第2部1 斜陽の馬車、あるいは審判への序奏⑥
ステパノの口角が、ゆっくりと吊り上がった。
それは家令としての礼儀正しい微笑ではなく、自分の仕掛けた高度な知略を解き明かされたことへの、狂気的な歓喜の笑みだった。
「……お見事です、ミリアム様。理を知る者だけが辿り着く、美しい正解だ」
ステパノが腰の鍵の束を床に投げ捨てた。銀の音が響き、彼の輪郭が陽炎のように揺れる。
御簾の向こうから、冷徹な声が響く。
「ステパノよ。認めるのだな? 己の罪を」
ステパノは床に額をこすりつけたまま、震えるような声で、しかしどこか悦びに満ちた調子で答える。
「ええ、認めましょう、我が主よ。ミリアム様が解き明かした通り、細い管を操り、サイフォンの理によって聖なる油を抜き取ったのは、この私でございます。……しかし、それもすべては、あなた様を思えばこその振る舞い」
御簾の奥の影が、不快そうに揺らぐ。
「私の? 何を言う。家令でありながら私の命を違え、この地に『穢れ』を招いた罪、万死に値するぞ」
「とんでもない!」
ステパノが弾かれたように顔を上げる。その瞳には、家令としての冷静さは消え失せ、狂信的なまでの光が宿っていた。
「主よ、なぜ私があなた様の、この聖なる油屋を穢しましょうか? 断じてそのようなことはございません。この地を、そしてこの聖なる香油を真に穢すのは――あの卑俗なる男、ヘロデ・アンティパスにございます!」
ステパノの叫びが、石室の壁に反響した。
「あのような男に、あなた様の魂の結晶である香油を捧げるなど……。そんな屈辱に、私の忠誠心が耐えられなかったのです。私は、あなた様の純潔を守りたかった。香油をただの水へとすり替えたのは、あのような男に『本物』を触れさせぬための、私なりの浄化だったのです!」
ミリアムは、ステパノのその告白を聞き、背中に走る寒気がさらに強まるのを感じた。犯行の動機は、私利私欲ではなく、主への異常なまでの、そして独善的なまでの「愛」だった。
「ステパノよ、それは王への反逆だ。承知の上でそれを行ったというのだな?」
ユダの冷徹な問いかけに、ステパノは恍惚とした表情で言い放つ。
「無論でございます。あのような男、何を恐れることがありましょうか! あなた様の聖性を守るためならば、この命、王の剣に晒されようとも厭いませぬ!」
その傲慢なまでの忠誠の叫びが部屋に響き渡った、その瞬間だ。
「――聞かれたか、法の番人よ!」
御簾の奥から、ユダの鋭く、どこか勝利を確信したような声が飛ぶ。
「今すぐに法の名のもとに、この男を捕らえられよ!」
その声を合図に、静止していたはずの紫煙が激しく乱れ、部屋の四隅、そして闇の襞から、重厚な金属音を響かせて甲冑に身を包んだ兵士たちが一斉に姿を現した。
彼らは流れるような動きでステパノを取り囲み、抵抗する間も与えず、その細い両腕を背後で組み伏せ、冷たい枷を嵌める。
「な……ッ!? 主よ、これは一体……!」
困惑し、絶望に顔を歪めるステパノ。
その時、ミリアムとナタンが感じていた「第三の気配」の正体が、紫煙を割ってゆっくりと歩み出てきた。
革の鎧を纏い、法を執行する者の厳格な光をその身に宿した男。
「……反逆の言、確かにこの耳で拝聴した」
現れたのは、かつて「法の番人」としてミリアムたちの前に立ちふさがった男、サウルだった。
* * *
「……どうして、あなたがこんな所に」
ミリアムの震える問いに、サウルは低く、地響きのような声で応じた。
「ここはエルサレムを壁一枚隔てた向こう側だ。法の番人たる私がここにいたとして、何らおかしなことなどなかろう」
その言葉は以前と変わらず厳格だったが、ミリアムは不思議な感覚を覚えた。タルタロスの林檎を巡るあの事件の時、狂信的なまでに法に執着し、寄せ付けぬ峻烈さを放っていた彼の「険」が、今はどこか解けている。そんな気がした。
