第2部2 茨(いばら)の冠とオリーブの十字架②
ユダの本当の名はシモン――。
ミリアムには、今、目の前で何が起こっているのか分からなかった。シモンという名が持つ禍々しい響きと、目の前の男が放つ圧倒的なカリスマ。その乖離に思考が追いつかない。
しかし、彼はは、硬直するミリアムを置き去りにするように、カシウスを見据えて言葉を繋いだ。
「カシウス。君は知っているだろう? ユダ……この名は、私の大切な人から貰ったものだ。私の、とても、とても大切な人からね」
その時だけは、男の声から鋭い刺が消え、深い、深すぎるほどの哀愁が滲み出た。それは魔術師の演技とは思えぬほど、純粋で重い響きを持っていた。
「あの日から、私はシモンという名を捨て、ユダとなった。自らの魂をその名に刻み、生きる糧としたのだ」
男は一転して、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「だが、カシウス。君がどうしても私をシモンと呼びたいのなら、好きにするがいい。過去の亡霊を呼び覚ますのも、また一興だ」
挑むような、そしてどこか慈しむような視線を向けられ、カシウスは迷いなく頷いた。
「ああ。そうさせてもらおう。……シモン」
その声には、もはや迷いも、かつての恐怖もなかった。ただ、一人の男として、この怪物と対峙する覚悟だけが宿っている。
ユダーーシモンは、その響きを懐かしむように目を閉じ、満足そうに低く笑った。
「ならば、過去の話は終わりだ。さて、本題に移ろう。……まあ、ちょうど良かった。それは私のこの『名』に関わる話でもあるからな」
シモンはゆっくりと立ち上がり、紫煙の中を回遊するように歩き出した。その足取りは優雅だが、一歩ごとに部屋の空気が張り詰め、ミリアムたちの肺を圧迫していく。
「君たちには、話すべきことが山ほどある。だが、まずは理屈を抜きに、私の意志を率直に伝えよう」
シモンは足を止め、ミリアムとカシウスを交互に、射抜くような眼光で見つめた。
「カシウス、ミリアム。ベツアレムの末裔たちよ。――君たちの力が、どうしても必要なのだ。どうか、私と共に来てもらいたい。そう、我らが師ヨカナンに仕える『十二使徒』として」
*
先ほどまで、一歩も引かずにシモンとやり合っていたカシウスだったが、そのあまりに唐突で壮大な提案は全くの想定外だったのだろう。彼は深く眉を潜め、喉の奥で唸るように言った。
「……話が見えないな、シモン」
シモンは、その疑念すらも楽しむように鼻で笑うと、手元のワインカップを手に取った。
「そうだろうな。君の困惑はわかるよ。カシウス」
シモンは、琥珀色に輝くワインを一口含み、舌の上でその転がすように味わった。
周囲はいつの間にか深い闇に包まれており、音もなく現れた使用人たちが、壁の燭台や置き型のランプに次々と火を灯していく。パチパチとはぜる灯火に照らされて、シモンの巨大な影が石壁の上で不気味に、そして雄弁に揺れていた。
「順を追って話そう。……時に、君は今のユダヤの民について何か思うところはあるかね?」
シモンは背後にある闇を背負うようにして問いかけた。カシウスは吐き捨てるように答える。
「知らん。俺は流浪の民だ。ベツアレムの職人として生きる術は持っているが、ユダヤの民など知ったことではない」
「そうだろうな。君ならそう言うと思ったよ」
シモンは微かに口角を上げると、今度はそのギラギラとした双眸をミリアムへと向けた。
「ミリアム、君はどうだ?」
ミリアムは、かつてヨシュアが語っていた言葉を、そして旅の途中で目にした人々の乾いた瞳を思い出していた。
「……閉塞感。今のユダヤの民が抱えているのは、とてつもない閉塞感だと思います」
ミリアムの言葉に、シモンは深く、満足げに頷いた。
「その通りだ。かつてこの地には十二の氏族があった。……しかし、その袂は分かたれ、残ったユダとレビの一族だけが国を作った。失われた十氏族は放浪の民となり、その多くは異邦の土地に取り込まれ、砂のように散逸した」
シモンは、まるで空中に見えない地図を描くように指を動かした。
