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第2部1 斜陽の馬車、あるいは審判への序奏④

馬車の車輪が、それまでの砂混じりの道から、美しく磨き上げられた石畳へと音を変えた。

視界を遮っていたオリーブの古木たちの合間から、その「館」は唐突に姿を現した。ゲツセマネ――ヘブライ語で「油を絞る場所」の名を冠するその地には、斜面を削り、巨大な石材を積み上げて造られた壮麗な建築物が鎮座していた。

夕陽を浴びて黄金色に輝く石灰岩の壁。その表面には、ベツアレム一族が誇る精密な浮き彫りとはまた異なる、どこか計算し尽くされた冷徹な幾何学模様が刻まれている。

「……これが、ユダ様の城って訳か」

カシウスが低く呟いた。その声には、富と権力に対する、隠しきれない嫌悪が混じっていた。

馬車が巨大な青銅の門の前で停止する。

門には、ユダの象徴である「一滴の油」を象った紋章が刻まれており、周囲には異様なほどの静寂が立ち込めていた。

「ねえ、兄様……。おかしいわ、誰一人、迎えが出てこないわ」

ミリアムが囁く。通常、これほどまでの賓客を迎えるならば、使用人たちが列をなして待機しているはずだ。しかし、門の向こう側からは人の気配がほとんど感じられない。ただ、風に乗って、あの鼻腔を刺すような没薬ミルラの香りが、馬車の中よりもさらに濃く漂ってきた。

ミリアムの「鑑定」の瞳が、門の隙間から溢れ出す空気の「色」を捉える。

それは、歓迎の色ではない。何かが損なわれ、混乱し、隠蔽されようとしている時の、濁った灰色だった。

重厚な門が、重い金属音を立ててゆっくりと開いた。その奥から、一人の男が音もなく歩み寄ってくる。

男は、パレスチナでは珍しい、折り目正しい上質なリネンのチュニックを纏っていた。腰には、館の全区画を支配する証である「銀の鍵の束」が、歩くたびにカチリ、カチリと事務的な音を立てている。

「ベツアレムの末裔、カシウス様。そしてミリアム様、ナタン様、サロメ様。お待ちしておりました」

男は深々と頭を下げたが、その瞳は一切笑っていなかった。

「私は、このゲツセマネの管理を任されております家令オイコノモスのステパノと申します」

「ユダ様はどうした。招待しておいて、出迎えもなしか?」

カシウスの威圧的な問いに、ステパノは表情一つ変えず、冷徹な声で答えた。

「申し訳ございません。主人は現在、私室にて『審判』を待っておられます。……残念ながら、皆様をすぐにお通しすることは叶いません。この館で、あってはならない『穢れ』が発生いたしましたので」

「穢れですか?」

ナタンが眉をひそめ、カシウスの前に一歩踏み出す。ステパノは淡々と、しかし決定的な事実を告げた。

「昨夜、主人が命よりも大切にされていた、ヘロデ王への献上品――『至高の聖香油』が、厳重な警備を潜り抜けた何者かによって盗み出されました。主人は今、怒りと絶望のあまり、どなたとも面会せぬと仰せです」

ステパノの指先が、腰の鍵を強く握りしめる。

「主人はこうも仰いました。『ベツアレムの瞳を持つ者が来たならば、その知恵でこの穢れを浄化してみせよ。さもなくば、面会は永遠に叶わぬ』と」

ステパノが微かに笑う。

「難攻不落のゲッセマネよりの香油の消失。いかがです、鑑定士様、これは奇跡でございましょうか?」

その挑むような表情に、ミリアムは確信した。これは試練だ。ユダは、自分たちがこの門を潜る瞬間に合わせて、精巧な「謎」を仕掛けてきたのだ。

「……いいわ。その『穢れ』、私たちが鑑定してあげる」

ミリアムがそう宣言したとき、館の奥から、不気味なほど冷たい風が吹き抜けた。

ステパノと名乗った男は、音もなく廊下を滑るように歩いていく。

カシウス、ナタン、サロメ、そしてミリアムがその後を追うが、石造りの回廊に響くのは四人の足音だけだった。ステパノが踏み出す足音は、まるで大気に吸い込まれるように一切の反響を許さない。

「……気持ち悪い男だな」

カシウスが低く唸った。職人として、あるいは戦士として、彼は対象の「重心」や「重み」で相手を測る。だが、前を行く家令の背中からは、質量というものが感じられなかった。

