第2部3 ケリヨトの少女②
地下へ降りるにつれ、冷たく淀んでいた空気は一変した。
どこか甘ったるく、鼻を突くような濃密な花の香りが漂い始め、それと重なるように、大勢の人間が密やかに動く「生きた気配」が肌を刺す。
地下室の重い扉を開けると、強烈な甘やかな花香りが香ってきた。そして、そこには驚くべき光景が広がっていた。
城内から消えたはずの使用人たちが、一堂に会していたのだ。
中央には巨大な蒸留釜が鎮座し、立ち上る湯気の中で、彼らは一心不乱に植物を仕分けていた。花の香りはこのためだろうか?その中の一人が、侵入者に気づき、怪訝そうにミリアムたちへと歩み寄ってくる。
「……一体どういたしましたか。このような場所へ」
落ち着いた声。しかし、ミリアムの虚ろな瞳と、ナタンの青ざめた表情、そして二人が纏う「死」の匂いに気づいた瞬間、使用人の言葉は凍りついた。
「今日は10番目の満月の夜。油屋に集まり、皆で精油の儀を行うのが、この屋敷の古くからの規則でございます。……ですが、その様子、ただ事ではなさそうだ」
人が消えた理由は、あまりにも皮肉な「日常の儀式」によるものだった。
ナタンは震える声で、中庭で起きた凄惨な出来事をかいつまんで説明した。シモンの死、そして磔にされたその姿。
「そんな、馬鹿な……主様が!?」
「そんなことが、現実に起こるはずが……!」
静寂を守っていた地下室に、野火のような動揺が広がっていく。
「とにかく、確認してまいります!」と、数人の屈強な使用人たちが、松明を手に地上へと駆け出していった。
残された者たちの間には、形容しがたい不安と恐怖が渦巻いていく。
*
ミリアムは依然として、糸の切れた人形のように立ち尽くしたままだ。その限界を察したナタンが、せめてもの安息を求めて、残された使用人に問いかけた。
「……姉様を、どこかゆっくり休ませてあげられる場所は、ありませんか?」
ナタンの悲痛な響きを含んだ問いに、使用人は無言で頷き、奥へと歩き出した。
重苦しい蒸留釜が並ぶ一画を離れるにつれ、大気の質が一変していく。むせ返るような、肌に粘りつく花の蜜の香りが、霧のように廊下へと溢れ出していた。
香りの源泉へ向かって、ナタンはミリアムを支え、背中のサロメを気遣いながら足を進める。だが、その香りが最も濃く漂う最奥の重い扉に手をかけようとしたその時、「いけません」という鋭い制止が静寂を切り裂いた。
「この先は、主人の大切な保管庫。……許された者以外、決して足を踏み入れてはならぬ聖域です」
使用人の平坦な冷たさに、ミリアムは微かな悪寒を覚えた。これほどの惨状にありながら、彼らはなお「主人」の戒律を、血の通わぬ職務を、頑なに守り抜こうとしている。
扉の隙間から漏れ出してくるのは、芳香というにはあまりに濃密で、肺の奥まで侵食してくるような粘り気を持った臭気だった。
精製されたばかりのオリーブの香りの裏側に、何かもっと別の、重く、鉄の錆を思わせる何かが混じっているような――言い知れぬ不協和音。
(これは……一体、何の……?)
疑問が脳裏をかすめた瞬間、ミリアムは自分を支えるナタンの異変に気づいた。
彼は扉に手をかけたまま、石像のように凍りついていた。背負われたサロメの震えさえも届いていないかのように、その背中は異様な緊張で強張っている。
「ナタン……?」
掠れた声で名を呼ぶ。
ナタンはハッとしたように扉から手を離した。角度的に、今のミリアムから彼の表情は窺えない。
ナタンは何も答えず、ただ強く、折れそうなほどにミリアムの腕を掴み返した。
そして、何かを拒絶するように扉に背を向けると、逃げるような足取りで使用人の後を追った。
*
案内されたのは、甘ったるい花の香りが辛うじて和らぐ、使用人たちの簡素な休憩室だった。
ミリアムは力なく、差し出された椅子へ深く沈み込む。
ナタンは背負っていたサロメを、まるで壊れ物を扱うような手つきで、慎重に下ろした。サロメの小さな手は、見たこともない惨劇の余波に、今も小刻みに震えている。
ナタンはその手を両手で包み込んだ。
「サロメ、よく頑張ったね……」
ひどく静かで優しい声。彼は震える妹の背中を、一定のリズムでさすり続けた。
その温もりに安心したのか、あるいはあまりの恐怖に幼い体力が尽きたのか。サロメはやがて、死んだように深い眠りへと落ちていった。
室内には、サロメの重い寝息と、壁の窪みに置かれた燭台の油がパチリと弾ける音だけが響いている。
ナタンはサロメの傍らを離れると、物音ひとつ立てずに、使用人があらかじめ用意していた卓へと向かった。
静寂の中、陶製の水差しから銀のカップへと液体が注がれる、低く、重い音だけが耳に届く。
やがて、ナタンは私の前へと戻ってきた。
「……これを。飲んで。きっと落ち着くよ」
差し出された銀のカップの中には、濃い血のような色をした葡萄酒が揺れていた。
私はそれを一口、喉に流し込む。
冷え切っていた身体の奥底に、熱い塊が落ちた。そこから徐々に、痺れていた感覚が指先へと戻っていく。脳内に立ち込めていた深い霧が急速に晴れ、麻痺していた感情が、鋭利な痛みとともに息を吹き返し始めた。
