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第2部2 茨(いばら)の冠とオリーブの十字架①

「久しいな、ミリアム。しばらく見ない内に、随分とたくましくなったものだ」

その親密な、しかし支配的な響きを含んだ言葉が放たれた瞬間、部屋の空気は物理的な衝撃を伴って凍りついた。

カシウスの指先が、怒りと警戒で白くなるほど剣の柄を握りしめる。ナタンはサロメを抱いたまま、その背中に冷や汗を流しながらも、ミリアムを遮るように半歩前に出た。

ミリアムは、自分の心臓の音が耳元でうるさく打ち鳴らされるのを感じていた。

ミリアムは指が白くなるほど、手にした銀の籠を握り締めた。

(今、この男……なんて言ったの?)

心臓が早鐘を打つ。期待していたわけではない。むしろ、恐れていたはずだ。けれど、この男はあまりにも無造作に、あまりにも容易く、ミリアムが必死に追い求めてきた「真実」の境界線を踏み越えてきた。

ミリアムの脳裏に、数多の記憶が濁流となって押し寄せる。

胸の奥の虚無の正体、温かな没薬を纏った背中の夢。

鑑定の際、耳元で愛おしげに囁き、真実を暴けと煽るあの忌まわしい声。

そして、鑑定士という呪いそのもの。

それらすべての源流が、今、目の前で不敵に笑うこの男に繋がっている。

「……っ」

あまりの感情の交錯に、ミリアムが眩暈にも似た衝撃を受けて立ち竦んだ、その時だった。

「――あの忘却の丘で見かけた時は、まだほんの小娘だと思ったものだが」

ユダは背もたれに深く身を預け、まるで上質な酒の香りを愉しむかのように、目を細めて続けた。

「随分とご立派な『鑑定士』になられた。先程の鑑定士としての冷静な観察、そしてステパノを追い詰めた眼光。……ゲッセマネの主として家令の非礼詫びさせていただく」

その瞬間、ミリアムの全身からどっと力が抜けた。

張り詰めていた殺意や、爆発しそうだった激情が、梯子を外されたように宙に浮く。

(違うの……? 名乗りを上げたわけじゃ……)

ユダは、ミリアムの顔に浮かんだ困惑と、わずかな「落胆」を知ってかしらずか、彼は喉の奥で「くっくっく」と、この世の何よりも愉快なものを見たと言わんばかりに、低く、湿った音を立てて笑った。

「それから、忘却の丘での事。あの時の非礼も合わせて詫びさせておくれ」

その言葉に、ミリアムの心は激しくザワついた。あの丘で、自分を嘲笑うかのように立ち去った背中。あれは蔑みではなく、別の感情だったというのか。

「意外か? 君は私のことを、敵だとでも思っていたのかね? 可哀想に。あの金色の少年――ヨシュアにでも、何か余計なことを吹き込まれたのだろう」

ユダは座ったまま、まるで親愛なる知己に語りかけるような、甘い毒を含んだ声音で続ける。

「しかしね、私は君をとても高く評価しているのだよ。あの丘での君の演説……あの一瞬、私は打たれたように胸が震えたのだ。ああ、これこそが私が求めていた『瞳』であり『声』である、とな。だから今日、君と再びまみえることができて、私は心底嬉しいのだよ」

ユダの言葉には、一片の揺らぎもなかった。それは嘘をついている人間の顔ではない。彼は心から、ミリアムの才能を愛し、再会を喜んでいるように見える。

ユダは、旧知の仲である知己に向けるような親密な眼差しを、今度はカシウスへと向けた。

「そしてカシウス、私は君にもとても、とても会いたかったのだよ」

その声には、先ほどミリアムに向けたものとは異なる、プロフェッショナルな敬意が混じっていた。

「歴代の中でも随一、ベツアレム一の職人カシウス。私は君のことを、一人の表現者として、心より尊敬している。君にあえてとても嬉しく思う」

ユダの言葉を受け、カシウスの瞳に鋭い殺気が宿った。交わされた両者の視線の間に、一瞬、激しい火花が散ったかのような錯覚をミリアムは覚えた。

しかし、ユダはその張り詰めた殺気を楽しむかのように、ふわりと肩の力を抜いて言った。

「だが、こんな煙たい所では落ち着いて話もできない。君たちのために、ささやかな宴を用意してある。どうか、ゆっくりしていってくれ」

ユダがパン、と乾いた音で手を叩く。それを合図に、壁の影から数人の使用人たちが音もなく姿を現した。彼らはステパノほどではないにせよ、徹底的に訓練された無機質な動きで一礼する。

