第2部2 茨(いばら)の冠とオリーブの十字架④
それから、どれだけの時間が経っただろう。
あたりは不気味なほどの静寂が支配していた。カシウスはすでに腰の剣を抜き、逆手に構えて扉と窓を交互に警戒している。その鋭い眼光は、闇の中に潜むわずかな動機も見逃さないという気迫に満ちていた。
しかし、何も起こらない。
扉が激しく叩かれることも、誰かが廊下を駆ける足音もしない。
(……いくらなんでも、この静けさはおかしいわ)
ミリアムは荒くなる呼吸を整えようと、胸に手を当てた。
何があったかはわからない。けれども、絶対に「何か」は起きているはずなのだ。あの身を切るような断末魔の悲鳴。あれを聞き逃すはずがない。
「兄様……なぜ、誰も来ないの? なぜ使用人たちは動き出さないの……?」
ミリアムの震える声が、石壁に跳ね返って自分たちに戻ってくる。
本来なら、夜番の松明の明かりが格子の隙間から漏れ、交代する歩哨の軍靴の音が心地よい規則正しさで響いているはずだった。
それなのに、今の城はまるで巨大な墓標のように沈黙している。
まるで、生きている人間が自分たち二人だけになってしまったかのような錯覚。
カシウスにも判断できないのか黙って首を振る。
そのあまりの静寂に、ミリアムの「鑑定士」としての本能が、彼女の意思を無視して暴力的に胎動し始めた。
「……あ、……っ」
突如として、鼻腔を焼くような濃密な没薬の香りが部屋に充満した。それはシモンが漂わせていた高貴な香りとは違う。もっと生々しく、死の腐臭と混ざり合ったような、峻烈な「真実」の臭気だ。
ミリアムの視界が、チカチカと白濁する。
頭の芯で、巨大な銀の秤がギィ、と錆びついた音を立てて揺れた。彼女の脳は、恐怖で「見たくない」と拒絶しているのに、鑑定士の血が、網膜に映るすべての情報を強制的に数値化し、分類し、解析し始める。
(やめて……今は、やめて……!)
こめかみを突き刺すような激痛。
しかし、その痛みと引き換えに、闇に沈んでいた中庭の解像度が異常なまでに跳ね上がった。
ふと、視界の端に何かが映った。
石の格子の向こう、深い闇が溜まる中庭に、明らかに周囲の風景とは調和しない「異物」がある。
(――不整合。存在の矛盾。解析対象を検知。――)
脳内に響くのは、自分自身の声であって、自分ではない誰かの冷徹な宣告。
窓の外に何かある。
それは、夜の闇よりもさらに濃く、禍々しい気配を放っていた。ここからでは、それが風に揺れる影なのか、あるいは実体を持った怪物なのかさえ判然としない。
ミリアムは吸い寄せられるように窓枠に歩み寄り、冷たい石の格子に指をかけた。
「ミリアム、よせ!」
カシウスの制止が飛ぶが、それよりも早く、彼女は石膏の薄板を押し開け、身を乗り出した。
夜風が彼女の髪を乱し、鉄の匂いと、朽ちた樹液のような、胸を突く悪臭が鼻腔を抜ける。
ミリアムの瞳は、一点を見据えた。
中庭のシンボルのように立つオリーブの古木。その太い枝に、不自然な角度で何かが括り付けられている。
あそこに何かある。
何かはわからないが、確かに「存在」している。
その時、ミリアムの中に誰かの声が響いた。
(あれが、何か知りたいのでしょう? さあ、早く確かめに行きなさい)
それは没薬の声にも似ていた。しかしそうではない。それは紛れもなく、ミリアム自身の、あるいは彼女の血に刻まれた「鑑定士」としての飢えそのものの声だった。
一度認識してしまえば、その正体を暴かずにはいられない。
恐怖で膝が笑い、呼吸さえままならないはずなのに、鑑定士という呪いがミリアムの背筋を無理やり直立させ、獲物を狙う猛禽の視線を窓の外へと固定させた。
「……私、行かなくちゃ……」
ミリアムの口から漏れたのは、もはや少女の震え声ではなかった。
感情を削ぎ落とし、ただ対象の真贋を見極めるためだけに最適化された、鑑定士の響き。
夢遊病者のように、フラフラと部屋の外へ出ようとするミリアム。その肩をカシウスが掴んで止めた。
「おい、何をするつもりだ!? 外がどうなっているか分からんと言っただろう!」
「兄様……私、行かないといけないの。あれが何なのか、確かめないといけない。……一緒に、来て」
ミリアムが振り返り、カシウスを見つめた。
そこには先ほどまで弟妹を案じて涙を溜めていた面影はない。暗闇の中で、獲物の真実を射抜くためだけに澄み渡った、ガラス細工のような無機質な光が宿っていた。
カシウスは言葉を失った。
