉を失ったように息を呑んだ。

ミリアムが吐露した「万能感への恐怖」は、彼のような冷徹な男であっても無視できないほど、切実で不気味な響きを持っていたのだろうか?

「そうか、あなたは……」

サウルは何かを言いかけ、それからわずかに頭を振って言葉を飲み込んだ。

「醜い化け物と言ったな。しかし、今私の目の前に座っているのは、化け物どころか、自分の影に怯える臆病なうさぎではないか。なぜ君は、そのまま化け物にならなかった? 」

「だって、私は……」

ミリアムは、あの瞬間のことを思い出す。

サウルは静かに、けれど熱を帯びた声で言葉を継いだ。

「君はその時、真理の扉の前に立っていたのだ。……私が望んでやまない、その扉の前に。私であれば、躊躇なく喜んでその門をくぐり、あちら側の住人になっただろう。しかし、君はそうしなかった。何が君をこちら側に押し留めたのか。それを今一度、考えてみることだ。答えは自ずとその中にあるはずだ」

(……私を押し留めるもの?)

ミリアムの脳裏に、あの瞬間の感覚が鮮明に蘇る。

万能感という名の甘美な毒に侵され、すべてを暴き立てる「化け物」の門をくぐろうとした、その刹那。

(――姉様!)

震えるナタンの声が、暗闇を切り裂いて届いた。

その瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走ったのだ。

「……そうだ。私は、あの子にだけは、あんな浅ましい姿を見られたくないと思った」

あんな冷酷な、血も涙もない鑑定士としての化け物の顔を、自分を信じて疑わない弟にだけは見せたくなかった。そんな瞳で、あの子を視たくなかった。

「私は……ナタンと、ずっと一緒にいたかった。あの子が愛してくれる私として、生きていたかったの」

そうだ。思えば、最初からずっとそうだった。

忘却の丘で、ヨシュアの言葉に毒され、意識が深淵の向こうへ滑り落ちそうになったあの時も。私を現世に繋ぎ止めていてくれたのは、ナタンのあの小さな手だった。

あの時だけじゃない。ずっと、ずっと……。非力で幼いその手で、私を闇から守ろうと必死に繋ぎ続けてくれた。

かつてヨカナン様の前で、私は自分に言い聞かせたはずだ。

自分のこの瞳は、未来を切り開く「光」にもなれば、すべてを飲み込む深淵への「闇」にもなると。

けれど、私は過信していた。自分一人でその闇を御せると。

(一人じゃ駄目なんだ。……私一人じゃ、きっと闇に屈してしまう)

けれど、一人でなければ。

私を光へと導いてくれるナタンの手があれば。

二人なら、この残酷な真実の先にある未来へ、きっと辿り着ける。ナタンこそが私のアンカーだ。

ミリアムの瞳から、迷いの霧が晴れていく。

その瞳には、もはやサウルへの怯えも、自分自身の才能への恐怖もなかった。あるのは、守るべき者のために真実を視通そうとする、鑑定士としての静かな覚悟だけだった。

* * *

サウルは、獲物を待つ獣のように薄く笑った。

「ほう……。ようやく、その瞳に光が戻ったようだな。鑑定士ミリアム。では、もう一度聞こう。あなたの兄が犯人だと疑われているこの状況を、なんとする? あなたは、どのようにしてその無罪を証明するつもりだ?」

サウルの問いは依然として冷徹だったが、その声には、ミリアムがどう「反撃」してくるのかを見極めようとする期待が混じっていた。

「兄様は、やっていないわ」

ミリアムは真っ直ぐにサウルを見据え、言い切った。

「そして、私は兄様の無実を証明するつもりも……ないわ」

「ほう?」

サウルは眉を上げ、意外そうに目を細める。

「まだ身内への愛で、鑑定士殿の瞳は曇っているというのか? 証明できないというのなら、兄は処刑台行きだぞ」

「そうじゃない。あなたもさっき言っていたでしょう。それは『悪魔の証明』よ。どこまでいっても、完全に証明しきることはできない。法を司るあなたたちがその気になれば、いくらでも兄様を罪人に仕立て上げられる」

ミリアムは一歩、サウルの方へ踏み出した。

「だから、そんな無意味なことはしない。無実を叫ぶ代わりに……真犯人を、あなたの前に引きずり出してみせる」

その言葉が応接間に響いた瞬間、部屋にいた護衛たちの間に、微かなざわめきが走った。死体が消え、容疑者が消えたこの密室に近い屋敷で、ミリアムは「第三の犯人」の存在を断言したのだ。

サウルは、しばしの沈黙の後、爆発したように笑った。

「面白い! 無実の証明を捨て、真犯人の告発を選ぶか。……いいだろう。これこそが、私が求めていた『美しき鑑定』だ。ではミリアム、その真犯人とやらを、どうやって視つけ出すつもりだ? 心当たりはあるのか?」

サウルの問いに、ミリアムは迷うことなく、氷のような透明さを持った声で応えた。

「ええ。この時点でも、三人ほど目星はついているわ」

「ほう、三人か。なんと心強いことではないか」

サウルは椅子に深く背を預け、面白そうに目を細める。

「それを教えてもらうことはできるのかな?」

「もちろんよ」

ミリアムはすっと背筋を伸ばし、正面に座るサウルを、射抜くような眼差しで見据えた。

「まず一人目――それは、あなたたち『教会』よ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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