「御客人を宴の間へ。最高のもてなしをするように」

* * *

それからミリアムたちは別の部屋に運ばれていく。

ユダの言う「ささやかな宴」という言葉は、残酷なほどの謙遜であった。

案内された円卓には、荒野を旅してきた一行が目にしたこともないような、地中海の富を凝縮した豪奢な料理が並んでいた。

まず目を引いたのは、大皿に盛られた仔羊の香草焼きだ。贅沢にも貴重な蜂蜜とナツメヤシのソースがかけられ、その周囲を、高価な輸入品であるはずのエジプト産のレンズ豆や、ざくろの果実が彩っている。

さらに、ガリラヤ湖から直送されたであろう聖ピーターのティラピアが、新鮮なオリーブオイルと大量の香辛料で蒸し上げられ、白銀の皿の上で湯気を立てていた。

脇を固めるのは、ふっくらと焼き上げられた最高級の小麦のパンと、ピスタチオやアーモンドを練り込んだ菓子。そして、陶器の瓶から注がれるのは、キプロス島から運ばれたとされる、琥珀色に輝く最高級の熟成葡萄酒ワインだった。

「ねえ、ねえ、兄様! 食べていい? これ、全部食べていいの!?」

サロメが生まれて初めて見る美食の山に目を輝かせ、ナタンの袖を激しく引いた。ナタンは戸惑い、毒の混入を疑うようにカシウスへと視線を送る。

だが、ナタンが逡巡するよりも早く、カシウスは動いていた。

普段は誰よりも礼儀作法に厳しく、職人としての規律を重んじるカシウスが、目の前のワインカップをひっつかんだのだ。彼はそれを一気に煽ると、喉を鳴らして飲み干した。

さらにカシウスは、大皿の肉を無造作に手で掴み、わざと下品に見えるほどの勢いでガツガツと料理を貪り食いだした。

それを見てナタンは、これは「毒が入っているかどうか」を測るような、そんな次元の戦いではないのだと悟った。カシウスは、この場の毒気も、ユダの威圧感も、すべてを自らの胃に収めて無効化しようとしているのだ。

「……いいよ、サロメ。僕らも食べよう」

ナタンもまた、緊張で強張っていた胃を無理やり動かすようにパンを千切った。

ミリアムは、黙々と食事を進める二人の姿を見つめながら、自分もまた葡萄酒の入ったカップを手に取った。冷たいアルコールが喉を焼く。

(美味しいはずなのに……何も味がしないわ)

「ねえ、姉様も食べて。このお魚、すっごく甘いよ!」

サロメが無邪気に差し出してきた一口の身。ミリアムはそれを微笑んで受け取る。

ユダは、料理を頬張るサロメと、戸惑いながらも食事を進めるミリアムの様子を、まるで遠い日の記憶の中にある懐かしい光景でも眺めるかのように、細めた目で見つめていた。

「お嬢さん、果物は好きかね? ……あれをお出しして差し上げろ」

ユダが傍らに控える使用人に顎で合図を送ると、サロメの前に、黄金色に輝く大きな果実が差し出された。レモンにも似ているが、その表面はゴツゴツと無骨に波打ち、指で触れるだけで清涼な、しかしどこか陶酔を誘うような芳醇な香りが立ち昇る。

それはシトロン(エトログ)。「美の象徴」と讃えられ、神殿の祭りでも捧げられるこの特別な果実は、この地の渇いた土では決して育たぬ、遥か東方より運ばれた極上の品であった。

使用人がその黄金の果実をナイフで鮮やかに割り、中の厚い皮の部分をサロメに差し出す。サロメは躊躇うことなくそれを口に運んだが、直後、顔をくしゃくしゃにして「酸っぱーい!」と声を上げた。

その無邪気な反応を見て、ユダは「くくっ」と喉を鳴らして笑った。先ほどまでの、圧倒的な暴力性を孕んだカリスマの影が嘘のように消え、そこにはただ、子供のいたずらを見守る慈愛に満ちた男の顔があった。

「ミリアム、君もどうかね? 鋭くも美しい今の君には、この峻烈な香りを放つ果実こそがふさわしいと思うがね」

ユダの視線がミリアムに注がれる。それは先ほどまでの、彼女を「鑑定士という機能」として呼んだ冷徹な目ではなかった。一人の女性、あるいは娘としての彼女を認めようとする、ひどく熱を帯びた眼差しだった。

ミリアムは差し出されたシトロンを手に取り、その香りを深く吸い込んだ。鼻腔を抜ける鮮烈な香気が、紫煙と没薬に濁っていた思考を一時的に洗浄していく。

ナタンは、目の前で笑うユダの正体を暴き出そうとするかのように、その一挙手一投足を心に焼き付けながらじっと見つめていた。そんな少年の刺すような視線さえも、ユダは愉快そうに受け流し、彼に語りかける。

「少年、君はどうだ? なかなか食が進んでいないようだ。私は君のような勇敢な少年が空腹でいることには耐えられないのだ。今日のこの食事は、いわば君のために用意したようなものだ」