「……姉様、よくここに人がいるってわかったね」
ナタンの掠れた声が、静まり返った闇に波紋を広げる。
彼は不思議そうに、けれど私の反応を窺うように問いかけてきた。
「ええ……。だってナタン、今日は『満月の圧搾日』でしょう? 昔からの掟だもの。最高の油を得るためには、風の止まった満月の深夜、地中の冷気が最も安定する貯蔵庫で、一気に不純物を沈殿させなければならない……」
ミリアムは葡萄酒を手にしたまま、言葉を零した。
「あの壺が、置かれていた場所。……あそこに、皆いるのでしょうね。今夜は、一年に一度、黄金が生まれる特別な夜。家中の者たちが、あるいは一族の存続を祈り、あるいはその滴りに野心を燃やしながら、油屋に籠もって『精製』の瞬間を待っているのよ」
ようやく身体の感覚が戻ってきた。思考の霧が晴れ、まともに働き始めた私の理性は、即座に目の前の異変を捉える。
「……ナタン……?」
目の前に立つナタンの顔は、まるで死人のように真っ青だった。
先ほどまで、あんなにも確かだったはずの足取り。私を導いた力強い手。
それがいま、唇からは血の気が失せて激しく震え、膝は今にも折れそうなほどに戦慄いている。
考えてみれば、当然のことだった。
あのような異様な惨状。先刻まで言葉を交わしていたはずの人物の、変わり果てた姿。
まだ幼さの残る少年が、そんな剥き出しの死に直面して、恐ろしくないわけがないのだ。
だというのに、この子は。
この子は、己の恐怖も、吐き気も、絶望も、そのすべてを心の奥底へ無理やり押し殺していたのだ。ただ「姉を守る」という一心だけで、死の充満したあの城内を、私の手を引き、サロメを背負い、必死に走り抜けてくれた。
胸の奥が、焼けるような痛みとともに締め付けられる。
私を支えてくれていた大きな力。それは、壊れそうなほど震えている少年の、精一杯の背伸びだったのだと、ようやく気づいた。
ナタンは、震える手で私を壊れ物のように扱い、幼子をあやすような手つきで、そっとその胸へ抱き寄せた。
「もう、大丈夫だからね、姉様」
私の背に回されたナタンの手が、ガタガタと音を立てそうなほどに震えている。
自分の方が死人のような顔をしていながら、こんなにも怯えていながら、彼の声だけはどこまでも優しく、献身的だった。
その腕の細さと、それとは裏腹な、命を削るような熱。それに触れた瞬間、私の中で堰き止めていた感情が一気に決壊した。
(ナタン……あなたはどうして、こんなに優しいの? どうして、こんなにも愛してくれるの?)
父の死に直面してなお、その「死」を鑑定の材料にしてしまうような、底知れず浅ましい人間だというのに。
自分には、この子に愛される資格などない。
そう強く自覚し、拒絶すべきだと思いながらも、自身の手は縋るようにナタンの背中を求めていた。彼の体温を離したくないと願ってしまう、この醜い自分自身が、たまらなく浅ましい。
ミリアムが背中に手を回したことに気づくと、ナタンはさらに深く、ミリアムの頭に顔を埋めた。
その重みが、ミリアムを罪の中に沈めていく。
「姉様、僕はね……」
ナタンの声にミリアムの中で渦巻く何かが溢れ出し、愛おしさと罪悪感が叫びとなって爆発しそうになった、その時――。
部屋の外から、静寂を切り裂く、控えたような声が響いた。
「――お入りしても、よろしいでしょうか」
使用人の声だった。
ナタンはビクリと肩を揺らしたが、すぐさま姉を守る「弟の顔」を取り戻し、ミリアムを庇うようにして入り口を振り返った。
*
扉の向こうに立っていた使用人は、先ほどまでの混乱を無理やり押し殺し、どうにか冷静さを取り繕っているようだった。しかし、その目元には隠しきれない狼狽が、剥がれかけの仮面のように色濃く張り付いている。
「……どうだでしたか? カシウス兄様は、もうこちらへ向かっていますか?」
ナタンの問いに、使用人は一瞬、言葉を詰まらせた。
「いえ、それが……」
「それでは、兄様はまだ中庭に? 誰か、警護の方をつけていただけましたか?」
畳みかけるナタンの声。だが、使用人は力なく首を横に振った。
「いえ、それも違うのです。カシウス様が、どこにも……いらっしゃらないのです」
「え?」
ミリアムとナタンの声が重なった。
「先ほど、中庭を確認しに行った者が戻ってまいりました。ですが、そこにはカシウス様のお姿はなかったと……。それどころか、お二人が仰った、オリーブの樹に掛けられた御遺体も見つからなかったというのです。どこを探しても、そのようなものは存在しない。皆、そう申しております」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
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※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




