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第2部2 茨(いばら)の冠とオリーブの十字架③

案内された部屋は、もはや「客室」という概念を遥かに超えていた。

床には、東方の職人が数年の歳月を費やして織り上げたという、吸い込まれるように柔らかなペルシャ産の絨毯が敷き詰められている。壁面には象牙の繊細な浮き彫りが躍り、天井から吊るされた青銅のランプは、蜜蝋の甘い香りを漂わせながら、黄金色の柔らかな光を投げかけていた。

二組の寝具には最高級の亜麻リネンが整えられ、その上に掛けられた高貴な紫のシルクは、月光を浴びた水面のように滑らかな光沢を放っている。聞けば、この部屋は普段、ローマから訪れる特別な賓客のためだけに開放される、選ばれし者のための場なのだという。

「二部屋ご用意させていただきました。お好きなようにお使いください」

使用人が音もなく気配を消すと、贅を尽くした室内には、逃げ場のない沈黙が降りた。

カシウスが、自嘲気味な溜息と共に絞り出すような声で言った。

「……少し、一人で考えたいことがある。お前たちはあちらの部屋を使ってくれ。俺のことは構わなくていい」

揺れる火影がカシウスの横顔を深く削り取り、そこには巨大な重圧に軋む一人の男の、剥き出しの疲弊が刻まれていた。

「ナタン。……ミリアムのことを、守り抜けるな?」

カシウスの問いに、二人は顔を見合わせた。以前のような危うさは消えた。だが、今のカシウスを支配しているのは、自ら暗い淵へ沈もうとする者の孤独だ。彼を独り、この闇の中に放っておくことに、ミリアムは耐えがたい恐怖を感じていた。

「……兄様。私、今夜は、あなたと同じ部屋で過ごしたい」

ミリアムは自分でも驚くほど切実な声で、その言葉を絞り出していた。

鑑定士として「ユダ」という名の底知れぬ深淵を垣間見、さらに兄が決定的な何かを隠しているという直感に苛まれている今、彼から目を離すことは、そのまま彼を永遠に失うことと同義に思えたのだ。

カシウスは驚いたように目を瞬かせた。だが、縋るような彼女の指先の震えに気づくと、諦めたように微かに唇の端を歪めた。

「……いいだろう。今夜、ミリアムは俺が預かる。その代わりサロメのことは、お前が責任を持って守れ。……それでいいか、ナタン」

問いかけるカシウスの視線を、ナタンは真っ向から受け止めた。その瞳には、かつての甘えん坊の面影と、それを必死に押し殺そうとする「自負」が混ざり合っている。

「……うん、約束だよ、兄様。お互い、自分にとっての『一番大事なもの』を、絶対に守り抜くって。たとえ……何があっても」

ナタンの声は、静かだが固い。その瞳の奥に宿る、信仰にも似た強い光。

(ああ……私が恋をした男の子が、こんなにも私を支えようと、必死に頑張ってくれている)

こみ上げる愛おしさを悟られるのが恥ずかしく、ミリアムは顔を隠すようにナタンに歩み寄った。そして、眠るサロメの額に、次にナタンの煤けた頬に、祈りを込めるように柔らかな唇を寄せた。

「おやすみ、ナタン。……サロメをお願いね。信じているわ」

溢れそうになる涙を堪え、ミリアムは急き立てられるようにカシウスの手を引いた。カシウスもまた、ナタンの肩を一度だけ、これからの過酷な運命を詫びるように強く叩き、無言で隣室へと歩を進める。

「おやすみ、兄様。姉様」

振り返ると、扉の隙間から、幼い妹を背負ったまま小さく手を振る少年の姿が見えた。

その顔には、先ほどまでの大人びた決意の表情が嘘のように、どこか寂しげな色が滲んでいる。その姿に、かつて泣きながら自分のスカートの裾を必死に掴んでいたあの頃のナタンが重なり、ミリアムの胸は締め付けられた。

