第2部3 ケリヨトの少女③
朝の陽光が残酷なほど鮮やかに差し込み、ミリアムの瞼を射抜いた。
そこは、昨夜案内された「黄金の檻」――ローマの貴賓さえもてなすという、あのあまりに贅を尽くした客室だった。
広い寝台の上で、ミリアム、ナタン、サロメの三人は、まるでお互いの体温だけがこの世に残された唯一の真実であると信じるように、一塊になって寄り添い眠っていた。
サロメは恐ろしい夢を見ているのか、小さな眉を険しく潜めて時折身悶えしている。傍らに横たわるナタンの顔色は、昨夜の死人のような土気色に比べればいくらか赤みが戻っていたが、依然として痛々しいほどに青白い。
ふと視線を落とせば、ナタンの手は眠りの中でもなお、ミリアムの服の裾を力任せに握りしめていた。自分を守ろうとしてくれた強さと、離されることを恐れる幼い執着が混ざり合ったその仕草に、ミリアムの胸は引き絞られるように痛む。
(……カシウス兄様も、あの人の亡骸も、どこにもないなんて)
使用人の放ったあの言葉が、冷たい毒のように再び脳裏を侵食し始める。
夢か現か判じがたい、あの空白の時間の記憶。ミリアムは重い身体を横たえたまま、昨夜、あの地下室で絶望的な報告を受けた後に何が起きたのかを、断片的な記憶の糸を辿るようにゆっくりと思い出していた。
もう一度、あの惨劇の現場に足を踏み入れたとき、そこには奇妙なほど「無」が広がっていた。
使用人たちの言葉通り、オリーブの樹に磔にされていたシモンの姿はなく、それを守っていたはずのカシウスも見当たらない。静まり返った中庭には、ただ夜風が吹き抜けるばかりだった。一瞬、自分たちが見たものは集団の錯覚だったのではないかと、脳が現実を拒絶しかける。
自分たちが確かに見た、あの鉄を焼くような血の匂いと、逃げ場のない絶望。磔にされた父の、あの無残な姿。……あれはすべて、白昼夢だったというのか。自分たちの狂言だとでも言うのか。
ありえない。ミリアムの指先には、まだあの肉の感触が、縄の感触が、鑑定士としての冷徹な記憶が、消えずに残っているというのに。
まるで、最初から何もなかったかのように。世界から「父の死」という事実だけが、丁寧に拭い去られてしまったかのように。
しかし、足元の石畳に視線を落とした瞬間、吐き気と共に現実に引き戻された。
そこには、どす黒く変色した広大な血溜まりが、逃れようのない事実としてこびりついていた。肉が裂け、命が零れ落ちた痕跡だけが、誰の手にも消されずにそこに残っていたのだ。
*
館中をいくら探しても、主人の姿はどこにもない。
当初はミリアムたちの話を半信半疑に、あるいは「子供の狂言」として受け流そうとしていた使用人たちも、夜が更けるにつれ、その顔から余裕が消え失せていった。
一日のうちに、絶対的な支配者であった主人も、実務を取り仕切る家令も消えた。
家令に次ぐ地位にある執事たちは、夜を徹して議論を交わし、判断に迷い、そして恐怖に突き動かされた。この「神をも恐れぬ惨劇」を自分たちだけで抱えきれるはずがない。
最終的に、彼らは自分たちの身を守るため、すべてを法の手に委ねる決断を下した。
夜の闇を突いて、エルサレムへと急を告げる伝令が放たれたという。
ミリアムは寝台の中で、その冷たい事実を反芻していた。
エルサレムに伝令が届き、役人たちが到着すれば、この「黄金の檻」での停滞した時間は終わりを告げる。
ヨシュアの言葉がが、脳裏に浮かぶ。
――「この屋敷で起こる二つ目の奇跡を目撃することになる」
あの不遜な男が予言めいた口調で告げた「奇跡」とは、これのことだったのか。磔にされた死体の消失。物理的な理を超えた不条理を、彼は「奇跡」と呼び、嘲笑っているのか。
ヨシュアに挑発されるまでもなく、この奇跡を解かなければならない理由がミリアムにはあった。
主が消え、家令が消え、血溜まりだけが残されたこの状況。エルサレムから役人が到着すれば、真っ先に疑いの目が向けられるのは、余所者である自分たちだ。いや、もっと言えば、遺体と共に姿を消したカシウスが、シモン殺しの極悪人として指名手配されることは目に見えている。
兄がどこへいなくなったのか?遺体は何故消えたのか?
