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第2部1 斜陽の馬車、あるいは審判への序奏⑤

三階の最奥。その扉は、それまでの豪奢な館の装飾とは打って変わり、一切の飾りを排した鉄のように重い黒檀でできていた。

「……ここが、主人の領域でございます」

ステパノが扉の前で足を止め、三人の前で深く膝をついた。それは家令としての礼節を超え、神に祈りを捧げる信徒のような、陶酔を孕んだひざまずきだった。

「主よ、ステパノでございます。お連れいたしました」

重い沈黙が数秒流れた。

やがて、扉の奥から、肺を直接握りつぶすような、くぐもった、けれど冷徹な重低音が響いた。

「……入れ」

扉が音もなく開き、一行は部屋へと足を踏み入れた。

そこは、窓のない巨大な石室だった。四隅に置かれた香炉から、紫色の煙が吹き出し、床を埋め尽くしている。部屋の最奥には、透けるほど薄い、けれど異様に密な絹の御簾が何層にも垂れ下がっていた。

その御簾の向こう側に、一人の男が座っていた。

逆光と煙に遮られ、その輪郭は定かではない。だが、そこから放たれる圧倒的な威圧感。

(間違いない……あの忘却の丘で対峙した、男。そして私の……)

ミリアムの喉が、無意識に鳴った。

しばらくの重苦しい沈黙の後、御簾の奥から声が発せられた。

「ステパノよ。なぜ客人をここへ連れてきた」

その言葉に、ミリアムは僅かに眉を動かした。カシウスもまた、不審げに目を細める。

「『穢れ』が払われるまでは、何人たりとも、例えベツアレムの末裔であろうと会わぬと申し付けたはずだ。……家令として、私の命を違えるつもりか」

その冷徹な問いに、ステパノは床に額をこすりつけるようにして答えた。

「……滅相もございません。我が主よ。しかし、この方達が主の目に叶うものか確かめねばなりません。それが家令たる私の務め。どうかお許しください」

ステパノの声には、一切の迷いがなかった。それは主人への盲目的な忠誠心というよりも、主人に代わって「審判」を行う権利を自らに与えているような、尊大で異様な響きが含まれていた。

ミリアムはおや、と思った。カシウスも怪訝そうな顔をしている。

(これはユダが私たちを試そうとした仕掛けではないの? この家令が、主人の命を無視してまで勝手に演じているというの……?)

御簾の向こうの「ユダ」は、しばらく沈黙した後、鼻で笑うような音を立てた。

「……ほう。ではステパノ、お前は我がゲッセマネの威信をかけて 鑑定士の目に穢れの正体を託したというわけか、ならばお前がこの場をおさめて見せよ」

推理を披露する直前、ミリアムは不思議な感覚を覚えた。

(……人の気配?)

この部屋には、御簾の奥のユダと、目の前のステパノしかいないはずだ。しかし、立ち込める紫煙の向こう側、濃密な空気の壁に遮られた闇の中に、何かが潜んでいる。

ナタンもそれに気づいたのだろう。彼は一歩も動かず、ただミリアムの右手をギュッと力強く握った。

ミリアムは小さく息を吐き、ナタンの手を握り返すと、自分を待ち構える「家令」へと向き直った。

御簾の奥から響いたあるじの声は、この場におけるステパノの独断を事実上追認するものだった。

主の許しを得たステパノは、陶酔にも似た満足げな笑みを浮かべ、静かに、しかし威圧的にミリアムへと向き直った。その立ち振る舞いは、一介の家令というよりは、獲物を袋小路へと追い詰めた審問官のそれだった。

「光栄の極みにございます。……さあ、ミリアム様。あなたのその瞳が、我が主のお力になるという証明をなさいませ。この『穢れ』の正体、しかと解き明かしていただきたい。一体、なぜ聖なる香油と水は入れ替わったのか。……これは天がもたらした奇跡、あるいは魔術なのでしょうか?」

ステパノの問いは、試すような冷たさを孕んでいた。

対するミリアムは、揺らぐことのない瞳で彼を見つめ返し、わずかに首を振った。その指先が、無意識に自らの視界を研ぎ澄ますかのように、こめかみを軽くなぞる。

「いいえ、こんなものは奇跡でも魔術でもないわ。物理的な道理に基づいた、人の手による簡単なトリックよ」

「ほう、人の手ですか。ではこの地を穢した不届き者がいるというわけですね」

ステパノは意外そうに眉を上げたが、その瞳の奥には嘲笑が透けて見えた。彼は芝居がかった仕草で周囲の闇を指し示す。

「それは一体、誰だと言うのですか? この厳重な守りを潜り抜け、主の至宝を冒した不遜なる影は」

「そうね。香油と水を入れ替え、この地を……いいえ、主人の顔に泥を塗った人物。それは――」

ミリアムの鑑定士としての眼が、ステパノの輪郭を捉える。

彼女の視線は、彼の腰に下がる使い込まれた「道具袋」、そして先ほどから微かに没薬の熱を放ち続けている「銀の鍵の束」へと、吸い寄せられるように固定された。パズルの最後のピースが、彼女の脳内で音を立てて嵌まった。

ミリアムはゆっくりと右手を上げ、迷いのない指先で、目の前の優雅な家令を真正面から指し示した。

「ステパノ、あなたよ」

彼の口から、クスクスという低い笑い声が漏れた。

指名されたステパノは、眉一つ動かさず、いつもの完璧な一礼を返す。

「これは……異なことを。ミリアム様、冗談にしては少々、家令としての私の誇りを傷つけます。私は昨日、皆様を迎える準備に追われ、宝物庫の鍵も一度も開けておりません。そもそも、鍵を壊さずに中身を盗むなど、人間に可能だと思われますか?」

