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第2部3 ケリヨトの少女①

天へと苦悶するように伸ばされた太い枝が、重なり合い、夜の闇に巨大な十字架をつくる。

その十字架のような影の中に、誰かが打ち付けられている。

それはあまりに残酷で、酷く、そして――恐ろしいほどに静謐で美しい光景。

打ち付けられているその人は、裸近い状態で、わずかに腰に布を巻いているに過ぎない。その頭には、鋭い刺を持ついばらを編み込んだ冠が深く被せられ、額から流れた血が顔を汚している。

そして、無残に抉られた脇腹からは、今もなお鮮血が滴り落ち、根元の石畳に黒ずんだ赤い池を作っていた。

そして、月明かりに照らされた、その青白い顔。

月光に照らされ、中庭に屹立きつりつするオリーブの十字架。そこに磔刑にされた父、シモンの姿を前に、ミリアムは魂を奪われたかのように釘付けになっていた。隣でカシウスが肩を強く引き寄せ、烈火のごとく叫んだ。

「やめろ、ミリアム!見るな!」

その怒号は夜の静寂を切り裂いたが、今のミリアムの耳には、遠い海の鳴動のようにしか響かなかった。

目の前の光景から、一分いちぶたりとも視線を逸らすことができない。

月光の下、シモンの顔は現実感を失うほどに青白かった。その魂は、すでに肉体を見捨てて久しいのだろう。赤黒い血が今もなお、糸を引くように滴り落ちている。

(……あの脇腹の深い傷。あれが、彼の命を奪った決定打ことわりなのね)

ミリアムは息を呑み、その傷跡を凝視した。

(何でつけられた傷かしら。鋭利な刺し傷? それとも、力任せに引き裂かれた切り傷? 一体どんな刃が、これほどまでに深い絶望を穿ったというの……)

ミリアムの思考は、悲しみよりも速く、冷徹な分析を開始していた。

死体は、腰布一枚を除いてほぼ全裸の状態だ。なぜ脱がせた? 処刑の直前に、これほどの手間をかける合理的理由があるのか。

そもそも、なぜオリーブの木を十字架に見立て、彼を打ち付けた? 手のひらには確かに釘が貫通しているが、体重を支えているのは、肌に食い込むほどきつく巻かれた麻縄だ。そして頭上の茨の冠――あれは単なる装飾か、それとも何らかの比喩を伴ったメッセージなのか。

「…………」

視神経から流れ込む膨大な情報が、脳内で濁流となって渦巻く。

バラバラの断片がパズルのように組み合わさり、ミリアムの中で「鑑定」が凄まじい速度で加速していく。その過程で、彼女の内に妙な高揚感が芽生え始めた。

どこからか少女のくすくすと言う笑い声が聞こえる。これは自分の声か?

指先が微かに震える。全身を、全知に手が届くかのような万能感が支配していく。目の前の死すらも、真理を暴くための尊い「素材」に過ぎない。このまま意識の深淵へ沈めば、この悲劇の正体すらも、白日の下に晒せるはずだ。

(ああ……今の私なら、視える。この世に起こるあらゆる事象を、その根源から紐解くことができる)

その考えに至った刹那、夜気を切り裂く鋭い叫びが飛んだ。

視界の端で、震えるサロメをその胸に抱き寄せ、絶望と恐怖の入り混じった眼差しで自分を射抜く少年。

「――姉様!!」

あまりにも強い光を宿す眼差しと重なった瞬間、ミリアムを包んでいた万能感の波は、ガラスが砕けるような音を立てて霧散した。

「……っ」

急速に体温が奪われ、膝がガクガクと震え出す。

先ほどまで感じていた神のごとき高揚は消え、残ったのは吐き気を催すほどの自己嫌悪だった。

(私は……今、何をしていたの?)

確かに、自分には父の確かな記憶などない。

目の前で磔にされているこの男が、自分の血を分けた親であるという実感さえ、希薄なままだった。

けれど――あの日々、夢の中で追いかけ続けた、温かな没薬を纏ったあの背中。耳元で囁かれたあの声を、自分は切ないほどに愛おしいと、そう願ったはずではないか。

だというのに、私は今、何をしていた?