それらすべてを知るためには、鑑定士としてこの「奇跡」の裏側にある真実を暴かなければならない。
(視なければ。……私の目で、すべてを暴き出さなきゃいけないのに)
だというのに、身体が動かない。
頭では理解していても、指先一つ動かすことすら、深海に沈んでいるかのように重く、苦しい。
現場を調べれば、あるいはこの「奇跡」の隙間に残された何らかの証拠を掴めるかもしれない。鑑定士としての目が、どこかに残された「綻び」を見つけ出すはずだ。
けれども、それを行うのが、たまらなく怖かった。
真実を視ようとするたび、自分の中に渦巻く鑑定士としての冷徹な闇が鎌首をもたげる。対象を愛憎や倫理から切り離し、ただの「物質」として分解し、暴き立てるあの感覚。もし鑑定の果てに、兄様が望まぬ姿で、あるいは自ら惨劇に手を染めた確信的な証拠として「視えて」しまったら。
その時、ミリアムはもう、兄様を愛する妹ではいられなくなる。
(私が兄様を救わなければならないのに。……私が、やらなきゃいけないのに)
震える思考とは裏腹に、心臓は重く、鈍い拍動を繰り返すばかりだった。兄を救いたいという祈りと、真実を知ることへの根源的な恐怖が、ミリアムの四肢を寝台に縫い付けて離さない。
震える思考の渦に沈み込んでいたミリアムの手を、不意に、別の温もりが力強く握りしめた。
*
「お願い、姉様。……そんな、悲しい瞳をしないで」
いつの間にか目を覚ましていたナタンが、静かにミリアムを呼んだ。
彼は寝台から身を起こし、真っ直ぐにミリアムを見つめている。その瞳には、昨夜のあの死人のような狼狽も、折れそうな膝を震わせていた恐怖の影も、もう欠片ほども残っていなかった。
そこにあるのは、何か大きな、そして重すぎる覚悟を定めた者だけが持つ、不思議なほど澄んだ光だった。
「……カシウス兄様がアントニオさんを殺したと、濡れ衣をかけられたあの夜のことを覚えてる? 姉様は、それが偽金のために仕組まれた卑劣な策謀だったと、たった一人で暴いてみせた。そうして、兄様を救い出したじゃないか」
ナタンの声が、静かに、けれど熱を持って寝室に響く。
「あの時、僕は思ったんだよ。僕の姉様は、なんて凄くて、なんて誇らしいんだろうって。僕の大好きな姉様は、闇の中から真実を見つけ出せる、世界で誰よりも強い人なんだって」
ナタンは、ミリアムの震える手を両手で包み込むように握り直した。
その手はもう、震えてなどいない。
むしろ、冷え切ったミリアムを焼き尽くさんばかりの、確かな熱を帯びている。
「……だから、今度は僕の番だよ。僕が必ず、兄様を助けてみせる」
ナタンはそう言い切ると、わずかに身を乗り出して、呪いをかけるような、あるいは祈りを捧げるような静けさで言葉を重ねた。
「言ったよね? 僕は姉様の願いなら、どんなことだって叶えてみせるって。だから姉様は……ここで僕の帰りを待っていて」
そう言って微笑むナタンの指先が、ミリアムの髪を優しく撫でる。
その指の動き、その視線の温度。それは、いつもの甘えん坊な弟が向ける親愛ではなかった。愛する者を守り抜くと決めた「一人の男」の、あまりに深い慈しみそのものだった。
ミリアムがその変貌に言葉を失っている間に、ナタンは迷いのない足取りで寝台を降りた。
かつてはミリアムの影を追いかけていたはずの足音が、今はミリアムを置いていく力強さを持って、部屋の出口へと向かっていく。
(待って、ナタン……)
一瞬、その背中がこの世の理から外れ、永遠に手の届かない場所へ消えてしまうような——そんな形容しがたい恐怖が走り、ミリアムは思わず手を伸ばした。
けれど、指先が空を切るよりも速く、彼は振り返ることなく扉を抜けた。
扉が閉まる乾いた音が、静かな部屋に重く響く。
ミリアムはただ、その背中が消えた虚空を、呆然と見つめることしかできなかった。