ナタンもまた、無意識に腰の短剣に手が伸びていた。その気持ちはミリアムにも痛いほどわかった。目の前の男はまるで「存在そのものが希薄な」異物だ。どれだけ目を凝らしても、一度瞬きをすれば、その輪郭が背景の壁に溶け込み、忘却の彼方へ消え去ってしまいそうなのだ。

ミリアムは、必死に彼の背中を「鑑定」しようと試みる。だが、見れば見るほど、彼女の瞳は空転した。

(何なの、この人は……)

通常、人の背中には、その者が背負ってきた過去や血筋の重みが陽炎のように立ち昇る。しかし、ステパノの背後にあるのは、ただの「無」だった。まるで、たった今この廊下と共に生成されたばかりの、実体のない現象を追いかけているような感覚。あのアンドレといい、ユダの配下はこれほどまでに化け物じみた者ばかりなのか。

やがて一行は、館の最下層、分厚い岩盤を穿って造られた地下宝物庫の扉へと辿り着いた。

ステパノが腰の銀の鍵を鍵穴に差し込む。カチリ、と硬質な音が地下の静寂に鋭く響き、扉が開くと、中から冷え切った空気と共に、濃厚な「没薬ミルラ」の香りが溢れ出した。

中央の石造りの台座には、一族の者が目を剥くほど見事な、薄桃色の雪花石膏アラバスターでできた壺が鎮座していた。ステパノはそれを指差し、平坦な声で告げる。

「主人が最も愛された至高の香油、その壺でございます。ですが……昨夜、この中身は『穢れ』へと成り果てました」

カシウスが不審げに鼻を鳴らす。

「穢れだと? 匂いはこれほど立ち込めているじゃないか。盗まれたわけではないのか?」

「いいえ。盗まれたのであれば、まだ救いがありました」

ステパノはそう言うと、壺の滑らかな曲線を愛おしげになぞった。

「ご存じでしょう。この香油は、最上のオリーブオイルをベースに、選び抜かれた没薬ミルラの樹脂を幾日も浸し、その芳醇な『命』を余さずあぶらへと移し替えた至宝。死を退け、肉体を永遠に繋ぎ止めるための『聖なる防腐剤』なのです。……それが、姿形はそのままに、本質だけが奪われました」

「本質だと?」

「ええ。これこそが、主人が仰る『神の宿題』。ミリアム様、どうかその瞳で、この器の真実を射抜いていただきたい」

ステパノが台座の隣で慇懃に手を差し伸べる。その時、ミリアムは見てしまった。台座を照らす松明の火が揺れた瞬間、ステパノの顔の影が、一瞬だけ「老人のような深い皺」に歪み、次の瞬間には「幼い子供のような滑らかな肌」へと揺らいだのを。

(……えっ?)

ミリアムが瞬きをした時、そこにはまた、あの「印象に残らない端正な青年」が立っていた。彼は何も気づいていないふうを装い、鏡のような無表情でミリアムの鑑定を待っている。

「……ステパノ。あなた、今――」

ミリアムが言いかけたその時、カランと音を立てて何かが落ちた。それは一本の彫刻刀だった。ステパノはそれを優雅な動作で拾い上げる。

「失礼、備品の修繕も私の仕事ですので」

ステパノの言葉がミリアムの問いを柔らかく遮った。その声は、耳元で囁かれたようでもあり、はるか天井の闇から降ってきたようでもあった。

きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせながら、ミリアムは警戒を解かぬまま台座の壺へと歩み寄った。鑑定士の瞳を凝らし、壺の表面から放たれる「色の重なり」を読み取る。

(……おかしいわ)

壺の表面には、確かに最高級の香油が放つ黄金色のオーラが纏わりついている。没薬の香りも本物だ。だが、その「色」が、壺の内部から湧き出しているのではなく、まるで表面に塗りつけられた薄い膜のように、実体を伴わず浮いている。

ミリアムは意を決し、壺の封印に手をかけた。蓋を開けた瞬間、溢れ出したのはさらに強烈な芳香。しかし、中を覗き込んだミリアムの顔が驚愕に凍りつく。

「……水?」

そこには、香油特有の粘りも黄金の輝きもなかった。ただの澄んだ、どこにでもある「透明な水」がなみなみと注がれていたのだ。

「これほど香っているのに、ただの水だって?」

ナタンが横から覗き込み、指を差し込んでその液体を舐めた。

「……ただの水だよ。しかも、ひどく冷たいね」

「これだけ香油は香っているのに、中身は水。まるで魔術だな」

カシウスがステパノを鋭く睨む。だが、ステパノは揺らぐことなく、その端正な顔でミリアムを見つめ返した。

「左様でございます。鍵はかかり、封印も解かれず、香りは満ちている。にもかかわらず、本質だけが消え去った……。ミリアム様、鑑定士としてお答えください。香油は一体いつ盗まれ、水に成り代わってしまったのでしょう?」