やがてサウルの鋭い視線が、ミリアムの右手に落とされる。そこには、今なおナタンと固く握りしめられた手があった。
「……彼は?」
サウルが怪訝そうに眉を寄せた。
一瞬、何を問われているのか分からず、ミリアムは呆然とする。ナタンはナタンだ。
けれど、ハッと気づいた瞬間に、ミリアムはナタンを自分の胸の前へ引き寄せ、バッと抱きしめた。髪に顔を埋め言う。
「……弟よ。私の弟」
ナタンは「……姉様、やめてよ」とでも言うようにミリアムの裾を引っ張る。
その様子にあの鉄仮面のようなサウルが、心なしか、ほんのわずかに頬を緩めたように見えた。
「……それで、どうしてあなたはここに?」
ミリアムの再度の問いに、サウルは一瞬逡巡した。だが、語るに及ばぬ隠し事ではないと判断したのか、重い口を開いた。
「このゲッセマスの主、ユダ殿にある疑いがかかった。私はその疑いを計る審問官として、ここへ来たのだ」
「ある疑い?」
ミリアムが聞き返すと、サウルは迷いのない声で断じた。
「ああ。ヘロデ王への謀反の疑いだ」
その瞬間、ミリアムの脳裏に鮮烈に浮かんだのは、忘却の丘での光景だった。あの丘で、ユダは「真に仕えるべき王はヨカナンである」と民衆に説いていた。その不穏な教えが、ヘロデ王を傀儡としてこの地を支配するローマの耳に入ったのだ。
ローマより依頼を受けた最高法院が、最も厳格な「法の番人」であるサウルを、実態調査のために派遣したのだろう。事態の重さにミリアムが息を呑む中、御簾の奥からユダの滑らかな声が響き渡った。
「王に謀反など、とんでもないことだ。サウル殿、我らが忠誠、今しがたご覧いただけたはず。……もっとも、あのような不心得の輩を懐に入れていたのは、我が不徳の致すところだ。心苦しい限りだよ」
ユダの影が、御簾の向こうで優雅に肩をすくめる。
「これからも一層、王への忠義に励もうではないか。……お互いにな、サウル殿」
*
サウルは、苦いものを噛み潰したような複雑な表情を浮かべていた。
法的にユダを縛る証拠は何一つない。そこにあるのは、長年仕えた忠臣すらも法に差し出す、ユダの冷徹極まる「忠誠」の形だけだ。これ以上、この場に留まることは無意味である。サウルはそう判断したのだろう。ステパノを連れ、兵たちと共に去ろうとした。
しかし、重厚な扉を抜けるその去り際、サウルは足を止め、ミリアムへと言葉を投げた。
「……ミリアム。あの男、ヨシュアがガマリエル様の元に再び現れた。そして、あなたに宛てた、ひどく曖昧な伝言を預かっている」
サウルの声は、その男の名を出すことすら忌々しげだった。
「『ゲッセマネにて、二つの奇跡が起こる。何があろうとその目を曇らせてはならない。すべては、あなたの心の内にのみ起こる真実なのだから』……だそうだ。相変わらず、食えない男だ」
法という鏡で世界を測るサウルにとって、内面の真実を説くヨシュアの言葉は、理解し難い詭弁に聞こえたに違いない。サウルは吐き捨てるように言い、ステパノを連れて歩き出した。
その刹那だった。
兵士に拘束されていたステパノの首が、不自然な角度でぎりりと回り、ユダの座る御簾を見据えた。
「我が主よ、私はあなたを愛しています。いつか必ず、その献身に涙しましょう。その日を、死の淵で待ちわびております」
狂気と恍惚の混じった声が部屋に反響する。ステパノはそのままミリアムへと向き直り、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべた。
「ミリアム様、真実の目を持つ鑑定士。……いつかまた、お会いしましょう」
ステパノは闇の向こうへと消えていった。
再び、沈黙が降りる。紫煙が渦巻く部屋の中には、ミリアムたちと、御簾の奥に潜むユダだけが残された。
ヨシュアが告げた「二つの奇跡」。
(香油の事件が一つ目だとしたら、二つ目は……?)