(止めなきゃ……本当は、今すぐに追いかけて、止めなきゃいけないのに)
姉としての威厳をもって、ナタンを一人で行かせることなど許してはいけない。危険な真実の渦中へ、年若く、剣も持たない弟を送り出すなど、本来のミリアムなら決してしなかったはずだ。
しかし、今のミリアムには、どうしても彼を呼び止める声が出なかった。
彼の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、その決意に救われてしまった自分。そして何より、真実と向き合う恐怖から逃げ出したいという卑怯な心が、彼女の足を縋り付くように重くさせている。
情けなくて、惨めで、たまらない。
ミリアムは、自分よりずっと小さかったはずの、けれど今は誰よりも大きく見える弟の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
* * *
それからミリアムは、絹の寝具の上で、ただ砂が零れ落ちるのを眺めるような無為の時間を過ごした。
やがて起き出してきたサロメが、不安げに「姉様、大丈夫……?」と顔を覗き込んできても、ミリアムの意識は遠い空を彷徨ったままだ。「ええ、そうね」と、問いかけと噛み合わない空虚な返事だけが唇からこぼれ落ちる。
どれほど時間が経っただろうか。部屋の外から、静寂を切り裂くような硬い声が響いた。
「ミリアム様、エルサレムより審問官の方がお見えです。昨夜の件について、お話を聞きたいとのことです」
ついに、審判の時が訪れた。
ミリアムはサロメを部屋に残し、鉛のように重い足を引きずりながら、案内された応接間へと向かう。
豪華な意匠が施された扉が開くと、そこには一人の男と、鈍い光を放つ甲冑に身を包んだ護衛たちが控えていた。
その中心に立つ人物の姿を認めた瞬間、ミリアムの喉が微かに震えた。
「……サウル」
その名を、ミリアムは呪文のように呟いた。
彼が来ることは、半ば予感していた。タルタロスの林檎の事件から続く数奇な運命の糸が、再びこの忌まわしい地で、彼と自分を引き合わせたのだ。
サウルはミリアムの姿を認めると、彫りの深い顔にわずかな、けれど明確な笑みを浮かべた。
「ミリアム。また会えて嬉しいよ」
その響きに、嫌味の色はなかった。むしろ、かつて彼女の鑑定眼に煮え湯を飲まされながらも、その才能を高く評価した者特有の、純粋な敬意に近い真実味がこもっていた。
しかし、彼はすぐに表情を引き締めると、肩をすくめてふっと息を吐き出した。
「まあ、もっとも。昨日の今日で、これほど血なまぐさい場所、こんな奇妙な事件で再会することになるとは、想像もしていなかったがね」
サウルは促すように手元を示し、「まあ、座りなさい」と、主人のような余裕を持ってミリアムに椅子を勧めた。
「さて、あなたも当然分かっているとは思うが……。昨晩、この油屋の主、ユダが殺された。しかも、十字架に見立てたオリーブの樹に打ち付けられて、だ」
サウルは屋敷の主人のことを「ユダ」と呼ぶ。無理もない、その男の真実の名が「シモン」であることなど、エルサレムの審問官が知るはずもないのだ。
「そして、君たちが屋敷の者を呼びに行っている間に、死体は消えた。……つまりだ、ミリアム。この事件が起こっているという根拠は、現在、あなたたちの証言にのみ立脚している。だから、敢えて聞こう」
サウルは身を乗り出し、その鋭い眼光をミリアムの瞳の奥へ突き刺すように向けた。
「あなた、本当に打ち付けられたユダの亡骸を見たのか? 夜の闇の中、酷い疲労と花の香りに当てられ、幻を見ていたわけではないと……断言できるのか?」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