ユダの声は、どこまでも親密で、温かな響きを持ってナタンの鼓膜を震わせる。

「ナタン君、私は知っている。君がその姉にどれほど無上の愛を抱き、命をかけて守り続けているかを。……私はその様子を、あの丘で見ていたからね。いや、あの日だけではない。今日の様子を見れば一目瞭然だ。彼女がどれほど君を支えにして、ここまで生きてきたかを」

ユダはそこで一度言葉を切り、ミリアムを、そして再びナタンを見つめた。

「今日、彼女がこの地に無事に辿り着くことができたのも、君がいればこそだ。それを思えば、君に対しては何度頭を垂れようとも足りぬほどだよ」

そう言うと、ユダは本当にその椅子を立ち、あの大物然とした体を折ってナタンに頭を垂れようとした。そのあまりに真摯な動作に、ナタンは激しい困惑に襲われる。

(この人が、僕に……?)

ナタンが反射的に「待って、あなたは……」とその動作を止めようと手を伸ばした、そのすんでのところだった。

「――お優しいことだ」

カシウスの、凍てつく刃のような鋭い声が部屋を切り裂いた。

カシウスは手にした葡萄酒のカップを机に叩きつけるように置くと、立ち上がり、ユダを射抜くような視線で言い放つ。

「自身の野心のためなら、どれほど親しい身内であろうと、平然と切り捨てるあなただろうに」

その言葉を受けたユダは、一瞬、深い悲しみを湛えたかのように目尻を下げ、痛ましげな表情を浮かべた。

「ステパノ……あれも哀れな男だった。彼が私に向けていた忠誠が本物であったことは、私が誰よりも知っている。それを疑うつもりなど、毛頭ないのだよ」

ユダはそう言って、手元のシトロンの香りを惜しむように吸い込んだ。

「しかし、私はこの『油屋ゲッセマネ』の主だ。……法を曲げることはできぬ。法という名の秩序を一度でも曲げれば、この巨大な城を、そしてそこに住まう者たちの暮らしを保つことなどできはしないのだ」

彼は静かに立ち上がり、カシウスの正面へと歩み寄る。その歩調はゆったりとしていたが、一歩ごとに部屋の空気が重くのしかかるような圧迫感があった。

「優しい父であることと、厳格な城主であること――それは決して矛盾しないのだよ、カシウス。人は誰しも、そのような二面性、あるいはそれ以上の多重な面を抱えて生きているものだ。……ベツアレムの名を受け継ぐ家長として、一族という重荷を背負い続けてきた君ならば、その苦悩が分からぬはずもあるまい?」

カシウスの喉元が微かに動いた。ユダの言葉は、正論という名の鋭い刺となってカシウスの胸に突き刺さる。自分もまた、一族を守るために、己の感情を殺し、非情な決断を下してきた自負があるからだ。

カシウスは、食い下がるように鋭い問いを叩きつけた。

「……洗礼者ヨカナンこそがユダヤの真の王だ。そう語るその口で、ヘロデに忠誠を誓って見せる。それも、あなたの言う『二面性』のひとつなのか?」

その問いに対し、ユダは悪びれる様子もなく、むしろ教え子にことわりを説く師のような、穏やかな笑みを浮かべた。

「カシウス、私はね、決して嘘を言っているわけではないのだよ」

ユダは葡萄酒の入った銀の杯を弄びながら、その深紅の液体を見つめる。

「私はただ、その時々で必要とされる『真実』を述べているのだよ、それだけだ。あの丘ではあの真実が、そして先ほどは法の番人の前で語ったあの真実が必要とされた。世の理を動かすためには、語られるべき言葉があるのだ」

ユダは杯を置くと、不敵な笑みを深めた。

「まあ、いい。これからまた、私はこの場に必要な『真実』を告げよう。……今日、私がわざわざ君たちを呼び寄せた、真の要件をな」

しかし、カシウスがその言葉を鋭く遮った。

「その前に、聞かせてもらいたいことがある」

ユダは鷹揚に肩をすくめ、愉快そうに目を細めた。

「なんだね?」

カシウスは、腹の底から絞り出すような重い声で、正面からその男を見据えた。

「名だ。……あなたの本当の名を、教えてくれ」

その瞬間、豪華な宴の席を流れる空気が一変した。

ユダとカシウス。正体不明の怪物と一族の長として対峙する二人の間に、目に見えない火花が散り、時間が凍りつく。

「……そうか、名か。私の名」

ユダは反芻するように呟くと、この上もなく楽しいものを見つけた子供のように、肩を揺らして笑い出した。その笑い声は、並べられた美食の数々が腐り落ちてしまいそうなほど、不気味で禍々しい。

「いいだろう。教えてやろう」

ユダはゆっくりと立ち上がり、自らの影がミリアムたちを飲み込むように一歩踏み出した。

「私の真の名はシモン。――かつて、魔術師と呼ばれた男だよ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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