肉親の死を悲しむことも、その理不尽な最期に絶望することもなく、私はただ「鑑定」に没頭していた。いや、それだけではない。私はこの悲劇的な死を、職人としての好奇心を満たすための格好の素材として、醜くも「愉しんで」いたのだ。

自分の内側で、何か真っ黒なものが膨れ上がっていくのを感じる。

「……ナタン」

青白い月光をその身に浴びる、ナタンの輝く瞳。

ミリアムは救いを求めるように、その小さな顔へと震える手を伸ばした。

(違うの……私、そんなつもりじゃなかった。私はただ……)

お願い、私を見ないで。

愛しいあなたの瞳に、こんな私を映さないで。

声にならない叫びが喉を焼く。けれど、差し伸べようとした私の指先は、さっきまで父の傷口の深さを、麻縄の結び目を、冷徹に計り知ろうとしていた鑑定士のそれだった。

「……あ、っ」

自身の内に潜む、底知れぬおぞましさ。

月の光さえもが私を暴く刃に見え、視界は急激に暗転した。

指先から力が抜け、夜の冷気を孕んだ石畳へと崩れ落ちそうになった瞬間、カシウス兄様の逞しい腕がそれを抱きとめてくれた。

遠のく意識の端で、銀色の月光の下、ナタンが弾けるようにしてこちらへ駆けてくる姿が、滲んで消えた。

* * *

意識の糸は、いまや風前の灯火に過ぎなかった。

指先ひとつ動かす意志さえ、残されていない。

硝子玉のように生気を失った瞳で、ただ夜風に揺れるオリーブの葉影を数える。周囲の喧騒は深い水の底から響く異国の寓話のように、意味をなさぬまま鼓膜を滑り落ちていった。

彼女を抱きかかえるカシウスの腕。そこから漏れ聞こえる声は、どこまでも低く、酷いほどに冷静だった。

「ナタン。なぜここにいる。……お前も、あの悲鳴を聞いたのか?」

ナタンのその怯えきった表情を肯定と取り、質問を変える。

「大丈夫か、手首がひどく震えているぞ。……サロメも無事か?」

「……大丈夫。サロメも、あれを見て……ずっと泣いていたけれど。今は、少し落ち着いている」

(ああ、ナタン。あなたが来てくれた……)