「そして今、残されたユダとレビの王国さえも、ローマという巨大な帝国の前に平伏している。座っているのは、正当な血統すら持たぬローマの傀儡、ヘロデという名の王だ。……民は皆、心の底で叫んでいる。助けてくれ、この苦しみから、出口のないこの閉塞感から救い出してくれ、とな」
シモンはそこで一度言葉を切り、ランプの火をじっと見つめた。その横顔には、歴史の重みに耐える一人の巡礼者のような寂寥感が漂っていた。
「君たちも無論、知っているだろう? ユダヤの民に伝わる伝承を。ダビデの末裔、やがて来る救世主が現れ、すべての民を救うというあの物語をだ。皆、それに縋って辛うじて生きている」
シモンは自嘲気味に、しかし確信に満ちた声で続けた。
「だが、それももう限界だ。限界は……すぐに訪れる」
「……何がですか?」
ミリアムが問い返す。シモンはその鋭い双眸を細め、短く、刃のような言葉を吐き出した。
「暴動だよ」
その言葉の重みに、ナタンが息を呑む。
「この圧政に、そして希望という名の生殺しに耐えられなくなった者たちが、ついには理性を失って暴動を起こす。そしてローマはそれを待っている。暴動を絶好の名目として、彼らは迷うことなく大虐殺を行うだろう。それで終わりだ。ユダヤの民は、権力におもねるごく一部の裏切り者を除いて、跡形もなく滅ぶ。……そこに伝統も、誇りも、もはやありはしない」
シモンは拳を固く握り、まるで目の前に広がる血の海を押し留めるかのように突き出した。
「私はそれを止めたいのだ。滅びへと向かうこの砂時計を、力ずくで叩き割るために、それができるのは我らが師、洗礼者ヨカナン……ただお一人だ」
シモンの声には、鋼のような確信が宿っていた。
「あのお方に真のユダヤの王として立ち上がっていただき、散り散りになった全ての民意を統一する。我らの誇りを、この血脈を守るには、もうそれしか道はないのだ」
ミリアムの脳裏に、あのヨルダン川の情景が浮かぶ。
陽光を浴びてキラキラと輝く水面。その中で、ただ静かに、すべてを包み込むような穏やかな微笑みを湛えていたヨカナンの姿。
「……あの方は、その様なことをお望みとは思えませんが」
ミリアムは絞り出すように言った。彼女の視るヨカナンは、権力の座に座る王ではなく、魂を浄める無垢な祈り手だった。
「そうか。君はあのお方にお会いしているのだったな」
シモンは、どこか眩しいものを見るように目を細めた。
「ならばわかるはずだ。あの方であれば、誰もがその心を預けたくなる。理屈を超え、命さえも差し出したくなる絶対的な『神性』をお持ちであることを。……いいかね、ミリアム。不遜なことを言うようだが、あの方がそれをやりたいかどうかなど、もはや問題ではないのだよ」
シモンは一歩、ミリアムに歩み寄り、その影で彼女を覆い尽くした。
「問題は、『やれるかどうか』だ。その力を持つ者は、同時に、それを振るう義務を負わねばならん。民が飢え、殺されようとしている時、救う力を持つ者が『やりたくない』という理由でそれを見過ごすことこそが、最大の罪だとは思わないか?」
「それは……」
たしかに、失われる命を見過ごすことを正しいとは言えない。ミリアムは言い返すことができなかった。そんな彼女にシモンが畳みかける。
「あの方は聖人だ。だからこそ、泥にまみれる役割は私のような男が引き受ければいい。私はそのために、この手を、この名を、悪徳と策略で汚してきた」
「十二使徒もその策略のひとつか?」
カシウスの問いに、シモンは迷うことなく、むしろ誇らしげに頷いた。
「そういうことだ。ユダヤ十二氏族をなぞらえた十二人の高弟を、我が師の元に置く。これにより、民にヨカナンこそが正当に神より認められた『真のイスラエルの長』であることを知らしめることができる。目に見える形こそが、弱き民を導く光となるのだ」
シモンはさらに一歩、カシウスとミリアムに近づき、声を潜めて続けた。
「十二の席のうちに、君たちベツアレムの席も用意しよう。モーセと共に聖櫃を造り上げた伝説を持つ君たち一族が加われば、我が師の十二使徒には、どんな権力者も否定できぬ圧倒的な正統性が生まれる。これは私一人では成し得ぬ、ベツアレムという名の魔法だ」
*