ミリアムは紫煙の向こう側を凝視した。
こうしてすべてが終わったその時、張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、サロメが声を殺してしくしくと泣き出した。ナタンはミリアムの腕をそっと抜け出し、小さなその身体を抱き上げる。
「……頑張ったね。怖かったね、サロメ」
ナタンの優しい声に、ミリアムもサロメの小さな頭を撫でながら、改めて背筋に冷たいものを感じていた。
怖かった。ナタンの言う通りだ。だが、その恐怖の正体は、ステパノの狂気でもサウルの威圧感でもない。目の前に座る、ユダという男の底知れなさだ。
忘却の丘であれほど民衆を扇動し、真の王を説いて見せたかと思えば、一転して法の番人の前では王への忠誠を騙り、その証として長年仕えた家令を平然と切り捨てて見せた。他者を利用し、状況に応じて変幻自在に姿を変える化け物。
(……自分たちが今日ここに呼ばれたのも、ただこの残酷な茶番に「鑑定士」という箔を付けるためだけに利用されたのではないか?)
そう思うと、震えよりも先にどす黒い怒りが湧き上がった。見れば、カシウスもまた、今にも剣を抜き放ちそうな険しい視線で御簾の奥を睨みつけている。
その時だった。
沈黙を保っていた御簾の中から、パチパチと、乾いた拍手の音が響いた。
「――見事だ」
その声は、先ほどまでの冷徹な審判者のものではなく、愛弟子や我が子の成長を喜ぶような、ひどく穏やかで温かみのある響きを帯びていた。それが、かえってミリアムの鳥肌を立たせる。
ゆっくりと、御簾が左右へと引き絞られていく。
紫煙が薄れたその奥に、一人の男が座っていた。
御簾が完全に払われたその先にいたのは、浅黒い肌に整えられた髭を蓄えた、端正な顔立ちの男だった。
その瞳は、深淵のような暗さと同時に、獲物を狙う野獣のような野心の光をギラギラと宿している。見つめているだけで、その眼光の渦に魂ごと吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
それは、ヨシュアが放つ圧倒的な神聖さで周囲を魅了し引き込んでいく美しさとも、洗礼者ヨカナンが持つ、凍えた心を溶かし全てを癒やしていくような温かな光とも、決定的に異なっていた。
目の前の男が放っているのは、抗う術を与えず、圧倒的な暴力と知略で全てを飲み込んでいく――破壊的なまでのカリスマだった。
男は、自らの血を分けた娘を品定めするかのようにニヤリと笑うと、重厚な声を響かせた。
「久しいな、ミリアム。しばらく見ない内に、随分とたくましくなったものだ」
地の底から響くような、重厚なバリトン。その親密な、しかし支配的な響きを含んだ言葉が放たれた瞬間、部屋の空気は物理的な衝撃を伴って凍りついた。
その響きに、ミリアムは自分たちがもはや逃げ場のない檻の中にいることを悟った。
かつて捨て去ったはずの過去が、圧倒的な力を持って今、目の前に立ち塞がっている。
逆らうことの許されぬ、冷徹な再会。
ベツアレムの血を巡る最も長く残酷な夜は、この一言をもって、静かにその幕を開けた。
第2部1 斜陽の馬車、あるいは審判への序奏 了
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
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