ステパノが「存分にお調べください。時間はたっぷりとありますので」と場を外した後、三人は地下宝物庫の静寂に取り残された。

「……姉様、何かわかる?」

ナタンが尋ねる。彼はまだ、指先に残る「ただの水」の冷たさを不思議そうに拭っていた。

「分からない。兄様は?」

カシウスは宝物庫の入り口から台座までの距離を、自身の歩幅で測るように歩いていた。

「変だな、ミリアム。この部屋、埃ひとつない。ステパノは『完璧な管理』だと言っていたが……。もし、昨夜何者かが侵入して壺の中身を入れ替えたなら、どれだけ手際が良くても空気は乱れる。でも、この部屋の空気の澱み方は、数日前から誰も触れていない場所のそれだ」

「……つまり、昨夜の『盗難』そのものがなかったってこと?」

ナタンの問いに、ミリアムは小さく首を振った。

「いいえ。盗難は確かにあったわ。でも、それは『物理的な侵入』によるものではなかったのよ。……兄様、さっきステパノさんが落とした彫刻刀を見たでしょ?」

カシウスは記憶を辿るように、険しい目をさらに細めた。

「ああ。家令にしては珍しく、細工用の細い彫刻刀を数本差していたな。館の備品の修繕も自らこなすと言っていたが……それがどうした」

「あれ、不自然な刃こぼれをしていたわ。鑑定士の目で見れば明らかよ。あの欠け方は、昨日今日、石材のような硬いものに対して無理な力を加えたことで生じたものだわ」

推理を組み上げるミリアムの脳裏に、ふわりとあの禍々しい没薬の声が響く。

(……そうだ、その通り。もっと深く視なさい。あの男の嘘を、剥ぎ取ってやりなさい……)

ミリアムは小さく奥歯を噛み締めた。

(黙りなさい。あなたの力なんて借りない。私は私の瞳で、真実に辿り着くわ)

三人はステパノが戻るまでのわずかな時間、館の廊下や備品を調べて回った。ほどなくして戻ってきたステパノは、付かず離れずの距離を保ちながら、三人の背後を影のように守る。何を問うても、返ってくるのは「左様でございます」という、完璧だが血の通わない、空虚な返答の繰り返しだった。

(この人、本当に隙がないわ……)

ミリアムはステパノの背中を観察していた。彼は廊下を通る際、さりげなく花の向きを微調整したり、絨毯の僅かなズレを直したりする。その動作には、病的なまでの「秩序への執着」があった。

(あんなに秩序を愛する人が、自分の管理下で『穢れ』が起きるのを黙って見ていられるかしら?)

やがて、ミリアムは一つの矛盾に突き当たった。それは、宝物庫の台座に満ちていた「没薬の香り」と、先ほどステパノが差し出した「銀の鍵の束」から漂う微かな匂いの違いだった。

「……ステパノさん。一つ伺ってもいいかしら?」

ミリアムが足を止め、穏やかに問いかける。

「何なりと、ミリアム様」

ステパノが振り返る。その顔は、やはり夕闇の中でも驚くほど端正で、そしてやはり、驚くほど記憶に残らない。

「その鍵、毎日磨いていらっしゃるの?」

「はい。主人の財産を守るための鍵ですから、一日の終わりに必ず没薬の香油を塗り込み、清めております。それが私の仕事ですので」

ステパノは淀みなく答えた。ミリアムはその返事を聞き、胸の奥でストンと何かが落ちる音を聞いた。

(……わかったわ。どうやって『水』を『香油』に見せかけたのか。そして、なぜわざわざ彫刻刀で『あるもの』を削る必要があったのかも)

だが、ミリアムはそれを口には出さなかった。「宿題」の全貌は、おそらくこの館の主――ユダの待つ部屋で、すべてが繋がるはずだからだ。

「さあ、案内してくださる? 主人のお部屋へ。……犯人の目星、ついたわ」

ミリアムの言葉に、ステパノの睫毛が微かに揺れた。

「それは心強い。……主人は、三階の最奥、『沈黙の間』にてお待ちです。どうぞ、こちらへ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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