カシウスは、その提案のあまりの巨大さに立ち尽くした。しかし彼は、シモンの熱のこもった弁舌に流されることなく、その眼光をより一層鋭く研ぎ澄ませた。正面からシモンを見据え、逃げ場を塞ぐように問う。
「……それだけか? あなたが俺たちベツアレムに望むのは、その『正統性』とやらだけか?」
その問いの裏にある意図を察し、ミリアムはハッと息を呑んだ。
ベツアレムが持つのは、単なる血筋の正統性だけではない。人知を超えた「権能」だ。あのマカイロスに隠されていた「忘却の聖櫃」を造り上げた技術、未来を読み解く「星見の盤」のような、理を外れた物質を生み出す超常の力。
誰であろうと、その「力」を欲しがらないはずがない。
しかし、星見の盤に刻まれていたのは「槌と六芒星」。とすれば、あれは彼が――。情報を整理するミリアムの前で、シモンは追及をいなすように、ふっと肩をすくめて見せた。
「カシウスよ。我らはアダムとイブを祖とする兄弟だ。助け合い、支え合って生きていかねばならない。君たちがそのように『皆の為に尽くしたい』と思う心こそが、私にとっては、何よりも尊いものなのだよ。そう思えるよう、私は尽くす事を約束しよう。ベツアレムの力が、新しい王国の礎として正しく振るわれるためなら、私はどんなことでもしよう」
そして、シモンは断言した。
「そして、我らの力があの方を、皆が待ち望む救世主とするのだ」
その聞きようによって、救済の誓いとも、あるいは甘い脅迫とも捉えることのできるシモンの物言いに、カシウスは苦々しく顔を歪めた。この男の言葉は、いつも真実と嘘が複雑に編み込まれた極上の織物のようだ。
カシウスは沈黙を破り、重い口調で問うた。
「……この話は、あなたが『ユダ』の名を継いだ時から、ずっと考えていたことなのか?」
シモンはランプの灯りに照らされ、影と光の境界線で佇んでいた。チロチロと揺れる炎が、彼の瞳の奥に宿る冷徹な計算と、どこか狂気じみた情熱を交互に浮かび上がらせる。
「ああ、そうだ。私はユダ。十二使徒の中で、最も力強き『ユダ族』を象徴するもの。あの日、この名を名乗った時から、私の進むべき道は決まったのだ」
外の世界はもはや、完全なる闇に支配されていた。
ランプの灯りだけが、シモンの彫りの深い顔に濃い陰影を落としている。
そこでシモンは、憑き物が落ちたようにふっと力を抜いた。
「少し、熱が入りすぎたようだな。すぐに答えを出せとは言わぬ。ゆっくり考えることだ。……カシウス、大事な家族を守るためにはどうしたら良いかをね」
その言葉には、先ほどまでの激しい煽動とは異なる、重く、粘りつくような響きがあった。それは暗に、従わぬ場合の代償を匂わせる「警告」のようにも聞こえた。
シモンがパンと手を叩くと、影の中から音もなく使用人が現れた。
「部屋を用意してある。長旅の疲れを癒すといい」
見れば、サロメが船を漕ぎ、今にも椅子から滑り落ちそうになっていた。ミリアムが慌てて抱き上げようとしたが、ナタンがそれを静かに制した。
「いいよ、姉様。僕が背負うよ」
ナタンは妹を背負い、一族の行く末という重圧に耐えるかのように、その小さな体をしっかりと支えた。使用人に案内され、三人が部屋を去ろうとしたその時。ミリアムはふと思いついたように足を止め、暗がりに佇むシモンを振り返った。
「……ヨシュア。ヨシュアはどうするのですか? あなたの掲げるその『正統性』をもって、彼のことも排除するのですか?」
シモンはやれやれというように大袈裟に肩をすくめて見せた。
「君はやはり、私のことを誤解している。私と彼は、洗礼者ヨカナンを共に仰ぐ同士だよ。諍いがあるように見えれば、それはただ、その『やり方』が違うだけのことだ」
シモンは揺れるランプの炎を見つめながら、独り言のように続けた。
「彼にも、無論十二使徒の席を用意してある。……そうだな、『レビ』なんてどうだろう? 気高く賢い彼には、これ以上なくふさわしい名ではないかな」
シモンはそう言うと、口の端を吊り上げ、薄く笑った。
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