「ええ、可能だわ。鍵を開ける必要さえないもの」

ミリアムは冷徹に、最初の一手を打った。

「第一の証拠は、あなたの彫刻刀の刃こぼれよ。あなたは備品の修繕と言ったけれど、あれは雪花石膏を抉り取った跡。……あなたは昨夜、宝物庫の外側、あるいは隣室の壁を削り、壺の安置された場所へ通じる『細い穴』を空けた。そして、そこにある仕掛けを施したのよ」

ステパノは、ふむ、と顎に手を当てた。

「……面白い想像だ。ですが、壁に穴を空けてどうやって中身を入れ替えるのです? 壺の封印は解かれていないというのに」

ミリアムは一歩前へ出た。彼女の手には、先ほど宝物庫の隅で見つけて拾い上げていた、細い銀のくだと、ステパノが「修繕用」と称して持っていた水差し、そして空のガラス杯があった。

「……あなたが利用したのは、奇跡などではない。この『大気の重み』と、『繋がろうとする液体の性質』……サイフォンの理よ」

ミリアムは皆が見守る中、台座の上に水差しを置き、それより低い位置にガラス杯を構えた。そして、銀の管に一度水を満たし、両端を指で押さえてから、一方を水差しに、もう一方を空の杯へと向けた。

「見ていなさい。これが、あなたが仕掛けた『見えない川』の正体よ」

彼女が指を離した刹那、水は重力に逆らうように一度管を昇り、それから吸い込まれるように下の杯へと流れ落ち始めた。

「わっ、……昇った!?」

ナタンが思わず声を上げ、身を乗り出す。

ミリアムが手を触れていないにもかかわらず、水は意志を持っているかのように溢れ出し続ける。その規則的な水の音だけが、静まり返った石室に響く。

「高い場所にある液体を、一度さらに高い場所へと吸い上げ、そこから一気に低い場所へと流し落とす。管の中が液体で満たされていれば、大気が液面を押し出す力によって、液体は鎖のように繋がったまま流れ続けるわ。一度流れが始まれば、それは誰の手も借りずに自律して動き続ける」

「……ひとりでに、流れてる」

ナタンの呟きに、ステパノがさも面白そうにつけ加える。

「……まるで、見えない意志が水を運んでいるようですね」

「ええ、その通りよ。あなたは宝物庫の壁の裏から、その『見えない川』を操作した……」

ミリアムは、流れ続ける水を冷徹な瞳で見つめながら、ステパノを指差した。

「あなたは封印された壺のわずかな隙間から二本の細い管を差し込んだ。一本で香油を外へ吸い出し、同時にもう一本で同量の水を流し込む。……水と油は混じり合わない。だから、入り口と出口の高ささえ計算すれば、封印を解くことなく、中身だけを物理的に入れ替えることが可能になるの」

ミリアムは杯が満たされる直前で管を引き抜いた。ピチャリ、と音がして、魔法のような水の流れが止まった。

ミリアムは杯が満たされる直前で、スッと管を引き抜いた。

ピチャリ、と音がして、魔法のような水の流れが止まった。

「……あ、止まった」

ナタンが呆然と呟く。まるで奇跡の魔法が解けた瞬間を目の当たりにしたかのような、拍子抜けした、それでいて残酷なほど明確な終焉だった。

「重さも、かさも変えずに本質だけを奪い去る……。それは魔術などではないわ。この世を遍く覆う『空気の重み』を利用した、あまりに冷徹なことわりよ」

流し終えた後の杯の水を、ミリアムは無造作に床へ捨てた。その冷たい水飛沫がステパノの足元を濡らす。その瞳に、僅かな光が宿り、口角がわずかに歪む。

「……仮に中身が入れ替わったとしても、あの芳醇な香りはどう説明なさる? 水になったのなら、油に溶け込んだあの濃厚な芳香まで消えるはずだ。鼻を突くあの没薬ミルラの薫香までも、ただの水に化けさせたとおっしゃるのですか?」

「いいえ。あなたはもっと単純な、人の『感覚の隙』を突いたのよ」

ミリアムは迷いなくステパノへと歩み寄り、彼の腰に下がる銀の鍵の束を指差した。

「それが2つ目の証拠。あなたの、その鍵の香りよ」

ステパノが微かに身を引く。ミリアムはその鍵の束に顔を近づけ、鋭く、けれど確信を持って言い放った。

「あなたは鍵を没薬の香油で清めていると言ったわね。でも、あの宝物庫に満ちていたのは、壁や天井に塗り込まれ、空気に焼き付けられただけの冷たい『幻影』。……対して、あなたの鍵から漂う香りは、あぶらに溶け込み、あなたの体温で温められ、生々しく変質しているわ」

「体温……?」

ナタンが怪訝そうに呟く。ミリアムはステパノを射抜くように見つめた。

「ええ。あなたは、中身が水に変わったことを隠すために、部屋中に没薬の樹脂をぶちまけて私たちの鼻を麻痺させようとした。けれど、油に溶け込み熟成された『生きた香油』の重みと、ただ壁に擦り付けられただけの『死んだ樹脂』の尖った匂いの差までは、私の瞳と鼻を誤魔化せなかったわ!」

ミリアムの手が、ステパノの銀の鍵を掴む。

「嗅いでごらんなさい。この鍵だけが、抜き取られた本物の『熱』を帯びている。……本質の在り処を、あなたの忠誠心が教えてくれているのよ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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