行かないで。そう言いたげな彼の瞳に、不意に後ろ髪を引かれる想いに囚われる。

だが、その迷いを断ち切るように、重い木扉は静かに、そして決定的に閉ざされた。

ここからは、カシウスとの「真実」を巡る、長く孤独な夜が始まる。

ミリアムは、吸い込まれるように柔らかな亜麻リネンの寝具へと身を沈めた。

指先から伝わる上質な布の感触。故郷を追われ、砂塵に巻かれる放浪の旅が始まってから今日まで、張り詰め続けていた身体の芯の疲れが、堰を切ったように一気に噴き出してくる。

少し夜風に当たってくると言い残し、部屋を出ていたカシウスが戻ってきた。その微かな気配と、聞き慣れた足音に安堵し、ミリアムが重い瞼を閉じようとしたその時だった。

隣の寝具から、カシウスがポツリと、独り言のように呟いた。

「……お前と二人きりになるのは、久しぶりだな」

その低い声に、ミリアムは不意に胸を突かれた。

「……そう言われれば、そうね」

最近は、幼いサロメを気にかけ、ナタンの成長に寄り添う「姉」としての時間があまりに多すぎた。だが、あの子たちが自分たちの人生に加わる前は、ずっとこのカシウスと二人きり、職人の一族として寄り添い、支え合って生きてきたのだ。

カシウスの隣で、ただの「妹」でいられたあの日々。

暗闇の中で、急に妹としての情動が、抑えがたい衝動となって込み上げてくる。

(ねえ、兄様……そっちへ、行っていい?)

子供のように甘えて、カシウスの腕の中に潜り込みたい。怖かった、疲れたと、すべてを投げ出してしまいたい。

けれど、ミリアムはぐっとその言葉を喉の奥で押し止めた。

ナタンに対しては「姉の権限」を存分に振るい、甘やかされ、わがままを通している自覚がある。その一方で、今ここでカシウスに「妹」として縋ってしまうのは、自分の中の何かが許さなかった。

(私は、あの子たちの『姉』なのだから)

自分に言い聞かせるように、ミリアムはシーツを強く握りしめた。

同じように、カシウスもまた遠い日を数えていたのかもしれない。

天井の闇を見つめたまま、彼は追憶に浸るような低い声で言葉を継いだ。

「お前は昔は、泣き虫だったな」

不意に投げかけられた言葉に、ミリアムは小さく肩を揺らした。

「いつも何かにつけては、わあわあ泣いて俺にしがみついていた。……本当に、可愛かったな」

カシウスの口調は、まるで壊れやすい宝物を撫でるかのように穏やかだった。そこにはシモンの前で見せた殺気も、職人としての厳格さも微塵もない。ただの兄の顔があった。

「いつの頃からだろうな。お前が泣かなくなったのは」

カシウスは一度言葉を切り、深い吐息を漏らした。

「俺の背中を守ってくれるようになり、たくましくなった。……けれど、それを少しだけ寂しく思うなんて、贅沢なんだろうな」

その言葉が、ミリアムの心の奥、一番柔らかい場所に触れた。

自分が「姉」として立ち振る舞うために封じ込めてきた涙が、カシウスの「寂しい」というたった一言で、今にも堰を切って溢れそうになる。

たくましくなったと言ってくれた。背中を守っていると認めてくれた。

それは誇らしいことのはずなのに、カシウスがそれを「寂しい」と言ったことで、ミリアムは初めて、自分がどれほど「守られる妹」の座を恋しく思っていたかを突きつけられた。

ミリアムは唇を噛み締め、溢れそうになる雫を必死で堪えた。

(今、泣いてしまったら……本当に、子供に戻ってしまう)

カシウスが今、なぜこんな話を自分にするのか。

その理由を「鑑定」しようとする思考さえ、今のミリアムには働かなかった。ただ、暗闇の中で自分を見守る兄の気配だけが、痛いほど優しく、そしてどこか遠くへ行ってしまいそうなほど、頼りなく感じられた。

カシウスの言葉を聞きながら、ミリアムはふと、先ほどまで対峙していたシモンのことを思っていた。

(ひょっとしたら、あの人も同じなのではないかしら……?)