自分の腕の中で震えていた妹が、わずか数秒の間にこれほどまでに変貌してしまうのか。その異様な様子に驚きを隠せなかったが、同時に、彼女を止めることはできないとも悟った。そして、このままでは埒もあかない。
「……分かった。行こう」
カシウスは短く頷くと、剣を握り直した。
ミリアムは卓に残されていた、掌サイズのテラコッタ製オイルランプを握りしめた。
二人は部屋を飛び出し、誰もいない、冷たい石の廊下へと踏み出した。
* * *
震える指先で守られた淡いオレンジ色の炎は、パチパチと油の爆ぜる小さな音を立てながら、静まり返った廊下の闇をわずかに押し返している。
二人は部屋を飛び出した。
カシウスが前を行き、ミリアムはその背に隠れるようにしてランプを掲げる。廊下の高い天井に、カシウスの影が巨大な怪物のように伸びては揺れた。
屋敷のどこにも、争ったような傷跡や窓が割られたような形跡はない。あるべき場所に、あるべき調度品が整然と並んでいる。それなのに、いつもなら廊下を照らす壁の松明はすべて、誰かが丁寧に消して回ったかのように沈黙していた。
(……この屋敷は、もう「生きて」いない)
ミリアムの鑑定士としての眼は、ランプの微かな光を頼りに周囲を捉え続けた。
略奪も、破壊もない。ただ、人々の気配だけが、絹の糸を引くように静かに、かつ徹底的に削ぎ落とされている。
「兄様、あそこ……」
ミリアムがランプをかざした先、中庭へと続くアーチ型の扉が、黒い口を開けてわずかに隙間を作っていた。扉の表面には傷一つない。だが、その隙間からは、屋敷の清潔な空気とは明らかに異なる、重く、甘ったるい「没薬」の匂いが、夜風に乗って漏れ出していた。
カシウスが音もなく扉を押し開けた。
その瞬間、激しい夜風が吹き込み、ランプの炎が大きく寝た。
「……っ!」
ミリアムは咄嗟に身を屈め、籠を抱えるようにして火を覆った。
指の隙間から漏れる細い光が、闇の中に浮かび上がる光景を、断続的に、おぞましい鮮明さで照らし出した。
そこは、あの「オリーブの古木」が立つ中庭だった。
月が雲から完全に姿を現し、青白い光が中庭を支配する。
窓から見た「影」が、今、圧倒的な質量を持って目の前に存在していた。
月明かりに照らされる「それ」を見た時、ミリアムは最初、そこに巨大な十字架が立っているのだと思った。
青白い月の光に浮かび上がる、不吉な処刑具。
しかし、そうではなかった。それは、この中庭の主であるあのオリーブの古木だった。天へと苦悶するように伸ばされた太い枝が、重なり合い、夜の闇に巨大な十字架の影を落としていたのだ。
そして、二人は息を呑む。
「……あれは」
ミリアムの手から、テラコッタのランプが滑り落ちた。
乾いた音を立てて砕け、小さな火が石畳の上で最後の一掻きをして消える。だが、もはや灯りなど必要なかった。空に浮かぶ月が、あまりにも残酷に、その「真実」を照らし出していたからだ。
オリーブの枝を背に、その十字架のような影の中に、誰かが打ち付けられている。
それはあまりに残酷で、酷く、そして――恐ろしいほどに静謐で美しい光景だった。
打ち付けられているその人は、裸近い状態で、わずかに腰に布を巻いているに過ぎない。その頭には、鋭い刺を持つ茨を編み込んだ冠が深く被せられ、額から流れた血が顔を汚している。
そして、無残に抉られた脇腹からは、今もなお鮮血が滴り落ち、根元の石畳に黒ずんだ赤い池を作っていた。
月明かりに照らされた、その青白い顔。
ミリアムは、その輪郭に、その閉ざされた瞼に見覚えがあった。
「……シモン」
それは、夕刻まで確かに、この世の王のごとく雄弁に「黄金時代」を語っていた、館の主、その人だった。
「……そんな馬鹿な」
カシウスが、絞り出すような声と共にその場に崩れ落ちた。
守るべき王も、打倒すべき狂人も、そこにはいない。ただ、理不尽な死を遂げた「物言わぬ聖像」があるだけだった。
ミリアムは、ただ、その姿を見つめていた。
鑑定士としての眼が、その身体に刻まれた傷跡を、血の色を、茨の角度を、冷徹に記録していく。
夜の風が吹き抜け、オリーブの葉がサワサワと鳴る。
ミリアムはまだ知らない。
この静かな地獄は、これから起こる凄まじい嵐の、ほんの予兆に過ぎないことを。
そして、この月の光の下で、最愛の兄カシウスと共にいられるのは、今日この時が最後になるということを。
第2部2 茨の冠とオリーブの十字架 了
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