その名を呼びたい。どうか私を嫌いにならないでと縋りつきたい。

けれど、今は、重い瞼を持ち上げるだけの熱さえ残っていなかった。

ナタンはなりふり構わず、カシウスの衣にしがみつく。

「それよりも、姉様は!? 姉様は大丈夫なの!?」

「落ち着け。案ずるな、ナタン。お前が来たことで、張り詰めていた糸が切れた……ただ、それだけのことだ」

自分自身を宥めるように、あるいは言い聞かせるように呟く。

そして、真っ直ぐにナタンを見据えると、怯える彼の肩を圧するように、大きく、確かな熱を持った手を置いた。

「――ナタン。ミリアムとサロメを連れて、ここを離れろ」

「……カシウス兄様は、一緒に行かないの?」

「行けない。俺はここに残り、この惨状がこれ以上汚されぬよう見張る。……さあ、行け。お前のその手で、二人を連れ出すんだ」

ナタンの唇が戦慄き、何かを言いかけた。

その刹那、カシウスは言葉を遮るように、宙を彷徨っていたナタンの震える手を己の掌で包み込み、無理やり握らせた。

その拳に、己の拳を静かに重ねる。

「ナタン。約束だ、覚えているな? ……お前が引き受けた、その役割を」

重なり合う二つの拳を、ナタンはじっと見つめていた。

やがて、その瞳から少年の迷いが剥落していく。代わりに宿ったのは、ひどく静かで平坦な、底知れぬ「覚悟」の色彩だった。

「……覚えているよ。姉様は、必ず僕が守る。兄様……『一番大事なもの』を、僕は絶対に守り抜く」

ナタンの手が、ミリアムの凍える指先に触れた。

その瞬間、死に体となっていた彼女の全身に、彼の指先から火を点したような熱が奔流となって流れ込む。

それは慈しみというにはあまりに重く、彼女の罪のすべてを焼き尽くし、吸い取ってしまうかのような、猛烈な体温だった。

ナタンはサロメを背負い直すと、地を踏みしめる確かな足取りで、ミリアムを支え歩き出す。

遠ざかるその背中に、カシウスの祈りにも似た、最期の託宣が届いた。

「……ナタン。後は、頼んだぞ」

中庭を吹き抜ける風が、かすかに花の香りと、重苦しい鉄の匂いを運んでくる。

「姉様、歩ける?」

私を掴む力強い手。そこから凍りついた身体は、少しずつ、少しずつ溶けていく。ナタンに引かれ私も歩き出す。

屋敷の中は、空恐ろしいほどに静まり返っていた。

広い回廊を駆ける自分達のの足音だけが、高い天井に跳ね返り、追いかけてくる。

本来なら控えているはずの使用人の姿も、部屋を整える者の気配も、どこにもない。

開け放たれた窓から吹き込む夜風が、主を失った広間の重いとばりを、幽霊のように揺らしている。

どこかで扉が風に煽られて鳴る音さえ、今の私には誰かの悲鳴のように聞こえた。

なぜ、これほどまでに人がいないのか。まるで屋敷そのものが、今起きた凄惨な出来事を恐れて、息を潜めているかのようだった。

ナタンは、その不気味なほどの空白を切り裂くようにして進んでいった。

角を曲がり、階段を駆け上がり、入り組んだ廊下を抜ける。

サロメの重みと、私の体重。

二人の命をその細い体で引き受けているはずなのに、彼の足取りは、何かに追い立てられるように速まっていく。

「大丈夫、大丈夫だからね、姉様……」

呪文のように呟くナタンの胸から、激しい鼓動が伝わってくる。

月明かりが、高い窓から床の石畳へと白い幾何学模様を描き出している。

その上を、私たちの影が、一つの大きな異形の怪物のように長く伸びては消えていく。サロメを背負い、私を抱えるナタンのシルエットは、もはや少年のそれではなく、何か別の生き物のように不気味に歪んでいた。

誰もいない。助けも、拒絶の声すらもない。

この巨大な屋敷に、私たちだけが世界から切り離され、取り残されてしまったような底知れぬ孤独。

(……この、不自然なほどの静寂は何?)

溶けだした心の中で、押し殺していた鑑定士の血が、本能的に計算を弾き出す。

使用人、兵士、家令。この城に満ちていたはずの数百の生命の拍動が、まるで丁寧に拭い去られたかのように、この中枢から消えている。

もし、彼らが父の死を知って逃げ出したのなら、もっと騒がしいはずだ。略奪の音や、怒号、馬の嘶きが聞こえてもいい。

「本当に、みんなどこへ行ったんだ……?」

焦燥に駆られるナタンの声が、湿った回廊の壁に跳ね返る。

ナタンの背中で、サロメはただ言葉を失い、小刻みに震えていた。幼い彼女には、この静寂が死そのもののように感じられているのかもしれない。

空虚な廊下を抜ける風が、不意に、どこか遠くから「熱」を孕んだ空気を運んできた。

その時、私の脳裏にひとつの結論が浮かび上がる。

パズルの最後の一片が、音を立てて嵌まった。

「……地下室」

ナタンが、弾かれたように足を止めた。

私の腕を掴む彼の指先に、力がこもる。

今夜は、一年に一度の特別な夜。

家中の者たちが、あるいは祈りを捧げ、あるいは野心に瞳を輝かせながら、その「精製」の瞬間を待ちわびる場所。

即座にナタンは私の意図を察し、言いようのない戦慄を瞳に宿しながらも、迷いなくその方向へ走り出した。

闇の奥、地下から響く微かな熱狂の気配を追いかけるように。

ーーあの壺が、置かれていた場所。……あそこに、皆いるわ。



表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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