宴の席で見せた、サロメの無邪気な反応を慈しむようなあの表情。あれも、かつての自分たちと過ごした日々を思い出して、ふと懐かしくなってしまったのではないか。

かつてあの人が何をしたのか、本当のところは分からない。けれど、取り返しのつかない何かをして、兄様と私を捨てた。それでも……そのことが、あの人自身も寂しくなってしまったのではないだろうか。

もう二度と「師」とも「父」とも名乗りをあげることはできない。それでも何かをしたくて、ただそばにいたくて、私たちをここに呼んだ。そんな風な、淡い期待にも似た思考がミリアムの脳裏をかすめる。

しかし、そんな感傷を切り裂くように、カシウスの声が低く、鋭く飛んだ。

「ミリアム。――あの男はお前の父なんかじゃない。決して気を許してはいけない」

その一言は、暗闇の中で物理的な衝撃を持ってミリアムに突き刺さった。まるで彼女の内心を見透かし、甘い毒を即座に中和しようとするかのような、拒絶の宣告。

「……っ」

ミリアムが息を呑むと同時に、部屋の会話はぷつりと途切れ、あとはただ、夜の静寂だけが部屋を支配した。

それからは、起きていたのか眠っていたのかもよく分からなかった。

思考しているはずの流れでいつの間にか夢を見ており、夢を見ていたはずの流れでいつの間にか思考に沈んでいる。そんな、意識の深層が混濁するような心持ちだった。

微睡まどろみの中に、あのマカイロスで目にした光景が蘇る。

星見の盤。失われた聖櫃の表面に刻まれていた、「六芒星と槌」の紋章。

(……あれは、きっと父様が作ったものだわ)

ミリアムの脳裏で、バラバラだったピースが「鑑定」され、一つの形を成していく。

父シモンは、かつて一族から失われたはずの古代の技術すらその手にしていた、ベツアレム一族きっての異能の職人だったのだ。

おそらく彼は、その類まれな腕を請われるままに、イスカリオテのネットワークを通じて、このユダヤの地にあまりに多くの「奇跡の品」をばら撒かれた。

(そして……今、彼はそれをもう一度自分の手に戻そうとした)

微睡みの中、没薬の重く甘い声が、冷えた空気と共にミリアムの耳底に響く。

「……かつてモーセにより、エジプトの奴隷支配より脱出したユダヤの民。ユダ族のダビデは十二氏族をまとめあげ、イスラエルを建国した。その時よりユダ族は神より王たる座を約束され、王の血脈となったのだ」

声は、歴史のページをめくるように淡々と、しかし情熱を秘めて続く。

「ダビデの子、ソロモンの時代。イスラエルは趨勢を極めた。だが、光が強ければ影もまた深い。ユダ族の圧政に耐えかねた十の氏族は離反し、新たな国を作った。王国は北と南に分かれ、レビ族だけが、神殿を守るためにユダ族に従った」

ミリアムの意識の中で、地図が二つに引き裂かれる音がした。

「やがて、十氏族が作りし北イスラエルは滅ぼされ、民は流浪の民『ハルビー』となった。南ユダ王国もまた、正当な王を失い、今は偽りの王の下、ローマの属国として喘いでいる……」

声の主は、そこで深く、苦しげな吐息を漏らした。

「ユダが王を輩出する家系であれば、レビは祭祀を司る家系。そして、その二つを繋ぎ止めるものこそ、ベツアレムが作りし『祭器』。王と祭司、そして神の器。それらすべてが揃い、初めてソロモンの時代の栄光が取り戻せるのだ」

闇の中に、一点の光が灯る。それは父が求めて止まなかった「完全なる世界」の設計図。

「ユダの血脈、ダビデのすえ……救世主メシアは必ず現れる。だが、ユダの名を名乗る者は、その全霊をもってこの歴史の重荷を背負わねばならない。果たして、私にその資格があるのだろうか……」

問いかけは、答えを得ぬまま霧散していった。

* * *

その刹那、ミリアムは弾かれたように目を覚ました。

気がつけば、布団の中で「銀の籠」を壊れ物のように強く握りしめており、手のひらは嫌な汗でしっとりと濡れている。心臓が早鐘を打っていた。

(……今のは、何?)

激しい何かを聞いた、そんな確信がある。けれど、それが没薬の香る夢の中の出来事だったのか、それとも現実の音だったのか、判別がつかない。

しかし、それが夢ではないことをミリアムは即座に悟った。

「……ミリアム、お前も聞いたか」

低い、地這うような声。

暗闇の中、隣の寝具でカシウスが半身を起こしていた。彼は、何も映っていないはずの虚空を、まるでそこに「死」そのものが佇んでいるかのような鋭い眼光で見つめていた。

「今の……あの悲鳴を」

「悲鳴……?」

ミリアムの喉が震えた。

先ほどまで、歴史の重みに殉じようとする誰かの高潔な独白だと思っていたあの音は、肉体が裂かれ、魂が引き剥がされる断末魔の叫びだったのか。

二人が息を潜めた直後、再び、冷たい城の石壁を伝って「それ」が届いた。

今度ははっきりと聞こえた。一度目よりも低く、重く、そして絶望に満ちた、誰かの叫び。それはこの部屋のすぐ外、あるいは階下の庭園から響いてきているようだった。

「兄様、ナタンとサロメは……!」

ミリアムは半狂乱のまま、豪華な亜麻の寝具を跳ね除け、バッと外へ走り出そうとした。だが、その身体はカシウスの鋼のような腕によって強引に引き戻された。

「馬鹿、何やってるんだ! 外は危険かもしれないんだぞ。しばらく、ここで様子を見るんだ」

カシウスの怒声が、静まり返った部屋に響く。

「だって……だってあの子たち、ナタンとサロメに何かあったのかもしれないのよ! もし、本当に何かあったら、私、私……っ」

言葉にならぬ恐怖が溢れ出し、ミリアムは膝から崩れ落ちそうになった。全身がガクガクと震え、瞳には大粒の涙が溜まっていく。

そんな妹を、カシウスは無言で引き寄せ、その細い肩を力強く抱きしめた。

「大丈夫だ。……ナタンを信じろ」

耳元で囁かれる兄の声は、低く、揺るぎない確信に満ちていた。

「あいつは必ずサロメを守り抜く。……あいつだって、俺のことを信じているはずだ。兄様が、絶対に姉様を守り抜いてくれると。想像しろ、お前に何かあった時のあいつの顔を。あいつを悲しませるな。だから、俺の言うことを聞くんだ」

カシウスの胸の鼓動が、腕を通じてミリアムに伝わってくる。それは、恐怖を押し殺し、冷静さを保とうとする戦士の鼓動だった。

ナタンは、カシウスがミリアムを何よりも大切にしていることを知っている。だからこそ、自分もまたサロメを守り抜かなければならないと、あの小さな背中で覚悟を決めているはずだ。

ミリアムは兄の衣を固く握りしめ、溢れる涙をその胸に押し当てた。

カシウスの言う通りだ。自分がここで闇雲に飛び出し、捕らえられでもすれば、それはナタンの覚悟を無下にし、カシウスを絶望させることになる。

二人は、窓から吹き込む夜風の音に耳を澄ませながら、嵐がすぐそこまで来ていることを肌で感じていた。

カシウスに抱きしめられ、震えながら耳を澄ましていたミリアムにとって、その静寂は永遠のようにも、あるいはほんの一瞬のようにも感じられた。


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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